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掌編小説『となりのトロロ』


隣の部屋に、トロロが越して来た。
勘違いしないで欲しい、トトロではなくトロロである。
非常にくだらない掴みだと自覚してはいるのだが、話さずには居られないのだ。

引っ越しの挨拶に来た男は、四十代くらいで、まっくろくろすけのような髪型をしていた。
「隣に越してきた山掛です。これ、つまらないものですが。」
差し出された紙袋には、長芋が三本入っていた。

「ありがとうございます。」

「擦って下さいね。」

妙な挨拶だとは思ったが、もらったのが案外嬉しい物だったせいか、悪い気はしなかった。


翌朝、壁の向こうから、ゴリゴリゴリゴリ、という音が聞こえた。
目覚まし時計を見ると、午前五時半だった。

ゴリゴリゴリゴリ…。

長芋を擦っている。
なぜ分かるのかというと、私も昨夜やったからである。
この音は間違えようがない、山芋を擦る音だ。


翌朝も五時半に始まった。
ゴリゴリゴリゴリ。

三日目も同じだった。
ゴリゴリゴリゴリ。

私が壁を叩いてみると、音が止まった。
三十秒後、コンコン、と、誰かが玄関のドアをノックした。
開けると山掛さんが立っていて、左手にすり鉢、右手に山芋を持っている。
「うるさかったですか?」

「ええ、まあ…。」

「すみません。朝のトロロだけは欠かせなくて。」

「毎朝擦るんですか?」

「毎朝擦りたいです。」

「五時半に?」

「長芋が一番目覚めている時間ですから。」

そんな話は、生まれてから一度も聞いたことが無い。

「もう少し遅くできませんか?」

「分かりました。」


翌朝、五時四十分に始まった。
十分遅れたのは、快進撃と言えるのだろうか。
私は再び苦情を申し立てた。

それからというもの、山掛さんは静かになった。
ところが、静かになると不思議なもので、今度は気になってしまう。
朝六時になっても、音がしない。
七時でも、まだしない。
大丈夫だろうか。

八時になって、私は隣のチャイムを鳴らしたが、山掛さんが出てくることはなかった。
もう一度鳴らすと、ようやくドアが開いたのだが、山掛さんは憔悴していた。
「山掛さん、大丈夫ですか? どうしたんですか?」

「擦れないんです。」

「はい?」

「あなたに迷惑をかけると思うと、山芋を握る手が震えてしまって。」

そこまで追い詰めた覚えはないのだが、山掛さんにとってはすこぶる深刻だったようだ。

「別に、六時以降ならいいですよ。」

「本当ですか!!」山掛さんの顔が、急に開いた朝顔のように輝いた。


その日の夕方、彼はお礼だと言って大量のトロロを持って来た。
翌日はトロロ蕎麦、次の日はトロロご飯、その次はマグロの山かけ、さらにその翌日はトロロ焼きを持って来てくれた。
一週間後、うちの冷蔵庫の中が白くなった。

「もう大丈夫です。」

「遠慮しないで下さい。」

「遠慮じゃありません。」

「明日は自然薯が届きますから。」

「どこからですか?」

「実家の山です。」

「山掛さん、あなた、どうしてそんなにトロロが好きなんですか?」

「実家が長芋農家なんです。子どもの頃から毎朝食べていました。東京に出て二十年になりますけど、朝にトロロを擦ると、母親が台所にいるような気がするんです。」
山掛さんは、目を潤ませながら、しみじみとそう答えた。

私は何も言えなくなった。
そういう話を急に出すのは卑怯であると思った。

「…五時半でもいいですよ。」

「えっ。」

「目覚まし代わりにします。」

翌朝の五時半、隣から響くゴリゴリゴリゴリという音で、私は目を覚ました。
山掛さんの想いを知ってしまったせいか、この音がノスタルジックで感動的な音にさえ聞こえてしまう。
故郷の音というものは、本人だけでなく、壁一枚隔てた赤の他人まで妙に安心させる力があるらしい。

ゴリゴリゴリゴリ…。
そのうち私は、再び眠りに落ちた。

午前六時頃、ドンドンドンドン!という、ものすごい音で目が覚めた。

玄関を開けると、下の階のおじさんが山掛さんの部屋の前に立っていた。
「朝っぱらから何の音ですか!」

山掛さんは、また事情を話し、三本の山芋をおじさんに渡していた。


こうして我がアパートでは、苦情が出る度にトロロが配られるようになった。
半年後、住人全員の朝食が、強制トロロになった。
大家だけはパン派を貫いていたが、先月、ついに陥落した。

今ではこのアパートから出て行く者はいない。
なぜなら、みんな粘り強くなったからである。


ー おしまい ー



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