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五所川原駅という起点から立佞武多へ:『天衣紛上野初花』を巡る2つの映画と共に。

津軽五所川原駅に降り立つと、まず「駅前」という空間が異様に広いことに気づく。
それは単なる都市計画上の余白ではない。まして、駅前商店街がシャッター街と化した&老朽化したアーケードをとっぱらったためでもない。
ここは、夏になると立佞武多がそのまま通り抜けるための通路であり、言い換えれば、日常と祝祭が正面衝突する場所なのだ。

駅とは本来、人を運ぶ装置である。だが五所川原駅は違う。ここでは、巨大な物語そのものが移動する。

立佞武多は二十三メートル、十九トン。
七階建てのビルに匹敵するこの異形が、「ヤッテマレ、ヤッテマレ」という掛け声とともに、駅前を通過していく。その瞬間、駅は交通結節点であることをやめ、舞台装置に変わる。
私はその動線を頭の中でなぞりながら、立佞武多の館へと歩いた。

囃子という「形のない主体」

ねぷた祭りの主役は、灯籠だけではない。
むしろ本質は、笛・太鼓・手振鉦、そして掛け声が混ざり合って生まれる、形のない「鳴り物」にある。

五所川原の「ヤッテマレ」は、対抗する相手を挑発する言葉ではない。
虫送り、すなわち邪気や悪霊を地面に叩き落とし、追い払うための言葉だという。
攻撃ではなく、排除と浄化。
それは、敵を倒す英雄譚ではなく、共同体が不安を外に追い出すための声である。

ここで私は、青森の「凱旋ねぶた」、弘前の「出陣ねぷた」との差異を意識せざるを得なかった。
五所川原の立佞武多が「喧嘩ねぷた」と呼ばれる所以は、勝利でも出陣でもない、混沌そのものを引き受ける姿勢にある。

立佞武多の内部にあるもの

館内で立佞武多を見上げると、その威容よりも先に、構造物としての合理性に目が行く。
鉄骨トラス、分割された人形、膨大な和紙と針金。
これは信仰の産物というより、徹底的に設計された「可動する彫刻」である。

そして題材は、歌舞伎、軍記物、英雄譚。三国志、水滸伝、日本の合戦絵巻。
つまり、舞台芸術としての歌舞伎が、立体化され、都市空間を移動している。

帰途、私は、歌舞伎とは本来、劇場の中に閉じ込められるべきものではなかったのではないか、という考えに至る。
歌舞伎は、もっと乱暴で、もっと俗で、もっと路上に近い表現だったはずだ。

この感覚は、そのまま、歌舞伎が大衆のものだった昭和の時代劇へと接続される。

中でも、河内山宗俊――は、舞台の様式美を映画に移植したものではない。
本作を題材にした次に紹介する2人の映画作家は、歌舞伎を一度殺し、別の形で蘇らせた。
立佞武多が、歌舞伎の英雄を巨大な構造物として再構築するように、歌舞伎の悪党は、軽妙な会話と余剰者のリアリティによって再設計された。

五所川原駅前を通過する立佞武多を想像しながら、私は確信する。
この土地で受け継がれてきた表現の系譜は、舞台から路上へ、路上から映画へと、確実につながっている。

ようやっと前書き――「歌舞伎は難しい」と感じている人のために

「国宝」を見て歌舞伎に興味を持ったはいいが
・約束事が多そう
・様式が分からない
・どこから入ればよいのか分からない
そう感じて足踏みしている人は少なくない。というか、娯楽が多様な時代、じつに多いに違いない。

歌舞伎を楽しむ入口として、河内山宗俊ほど適した人物はいない。
なぜなら彼は、忠臣でも英雄でもなく、狡猾で、口が立ち、立場を利用し、しかしなぜか憎めない悪党だからだ。

河内山宗俊は、もともと天保年間に実在した人物であり、松林伯円によって「天保六花撰」の一人として講談化され、
河竹黙阿弥がそれを世話物歌舞伎『天衣紛上野初花』として完成させた。
ここで重要なのは、この系譜が一貫して「悪党を主役に据える」という選択をしている点である。
忠義や勧善懲悪ではなく、身分制度の隙間で生きる者の知恵とずるさを描く――それが世話物歌舞伎の本質である。

河内山宗俊は、江戸城のお数寄屋坊主という曖昧な立場を武器に、大名の権威を言葉とハッタリで揺さぶり、弱い立場の人間を救い出す。
この「悪党が権力をやりこめる快感」「啖呵一つで形勢が逆転する構造」こそが、歌舞伎世話物の醍醐味であり、現代人が最も直感的に理解できる歌舞伎的カタルシスである。

山中貞雄×三村新太郎の『河内山宗俊』(1936)は、この物語を人情と連帯のドラマとして映画化した。
一方、篠田正浩×寺山修司の『無頼漢』(1970)は、同じ河内山を虚構と権威をハックする存在として、70年代の感性で過激に解体してみせる。
同じ主人公、同じ骨格。だが立ち上がる世界は、驚くほど異なる。


この二本を続けて観ることで、歌舞伎が単なる「古典」ではなく、時代ごとに姿を変え続ける、きわめて現代的な表現形式であることが、理屈抜きに理解できるはずだ。

山中貞雄『河内山宗俊』解析――歌舞伎から映画へ、悪党が獲得した自由

河内山宗俊:河原崎長十郎
金子市之丞:中村翫右衛門
片岡広太郎(直侍):市川扇升
宗俊妾お静:山岸しづ江
丑松:助高屋助蔵
森田屋清蔵:坂東調右衛門

1. 成立史:講談・歌舞伎からの意図的な断絶

山中貞雄と脚本の三村伸太郎は、この歌舞伎的遺産を忠実に映画化する道を、あえて選ばなかった。
彼らが目指したのは歌舞伎を映画にすることではなく、歌舞伎が内包していた精神を、映画として再構築すること
であった。

2. 三村伸太郎脚本の決定的役割

本作はしばしば「山中貞雄の代表作」として語られる。
だが、今あらためて注目すべきは三村伸太郎の脚本性である。三村の特徴は明確だ。
• 軽妙だが説明的でない会話
• 主役よりも「余計者」に厚みを与える構成
• 正義や大義を語らせない倫理設計
• 弱者に寄り添いながらも、感傷に堕ちない距離感
河内山宗俊は、自らを義士だとも革命家だとも名乗らない。彼はただ、理不尽を見過ごさないだけの悪党である。

このスタンスは、後年のアメリカン・ニューシネマに見られる「ヒーローなき物語」「敗北を前提とした行動原理」に
驚くほど近い。
言い換えれば本作は、1936年に現れた、早すぎたアメリカン・ニューシネマ的映画なのである。

3. 河内山宗俊という人物造形

前身座の河原崎長十郎演じる河内山宗俊は、狡猾で、口が立ち、恐喝まがいの行為も辞さない。
だが彼は決して、冷酷な悪ではない。
• 人を利用するが、踏み潰さない
• 嘘をつくが、逃げ切らない
• 最後は自分が矢面に立つ
ここにあるのは、責任を引き受けるアウトロー像である。

歌舞伎における河内山の啖呵は、見得と様式によって成立するが、映画においては、言葉は現実に作用し、暴力と死を呼び込む。それでも彼は語ることをやめない。この姿は、「言葉を使うことでしか抵抗できない者」の原型であり、極めて映画的な存在だ。

4. 人情劇ではなく「自由の物語」

本作はしばしば人情劇として語られるが、核心はそこではない。
お浪、広太郎、三千歳――彼らは皆、身分と制度によって選択肢を奪われている。

河内山宗俊が行うのは、彼らを救済することではなく、一瞬でも自分で選ぶ自由を与えることだ。
その代償として、河内山と金子市之丞(演:同じく前身座の中村翫右衛門)は死ぬ。
この結末は美談ではない。だが、自由は、必ず誰かの損失の上に成り立つという冷酷な現実を、正面から引き受けている点で、極めて誠実である。

5. 映画史的位置づけ

『河内山宗俊』は、歌舞伎映画ではないし、勧善懲悪の時代劇でもないし、英雄譚でもない。
それにもかかわらず、時代劇というジャンルを内部から更新した。
新しい歌舞伎を目指した前進座、新しい時代劇を志向した山中貞雄、そしてそれを言語化した三村伸太郎。
この三者の協働によって生まれた本作は、日本映画において、「弱者・余計者・敗者」を主語にした物語の決定的な起点のひとつである。

結語

山中貞雄『河内山宗俊』は、過去の様式を保存する映画ではない。
それは、伝統を裏切ることでしか、自由に辿り着けないということを、1930年代にすでに示してしまった映画である。
だからこそ今も、この悪党は古びない。彼は正しくない。だが、正しくあろうとする世界に、最初に風穴を開けた男なのである。

篠田正浩『無頼漢』解析――救済なき悪漢たち:倫理を剥奪されたアウトロー像の構造分析

仲代達矢 - 片岡直次郎
岩下志麻 - 三千歳
小沢昭一 - 丑松
丹波哲郎 - 河内山宗俊
渡辺文雄 - 森田屋清蔵
米倉斉加年 - 金子市之丞

1. 悪漢=「倫理不在の実験体」としての魅力

本作の悪漢たちは、勧善懲悪の対極に位置する存在ではない。
倫理・成長・救済といった近代的物語装置から意図的に切断された人間群像だ。
• 誰一人として「改心」しない
• 行為に対する報いが必ずしも因果的でない
• 動機は浅く、衝動的で、しかし一貫している
この点で彼らは「人物」ではなく、社会実験に投入された役割(ロール)として機能している。
篠田×寺山がやっているのは、人間ドラマではなく価値観の撹乱テストだ。

2. 白塗りの悪漢たち──人格の剥奪と記号化

直二郎、森田屋、金子市に共通する白塗りは、異形性の強調ではない。人格の薄さ=倫理的空洞を視覚的に表現している。
• 直二郎:自我が未形成のまま母と女に依存する「空白の青年」→ 悪ですらない。判断主体になれない点で最も危険
• 森田屋:権力と金を纏った幼稚な欲望→ 最後に生き残るのは、行動原理が最も卑小だから
• 金子市:純粋な殺しの機能体→ 眉の薄さ=感情の不在。最も完成度の高い「悪漢」
白塗りとは、感情を削ぎ落とした社会的仮面だ。彼らは人間である前に「装置」なのだ。

3. 河内山宗俊(丹波哲郎)──悪漢の完成形

本作の実質的主役。理由は明確だ。
• 欺瞞を自覚している
• 嘘を演技として引き受けている
• 言葉(7・5調)を武器として使い切る
宗俊は唯一、自分が芝居の中にいることを理解している悪漢だ。だからこそ彼は魅力的で、独擅場を成立させ、そして退場できる。
他の悪漢が「堕ちていく存在」なのに対し、宗俊だけは最初から底に立っている。
この自己認識の差が、圧倒的な存在感の正体だ。

4. 小悪党・直二郎が「消える」必然性

直二郎が後半で物語から後退するのは欠陥ではなく、必然だ。
• 革命に加われない
• 芝居も打てない
• 母も女も切れない
彼は「何者にもなれなかった戦後的青年」の雛形だ。悪になり切れない者は、悪漢の物語では主役になれない。
この冷酷な序列が、本作の最も70年代的なリアリズムだ。

5. 悪漢世界の魅力=救済の不在

総括すると、本作の悪漢の魅力は以下に集約される。
• 救いが一切ない
• 成長物語を拒否している
• それでも構造は異様なほど緻密

だからこそ観客は、誰にも感情移入できないまま、悪漢たちの運動だけを冷静に観察させられる。
これは娯楽ではなく、アナーキーを素材にした構造映画だ。

結論

本作の悪漢たちは「カッコいい」から魅力的なのではない。
どうしようもなく、どうにもならず、それでも生き延びる者がいる──その不均衡そのものが、最大の見どころだ。

まさに、和製ヌーヴェルバーグが、マルチタレントなアウトローの組むことで初めて到達し得た、最も冷笑的で、最も誠実なアウトロー像と言える。

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後書き――河内山宗俊という「歌舞伎的OS」

河内山宗俊という人物は、「善か悪か」という問いでは決して測れない。

彼は
・身分制度の隙間に生き
・権威を恐れず
・しかし革命家でもない
という、極めて歌舞伎的な存在である。

山中×三村版では、河内山は人情の側に立つアウトローとして描かれる。
彼の死は無駄ではなく、次の世代へ何かを残すための、引き受けられた最期だ。

一方、篠田×寺山版では、河内山はすべてが虚構であることを知り尽くした演技者となる。
彼の啖呵はもはや人を救うためだけのものではなく、権威そのものを空転させるための言語行為=テロである。

どちらが「正しい」河内山か、という問いに意味はない。
重要なのは、歌舞伎という物語装置が、これほど自在に解釈可能であるという事実だ。

雪の夜、そば屋で直侍が恋人の行方を知り、清元節が哀切に流れ、未来のない恋が追っ手に引き裂かれる――
その情景は、様式を知らずとも胸に迫る。
河内山宗俊は、歌舞伎という巨大な伝統の中で、最初に観るにふさわしい「案内人」である。

この二本の映画は、歌舞伎を理解させようとはしない。
ただ、歌舞伎がなぜ今も生きているのかを、極めて実用的なかたちで体感させてくれる。

歌舞伎入門として、これ以上、率直で、誠実な入口はない。
そして、その接続点にこそ、2つの歌舞伎映画を置く必然性があるのだ。

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