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徴兵される人 徴兵を免れる人


1873年(明治6年)の主なできごとは下記のとおりです。

1.地租改正(ちそかいせい)の公布
2.徴兵令(ちょうへいれい)の発令
3.明治六年の政変(征韓論などをめぐる対立) 

徴兵令により、20歳になった男たちは兵隊として取られてしまうのですが、しかし、そこには例外がありました。つまり、徴兵を免除される人たちです。

1.家の跡取り
2.役人
3.学校に通う者
4.270円を支払える者
5.その他

金のある家の息子は戦争へは行っていません。日本で徴兵されたのは、主に農家の次男や三男たち。当時の270円は計算の基準(物価か給料か)によって異なりますが、およそ330万円〜900万円前後に相当しますので、庶民には到底支払える金額ではありません。

日本の近現代史を追うと「もつ者がもたない者を見捨て、差し出す」ことをくり返してきました。そのことにより働き手を奪われた貧しい村々ではあちこちで一揆が起き、そこへ鎮台の兵士が送り込まれ、罪のない農民を殺してきた歴史の上に今日の私たちが「何も知らないまま」生きています。

ちなみに、鎮台(ちんだい)とは明治時代初期に日本各地に設置された常備軍の拠点である「鎮台(ちんだい)」に所属していた兵士(軍人)を指します。また、当時の主な役割は、外国からの防衛よりも、国内の治安維持(士族の反乱や農民一揆の鎮圧)でした。

次に、一揆を語る上で触れなければならないのは「義民(義勇)」の存在です。長野県青木村は、古くから「夕立と百姓一揆は青木から」と言われるほど、青木村(旧上田藩領)は日本で最も百姓一揆が多発した地域の一

ここでは、江戸時代から明治初期にかけて実に5回の大規模な一揆が発生しました。青木村は東急電鉄の創業者である五島慶太の故郷ですが、確か五島の戸籍には「新平民」と記載されていたと思います。

ここで言う「義勇」や「義民」は、己の命を顧みない「正義」の戦いの民のことですが、
当時の百姓一揆は、単なる暴動ではありません。藩の不正な増税や役人の横暴に対し、地域農民の生活を守るために命がけで行った「直訴(強訴)」でした。 

「義民としての顕彰:一揆のリーダー(増田与兵衛や浅之丞など)は、願いが聞き届けられた後、当時の掟によって死刑(打ち首など)に処されました。しかし村人たちは、「自分たちのために命を捨てて圧政と戦ってくれた英雄」として彼らを「義民(ぎみん)」と呼び、神として祀り、その精神(不屈の反骨精神・正義感)を代々誇りとして語り継いできました。 

つまり青木村における「義勇」とは、「権力の圧政から郷土や弱者を守るために、自発的に命を懸ける」という独自の反骨精神を意味しています。 その後、 「義勇」という言葉が満蒙開拓少年義勇軍として使われてゆくのです。

江戸時代には「お上の圧政に抵抗する精神」だった義勇(義民)が、昭和の戦時下になると、国家(政府)によって都合よく意味を書き換えられ、「満蒙開拓青少年義勇軍」という国策のキャッチコピーに利用されることになります。 

これには、当時の日本政府や教育界による強力なプロパガンダ(宣伝)が背景にありましたが、「持つ者」「持たざる者」は個々の努力の前に「利権の有無」に触れなければなりません。また、「持たざる者が無知ゆえに持つ者を強力に下支えする構図」は、今も何も変わりません。大きな声が正しいとは限らず、また、富める者が貧しき者より優れているわけではありません。


☆☆あとがき☆☆

私の祖父と同郷というご縁で、歴史研究家と懇意になりました。満蒙開拓も地域差が大きく、その前段階として昭和の大恐慌や海外移民(今日の日系人と言われる人たち)といった「国策による棄民政策」を忘れてはなりません。

歴史研究家の従兄は、戦後10年の長き時間を経てようやく日本への帰国を果たしました。満蒙開拓少年義勇軍の最後の帰還者です。村では盛大に帰国の祝賀をあげたそうですが、本人は日本語に不自由な状況で、現地では身分を隠して中国人になりきり生き延びたといいます。帰国後も辛苦のかぎりを尽くし苦労の絶えない人生は悲惨だったと聞きましたが、当時15歳の彼を満蒙開拓義勇軍へ半ば強制的に送り込んだのは、国からノルマを課せられた村長や校長といった村の権力者たち。

日本の近現代史を追うと「もつ者がもたない者を見捨て、差し出す」ことをくり返してきたと先述したとおり、この構図は今も脈々と引き継がれています。


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