【感想】超かぐや姫!における友愛、あるいは親愛上の善及び悪徳について+【同時上映】私が受け取ったrayの文脈について
注意!こんな小難しい題にしているけれど、基本的に垂れ流しの感想。理屈もめちゃくちゃかもしれない。けれど超かぐや姫!をある程度咀嚼した今、ここで書くことに意味を見出したもの。
とりあえず、もっかい観ろ
いきなりなんだよお前、そう思うだろう。ネタバレ配慮なしの感想を見にきたのに突然Uターンしろなんて言いやがって。そう言う気持ちもわかる。わかるので別に今見なくて良い。読み終わってからでも良い。ふとした瞬間でも良い。脳裏に焼きついているならそこで再生するんだ。もうしてる?あ、そう……すごいね……うん、やばい……
まあそんな話はさておき。この話はライバーとして少女2人がのし上がる話と、その過程で育まれる友愛、あるいは親愛の話だ。もっといろはにフォーカスを当てて言うなら、「ドが付く完璧マジメ才女が、ツラの良いヘンテコ宇宙人に絆されて「上手くやる」ことを覚える話」だ。兄も「上手くやれ」と言っていたけど、それが主人公たるいろはのテーマだろう。全部全力でやるのは身が持たないから、適度に不真面目に悪であれ!そこでできた時間でやりたいことを全力でやれ!という話。
基本的に彩葉は何事も国内最上位を張れるほどやれる才女で、その上善人として描かれている。序盤に見せる息苦しい完璧主義もキツさもほぼ境遇から来る生活苦とムリムリ限界つらたんモードだから、というもので(もちろん、かぐやの放蕩ムーブもかなりある)、初っ端から「善」であることがこれでもかと主張されていた。
言うなれば「絶対善」、学校やバイトでさえ模範たる彼女は、自分自身の理想にそぐわない「悪」を許していないように見える。「学校は命よりも大事」、という言葉はその最たるものだろう。(皺寄せは自滅的なまでの息抜きなどに現れているが、そこは表立って見えない自己完結したものだからノーカンとしたい)
それが終盤になるにつれてどうですか。かぐやという個人のために自分の理想に妥協を重ねて、時には模試すらブッチし、バイトも仮病でサボり、最終的にはかぐや(=ヤチヨ)が「さすがにこれはちょっと」とあえて言わなかったことにまで踏み込んだんですよ。
特に最後は重大。というかここが一番言いたいところ。物語は終盤、ヤチヨが日本8000年の思い出話を一日中語り通して寝落ちした直後。
「まだかぐやが話していないことがあるでしょ」と追及する。くぎゅのウミウシが「本当にいいの?」みたいなことを言い出して、それにいろはが「それでも」と言う。基本的に「いろはに話したくなかったことだし、負担もすごいんだよ」という内容で、いろはを思いやるものだった。
これは正しく「善」の愛だ。社会性とも言うべき思いやり。親しき仲でも全然「隠し事」くらいするし、知らないこと、知られたくないことを知ろうとしないこと、知らぬを善しとする関係は、それだけできっと互いを尊重した関係。もっと知りたいと思う心と、しかし知らなくても良いとする心。それが同時に存在するのは、尊重という言葉がとても似合う。
だから、互いの尊重だけを語るなら、「いろはが踏み込まない」という択もあるのだ。いろはにはその選択肢があった。ご丁寧にどっちか選べと提示までされていた。けれど、かぐやの善意を(言い方が露悪かもしれないが)一蹴した。自分のわがままで踏み込んだ。ヤチヨが寝ていることを良いことに!
だから、いろはのこの踏み込みは悪なのだ。一般的な善であり、理想の善であり、無知の善であることができたいろはは、バイトをサボる悪を、模試をブッチする悪を、知る悪を、あくまで自分の意思で行った。
親愛ゆえに行われる悪に、一周回ってしまった自分は落雷に打たれた気分になった。「許されるのか!?これが!!?」と、もしかしたら言葉に出てたかも。
けれど、善悪ひっくるめて人間で、笑って誤魔化すことを是とするのが人間なのだと言うからには、知らないことができる善意も、知ろうとする悪徳も、それそのものが友愛、あるいは親愛上にあるのであれば肯定されても良い、ということなのかもしれない。
この話は超人の善人が、普通の人間になる話(なので理想的な善行の中に悪行が混じっていくし、関係性の極地に至るのもまた悪行だった)で、それが明確なヒールも無しに成立させてしまった。これがこのアニメの変なところの一つであり、このアニメの中で特筆するべきものだったのかなと思う。
そう、変で言えばもう一つある。というか超かぐや姫!で個人的には一番ぶっ飛んでるところについてちょっと話したい。
EDにこれ以上ないほどのこの歌。まあ劇中ボカロ楽曲を引用してたところあったし、これもその一つだろうと思ったあなたはスタッフロールで「BUMP OF CHICKEN」という文字列を見た時に「あれっ?」って思ったかもしれないし、あるいはイントロ流れた時からキー坊になってたかもしれない。
物語とのリンク具合を考えれば、超かぐや姫!は「ray」が起点にあったのか!?と勘繰っても仕方ないくらいにリンクしてるその具合もそうなのだが、いろは、ヤチヨ、かぐやと、人機入り混じった作中最後のライブでこの選曲をしてのけたところが衝撃なのだ。
というのも、この「ray」という楽曲、世界で初めてボーカロイドとバンドが公式にコラボした歌なのだ。
https://m.youtube.com/watch?v=yT_ylSCgY6Q
ちなみに公開当時の反応はと言うと、賛否両論、である。BUMPのファンからも、初音ミクのファンからも、本当に、賛否両論だった。まあ紅白にも出たので全体としては賛の方がおそらく圧倒的に多数だったのだろうが……「ボカロだなんて、オタク的で少なくとも表に出す趣味じゃないよね」という偏見も渦巻いていた時代に、BUMPが「ray」を公開して、その偏見がぶつけられないわけがなく、その上純粋にボカロだけを楽しみたい人にとっても心穏やかに見られるようなものではなく。
BUMPのコメ欄の随分と下の方には、未だ呪いが埋まっている。
けれど、その「賛否両論」や呪いの爪痕を上書きするように、超かぐや姫!がやりやがった(プロジェクトミライやプロセカもその流れの中にあるけれど、そこは割愛)。AIたるヤチヨ、人たるかぐや、いろはが歌う大団円としての「ray」には、少なくとも呪いの言葉が入り込む余地なんてない。超かぐや姫!から飛んできた人が、コメントで「当時賛否両論だったとは信じられない」とまで言うようになった。
かつて賛辞だけでなく呪いも集めた楽曲は、今やかつてそんなことがあったとすら認識されなくなりつつある。
人間は愚かだと言って人類滅亡を画策する系のラスボスを言い負かすには「ray」が辿った変遷で事足りるようになってしまった。偏見や悪意の渦よりも、希望や憧れ、楽しいこと、ハッピーな方が未来に残った。設定上の話とはいえ、AIを称するヤチヨが人と踊ることに抵抗を感じていないそこのお前が証人です。構図は当時と一緒なのに、評価する人、取り巻く人の価値観は10年そこらですっかり変わった。それを身をもって証明したのが超かぐや姫!なのだ。呪った奴らも、肯定してくれた人たちにも向けて、受け手の存在すら織り込んで、使い潰して、そうして放たれた「今も私たちは元気にやってるぞ!」という主張であり表明。それを私は超かぐや姫!の「ray」から受け取った。
哀れ、人類は愚かだと言って人類滅亡を画策する系のラスボス……お前の敗因は場合によっては作品単体の文脈だけでなく作品外の文脈すら悉くリンクさせたり対比させる集団を想定していなかったことだ……
というわけで、超かぐや姫!の今の所の感想を出力した。
ありがとう聞いてくれて。じゃ、俺はそろそろサイバーパンクを観るから、皆も超かぐや姫!を観たならサイバーパンクも観よう。
もう観た?そっか……
じゃ!

