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『訂正可能性の哲学 』(ゲンロン叢書) 東浩紀 (著) 過去の自著自説を訂正進化させつつ、今どき世間やSNS言説やメディア空間で猛威をふるうあれやこれやに全方位に喧嘩を売りまくる、東氏のチャーミングな人柄全開の本でした。読みやすいし分かりやすいので、哲学書として敬遠することなかれ。必読。

はじめにおことわり

 広告屋的平たい言葉での感想文です。論理的にも用語使用の仕方についても引用の仕方についても、「不正確だなあ」と怒らないでね。論文でも批評でもなく、ざっくり感想文なので。

「第1部 家族と訂正可能性」雑誌掲載論文について書いたnoteの振り返り


 まずね、この本の第一部「家族と訂正可能性」というのは、雑誌ゲンロン12に掲載された「訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について」に大幅に加筆訂正を加えたものなんだわね。その他の部分もそれぞれそういう雑誌の論文があるみたいなのだが、僕がまともに読んだのは第一部の元論文だけで、それについてはかなり長い感想noteを書いている。

で、他の部分については今回初めて読んだわけだが、東さんの論というのは「前に書いたものはこうだったのだが、こういうところがもう少し足りていなかったり不完全だったのだよな」ということから、さらに新しいテーマに発展していくのである。第一部自体も、その前に書いた「観光客の哲学」の前半「観光客の哲学」と後半「家族の哲学」がうまくつながっていないな、というところから、書き継がれたものなわけだ。

 とここまで書いただけでも、東さんの思考と著述の営み自体が「訂正可能性」の姿勢に貫かれたものであることは、なんとなく想像可能だと思う。

 で、そのうえで面白いのは、自説の「訂正可能性」を論じつつ、それがなんというか中年になった東さんの、いろいろと気に喰わない最近のあれやこれやへの強烈な批判となって、論理腕力強く、ぶるんぶるんと拳骨を振り回すようなところがあって、そのことの面白さというか痛快さがある。哲学書を読んでいるという堅苦しさは皆無であり、東さんの頭の回転の速さと論理腕力を楽しむ、格闘技でも見ているようなエンターテイメントになっているのである。
 自説を訂正して発展させていく長期的で誠実な知的営みと、いまどきの様々な論説や社会の向かうところへの批判の鋭さ、その複合具合が本書の魅力であります。

 まず第一部の復習と今回の加筆訂正のポイントと僕が思ったことをちょいと書いていく。

 後期ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論と、そこからのクリプキの「クワス算のパラドクス」というのが繰り返し言及されて大切なことなんだが、ちょっと僕の能力では要約不能だな。

発話の意味は発話そのものをいくら分析しても明らかにならず、発話外の状況によってしか決まらない。ウィトゲンシュタインはこのような状況を言語ゲームと呼び、それこそが自然言語の原初的な条件だと考えた。

で、クリプキのパラドクスは「ゲームであるが、プレイヤーはゲームを明確に認識できない」ということをよりはっきりと示す。そして東さんの「訂正可能性」の論と言うのは、ルールについて変化し訂正され続けるという形で展開していくのだな。分からない。うん、ごめん。本書を読んでくれ。このウィトゲンシュタインとクリプキのところは僕には無理だ。それ以外のところについて、前回noteからちょい長いが引用する。引用の中にさらに引用が入るので、引用おしまい、と書くことにする。

前回noteの引用

 どういう問題かというのを、広告屋的ひらたい言葉で書いてみる。
 観光客というのは、住民ではない。無責任な立場で、地域にふらっときて、興味の向くまま関り、去っていく。同じように、ある地域の政治に関わり、去っていくものすごく開かれた立場で政治に関わる人=観光客的関りをOKと考える。そういう民主主義の可能性を考えた、という論だったわけだ。
 政治がカールシュミットの言う「友と敵」にあまりに鋭く分断、対立してしまうということを乗り越えるために、「観光客的連帯」というのを提案している。「開かれた」がキーワード。普通のリベラル思想よりも、もっと過剰に開かれて無責任で、出たり入ったりすることが自由なスタンス、お客さん的消費者的民主主義と言うのを、政治、民主主義の進化の可能性として考える、ということ。
 一方、「家族」というのは「閉じた」「親密な」というのがポイント。公的空間から「閉じている」家族、というのを、ヴィトゲンシュタインの「家族的類似性」という概念=「家族性っていうのは、うまくいえないけれど、なんか似ている」ということで閉じている集団、として考える。国家とか国民とか言うのも「「なんか似ている」ことで閉じているわけ。そのことをベースに、政治を考える。これは、保守主義に近づいていく方向性として読めるわけ。「閉じた内部としての家族、部族」を優先して考えるというのが、保守主義なわけだから。
 この「観光客=より無責任に開かれていく」方向性と「家族=閉じている、親密な共同体」という方向性を、どう、論理的に結び付けていくか、そこに、どういう政治の、民主主義の進化する可能性を構築するか、という問題を、前回、うまく接着していないところを厳密に論じているのが、本論なのだな。
 で、後期ヴィトゲンシュタインとクリプキという哲学者の考察を参照しつつ論は進む。(以下、本文から引用)

〈新しい連帯=家族の基礎は、開かれた規則でも閉じられた参加資格でもなく、日々の実践における訂正可能性に置かれなければならない。つまり、決まった信条なりイデオロギーなりをただ守り続けるのではなく(そうすると共同体は閉じる)、かといって原理原則なしに新規参加者を受け入れるのでもなく(そうするとこんどは開かれるだけになる)、変化する状況に柔軟に対応し、「守るべきもの」をたえず「訂正」しながらも、それでも「同じもの」として再定義し続けるという逆説的な態度に置かなければらない。〉

ゲンロン12 p067

引用おしまい

 観光客は開かれているが家族は閉じている。だと論の前後がつながらない。だから、家族も「類似性」ということで閉じているように見えるが、そもそも家族が維持されていく過程で結婚したり養子縁組があったり、開かれていないと家族は持続していかない。「家族の類似性」というのが持続していくためには同時に外部に開かれていないといけない。そしてその外部に開かれているがゆえに「似ている感」というの実は変化していく。そういう両義性として家族というものを考えると「観光客の哲学」と「家族の哲学」がつながるなあ。とまあ、そんなことが語られているのである。

 加えて第一部、最後に出てくるのがハンナ・アーレントの公共性をめぐる議論を、「言語」という側面から考察する部分で、前回noteを書いたときは、僕はこの部分に圧倒的に感動してnoteを書いたのだが、今回、僕が猛烈に感動した部分が、加筆訂正ならぬ、(註の部分なんだけど)あっさり削除されていて、僕はえらくずっこけたのである。

 アーレントは、公共、政治、それについての活動やそれを語る厳密な言語、哲学の言葉もこちらに属する、と、私的空間、家、家族での活動、生産・制作とそこで使う私的言語、芸術文学の言語を鋭く分けた、そして公共の場で政治、活動において使われる厳密な真実のみを扱う言語を上に置いていた、というのが従来のアーレントについての標準的な読み方だったんだけれど、「いやいやそうじゃない」と言い出したのが、前回の白眉だと、僕は思ったわけだ。

僕の前のnoteからかなり長くなるがまるまんま引用する。引用する部分にまた東さんの文章を引用したパートが入るので分かりにくい。「ここで引用おしまい」と後で書くところまで、全部、前のnoteの引用であります。引用開始。

前のnoteの引用

加藤典洋氏の『戦後的思想』は、その前著『敗戦後論』によって巻き起こった左右両方からの総攻撃、おそらく戦後政治思想史上、最も大きな論争において、孤立無援の状況で、左右両方に、知的能力の限りをふりしぼって、一人ぼっちで立ち向かった本だったのだな。
 その『敗戦後論』で最も問題になったのは、「二千万のアジアの死者にたいする追悼に先立って、日本の(戦争で死んだ、戦争の中ではアジアの被害者への加害者でもあった)三百万人の自国の死者への追悼をするべきだ」という主張なのだな。
 「家族」「身近なものを優先する」という家族の哲学と、「ニ千万のアジアの死者」という開かれた、普遍の立場にたった追悼の、どちらも大切なのは論を待たないのであって、まさにその追悼の「順序」の問題をめぐる加藤の主張が、大変な論争を巻き起こしたわけだ。

 このことと、東氏が今回、提示した「観光客の哲学」と「家族の哲学」の接着という課題は、まったくもって相似形というか、同じ問題をめぐる考察であり、その加藤氏の著書のこの上ない解説を、東氏はかつて書いているのである。

 そしてかつての解説でも、今回の「訂正可能の哲学」も、ともに、論は、アーレントの公共性をめぐる考察で論を締めているのである。東氏の問題意識が、この周辺に強くあるのがよくわかる。これは「公共」と「私的領域」を分ける、それが政治について哲学を行う基本である、というアーレントの立場なのだけれど、加藤氏の、東氏の立場は、それとははっきりと異なる。これは柄谷行人氏の、日本と欧米での受容のされ方の差異として東氏も言及しているように、文学の言葉、文学が扱う、「私」の領域の問題を、政治が扱う「公」の言葉の基礎に置いて政治哲学を考える、ということを巡る問題なのだな。
 加藤氏への解説の方の、「政治のなかの文学の場所」での東氏の文章を引用する。

〈ぼくはさきほど、文学の言葉は、共同体の手前にある「私性」と共同体の彼方にある「公共性」とを、論理の言葉とは違う回路で直結させるものなのだと記した。けれども加藤はここで、まさにその直結のメカニズムを、ヘーゲルとルソーの再読を通じて論理の言葉で記述しようと試みている。
 アーレントは公と私を分けた。言い換えれば政治と文学を分けた。そして公=政治から私=文学を排除しようとした。(実際にはこれはアーレントにかぎらず多くの社会思想家に共通する傾向である)。けれども本当の公=政治は、私=文学のなかからしか、すなわち私利私欲の徹底からしか出てこない。それがヘーゲルとルソーの発見であり、また近代の発見だったというのが、この二章で加藤が言おうとしていることである。〉

『戦後的思考』加藤典洋講談社現代新書版あとがき東浩紀「政治の中の文学の場所」p543

次に、「訂正可能の哲学」から引用する。

〈『人間の条件』は、長いあいだ公共性論の起源のひとつとして読まれてきた。そしてリベラルは公共性を開放性と同一視してきた。けれども、その起源のアーレントが、そもそもそんな単純なことは主張していなかったとしたらどうか。アーレントは公共性を開放性のみによって定義したのではない。開放性と持続性によって定義している。開放性としての公共性は活動(僕の註 政治的言論活動のこと、と単純化して考えても、ここでは問題ないと思う。政治的言説)によって可能になり、持続性としての公共性は制作(職人的ものづくりを一義的には指すが、作品として残る芸術家の行為も制作に含まれる。文学の言葉、小説の言葉もここに入るわけだ 僕の註)によって可能になる〉

ゲンロン12p098

 つまり、前回と今回の論文で、東氏のアーレント評価は、変化というか、進化している。アーレントは「公共性」を成立させるものとして、芸術の言葉、文学の言葉の必要性を認めているのでは、という新しい読み方の可能性を東氏は提示しているわけだ。それは柄谷行人氏や加藤典洋氏という、哲学・思想という公共性を論じる際にも文学の言葉をその基礎に置くという、東氏も含め、日本の政治思想と文学の関係を論じるスタンス、それを基礎づける発見というか、提言なのだと思う。

 僕は、東氏の書く文章にも、東浩紀氏という存在にも、深い尊敬と親近感を感じる。その一番の理由は、この「文学的言葉」と「思想・公共・政治を語る言葉」の間の関係について、柄谷氏がそうであったように、加藤典洋氏がそうであったように、きわめて自覚的に意識的に、つなげて掘り下げて考える人だからだと思う。

 「一番わかりやすい」と書いたが、それ以外にも、もうすこし微妙な、しかし、重要な理由がある。


 人間としての東浩紀氏に、親しみ、共感を感じるのである。それは抽象的な「家族」論ではなく、具体的な「家族」とか「生活感」のようなところでの共感である。


 私の子どもの1人が、早稲田文化構想学部在籍時期が、ちょうど東氏が同学部で教授をしていた時期であり、かなり深く教えを受けたこと、その後のゲンロン批評家再生塾の一期生としてお世話になったことなど、「我が子の恩師」ということからも、常に注目してきたこと。そして、東日本大震災の直後、私が子ども五人と共に京都に一時避難したときに、東氏も、お子さんと共に静岡まで避難して、そしてツイッターなどで批判されていた。このことは、実は単なる面白エピソードではなく、本論「家族の哲学」、家族と公共がどのような関係にあるか、保守とは何か、そういうことを考える上で、「危機に際して思わずどういうこと行動をとるか」に現れる、同じような価値観ポジションにあることを示す重要なエピソードだと思うのである。

 この論文の最後に、東氏は、アーレントの思想が「家族の哲学」とさらに深く関係する可能性に軽く触れている。引用する。

〈ここまでいちども触れなかったが、アーレントは、ひとがたえず新しく生まれ、新しい思考の可能性とともに参入してくることこそが、公共性の条件だとも語っていた。彼女は、子が生まれ、増えるという単純な事実が、思想的にはとてつもなく重要であることを理解していた数少ない哲学者のひとりである。〉

ゲンロン12 p104

 と書く東氏自身が、そのことの重要性について、勇気をもって(なぜ勇気を持たないとこんな当たり前のことが発言できないのか、という現在の思想界というのが嘆かわしい限りだと思うのだが)発言する、数少ない哲学者のひとりなのである。アーレントについての註で東氏は自らのこの点についての思想こう書いている。

〈ハイデガーが典型だが、近代哲学は人間について各人固有の「死」から逆算して考える傾向がある。たいしてぼくは『観光客の哲学』で、それとはべつに「出生」の哲学が必要であり、それこそが「家族の哲学」なのだと記していた。僕はそのときアーレントの一節を意識していなかったのだが、彼女も同じ思想の必要性を方ているように思われる。ポリスは多数の人を必要とする。したがって出生を必要とする。そして出生はオイコス(家族)によってしか行われないのだから、結局はポリスはオイコスに依存する。これは当然の論理のはずだが、「国家」以来、哲学はなぜかポリスについてばかり考えてきた。だからぼくたちはいまオイコスの哲学を必要としており、それは★9で記したようにジェンダーの問題とも関係している。〉

ゲンロン12p105★68
 

引用おしまい。

 でね、このアーレントの哲学を「出生」の哲学と書いた註が、今回の単行本ではごっそりなくなっているのだよね。僕は6人の子供を育てた子だくさんお父さんなので、「出生の哲学」「たくさんの人がオイコスで再生産されることがだいじ」という部分にいたく感動したわけだけれど、その部分が、単行本では、さらっと軽くなっている印象なのだわね。ちょいとかなり肩透かしだったわけだ。

 その代わりに、「公的な正しさを求める言葉」だけでは民主主義は維持できず、私的な領域の、文学の言葉による思考との両輪が無いと民主主義は、いやそれだけではなく、人間の思考の営みを維持されていかないということをこのあと論じていくよ。それが人文学の方法論なんだからということで最近の人文学軽視の風潮に激しく異議を唱えつつ、第一部はアーレントの議論で締めくくっているわけだな。

 さて、ここからが今回新たに読んだ第二部以降の感想である。やっと本題だよ。長いよね。ごめんね。

「第2部 一般意志再考」の感想 

 ここでは、かつての自著『一般意志2.0』について、現在の考えから「訂正」していこうということなのだが、自著ではなくて、はっきりと外部の「敵」が指定されている。落合陽一氏の「デジタル・ネイチャー」論的なこれからの社会像や、成田悠輔氏の『22世紀の民主主義』、そして鈴木健氏の『なめらかな社会とその敵』における「分人民主主義」などである。こうした人たちの提唱する民主主義の今後のあり方を「人工知能民主主義」と名付ける。その周辺にもズボフという人の「監視資本主義」、ルブロワとバーンズの「アルゴリズム的統治性」など、かつて東氏が『一般意志2.0』で構想した民主主義の未来について、日本でも世界でも、様々な発展形の論が花咲いている。それらに対して東氏は、「違う。間違っている。いやだ」と感じているのである。そうだとすると、かつての自分の論も、どこかが違ったのか、どこが間違っていたのだろう。そういう「自分の過去への訂正可能性」と、他者の論への批判というものが何層にも積み重なって論じられるのである。

 もちろんまずは『一般意志2.0』でもそうだったように、ルソーの一般意志という概念の不思議さ「特殊意志の合計としての全体意志とは異なる」ということから親切に復習してくれるのだが。

 あともうひとつ、たしか『一般意志2.0』ではあまり強調されていなかったように記憶しているのだが(あるいは僕が忘れただけかもしれないが)、ルソーは自然(状態)の人間を幸福なものと考えていたという点で、ホップスやロック、自然状態を闘争状態ととらえるのとは大きく異なる。という点が強調され、深堀される。自然のままでも幸福な人間が、なぜか社会をつくって「しまった」。そのような、不本意にも、不思議なことにやって「しまった」過去について、遡行的に考える。このあたりが、本書において極めてカギとなるルソー読解なのである。自然のままで幸福な人間が、それでも社会をつくってしまった、一般意志とは人間の外部に自然のように存在するものであり、人間の作為や利害「特殊意志」の合計総和として現れる多数決的「全体意志」とは異なる。この分かりにくさ、「一般意志」の分かりにくさと「自然」をめぐって、こののち議論は思わぬ方向に進むのである。

 で、話は戻るが、僕は特に成田悠輔氏の『22世紀の民主主義』を読んだときに感じたのだか、「おお、これは東さんの『一般意志2.0』の後半の、僕が勝手にニコ生民主主義と名付けたやつの、10年分、テクノロジーが進化したのでひと世代若い成田氏が考えたやつだな。」と思ったわけだ。

 東氏は、正直にも、自分もちょっとそう思った、と書きつつ、なんといっても今回は成田氏らの言うことを否定しようとしているので、かつての自分の書いたものも否定しないといけないか。いやあ、それは悔しいなあ。そういう複雑な思いが随所ににじみ出るのである。これぞ「訂正可能性」を、自らの著書に対して正しく行使している様だと示そうとしているかのようである。これは内容よりも、そういう東氏の人柄が現れていて、なんだかとてもいい。

成田は「無意識民主主義は、生身の政治家を不要にする構想でもある」と高らかに謳い上げている。」

本文p219

と書いたうえで、そこに註をつけて

ぼくはじつは『一般意志2.0』の前半では同じような素朴な主張を展開している。同書は成田の著作の注にも挙がっている。とはいえ当時のぼくには迷いがあった。社会がビッグデータとアルゴリズムに導かれて統治されるとは、社会が集団の無意識に導かれて統治されるということを意味する。それでは戦争のような情動が沸騰する事態に対応できない。無意識がつねに公共の利益を指し示すわけではない。そのためぼくは同書では、一方で人工知能民主主義の可能性を提示しながらも、他方ではそれを否定する、いささか分裂した印象を与える議論を展開せざるをえなかった。本書はその反省を踏まえて書かれている。ここで訂正可能性の概念を導きの糸としているのは、それを用いれば、一般意志とその暴走を抑制するものの拮抗関係について、より明確に説明できると考えたからである。
 その点で驚くのはむしろ成田の著作に迷いがないことである。彼は本気で、すべての欲望をデータ化し、人工知能に分析させればみな幸せになると信じているように見える。『一般意志2.0』が刊行されたのが2011年で、成田の著作とあいだには11年の月日が流れている。次章で記すように、それはまさにスマホとSNSの普及によって個人情報の収集が急速に進み、人々が監視やプライバシーの問題に関心を失っていた時期にあたる。ぼくはいずれにせよ人工知能民主主義は実現不可能だと考えるが、彼とぼくの温度差にはそのような時代の変化も反映されているのかもしれない。

本書註★26 p219

 脱線するが、『22世紀の民主主義』の読書感想文noteを書いたところ。読書家友人から「ぜひ、『なめらかな社会とその敵』も読んで感想を書いてください」とコメントをもらったのである。そして買ったのだが、読めなかった。だって横書きだし、開きかたが小説とは反対開きの、理系論文体裁の本なんだもん。その本としてのモノとしての形式が、もう馴染めなくて読めなかったのである。

 なので、今回、東氏がさくっと要約してくれていて、大変助かりました。

 ルソーの一般意志の中には、全体主義、独裁に通じる危うさがある。人工知能民主主義も、どこまでうまく作って発展させていっても、そこには同じ危険が内包される。

 東氏が繰り返し書く、人工知能は固有名としての僕、僕という主体を理解するのではなく、「僕と似た人々」がどのような嗜好,指向を持つかを判断するに過ぎない、僕に似た人の平均として扱われるということへの、不愉快、不満を書き連ねる。いかにデータが膨大になりその解析が精密になっても個人を主体としてではなく、そのように扱うという点で「人工知能民主主義」は、固有名としての僕の主体性を尊重しないのである。

  けれども現実に生きるぼくからすれば「ぼく」と「ぼくに似た人々」は大違いだ。

本文p258

 いやまったく賛成である。このあたりの章と本書のテーマの関係についての結論は、人工知能民主主義は、僕という固有名の存在を、僕と同じような人の平均として扱おうとする。当然そこには誤り、僕はそのような人間ではないということが含まれるのに、それを僕は訂正できないということだ。人工知能民主主義には、主体側からの訂正可能性が無いのである。

 ここまで書いたことが、
第5章 人工知能民主主義の誕生
第6章 一般意志と言う謎
第7章 ビッグデータと「私」の問題
で論じられているのだが、ここから先がこの本、予想外の展開を見せる。ここからが抜群に一番面白い。

「第8章 自然と訂正可能性」 小説家としてのルソー、小説家、文学者としての東浩紀

 ここまでこの本では『社会契約論』を中心にルソーを読んできたのだが、この章では『新エロイーズ』という恋愛小説を読解をしていく。(三角関係を描いた、ものすごく長くて甘ったるい恋愛小説なんだという。そして大ヒットしたのだそうだ。) ルソーは哲学、政治思想家としてだけではなく、むしろ小説家としての名声が存命中は高かった。評伝的事実の掘り起こしと、小説の読解から、話は思わぬ方に展開する。

 自然状態で幸福だった人間が、なぜ社会状態に移行して「しまった」のか。この「しまった」をめぐる考察を、『社会契約論』と『新エロイーズ』の間を行き来しつつ東氏は論じていく。

 ほぼ同時期に書かれた『社会契約論』と『新エロイーズ』の間の関連、相補関係。このような視点での論と言うのは、これは世界的に見ても、無いんじゃないかしら。いや、全然根拠も知識もないのだけれど。でもこの哲学社会思想の言葉と、小説、文学の言葉を、同一論文の中で論じるスタイルというのは、柄谷行人・加藤典洋など日本の思想家にかなり固有、独特のもので、東氏はその正統な後継者だと思うのである。(冒頭に引用したかつて僕が書いたnoteでも、政治、思想の言葉と文学の言葉が同時に関連づけて使われることは論じた。)

  この章は、文学者でもある東氏にしか書けないものだと思う。基本的には思想家、哲学をする人である東氏だが、『クォンタム・ファミリー』という小説がある。三島由紀夫賞を受賞している。僕も出版後、すくに買って読んだ。

 またまた私事に脱線するが、僕は若い時は国文学科近現代文学専攻、つまりは日本語現代小説だけを読んで大学を卒業し、その後もずっと読書の9割は小説を読んできた。老後隠居後も基本的には世界の小説を読んでは感想文を書く、ということだけを楽しくやって過ごしている。そうすると、「なんで人様が書いた嘘か本当か分からない作り話を読むことかこんなに楽しいだけではなく、意味があること、一生、これから、それだけに費やしてもいいと思えるほど大切なことに思えるのだろう」という問いは、日々、強くなる。小説ってなんだろう。小説を読むということはどういう体験なんだろう。

 そういう、今の僕、というより、僕の人生の最大の疑問に、この本の、この章は、ある答えを与えてくれているのである。

 ルソーはなんで小説を書いたのか。そのことにはどんな意味があるのか。そのことを、東氏は論じていくのである。おそらく書かれてはいないが、東氏の中にも「なぜ自分は小説を書いたのだろう」という問いはあるのだと思う。

 ルソーという人物か、今でいうコミ障でメンヘラな変人であり、社交界に馴染まず、喧嘩をしたり問題を起こしたりして田舎暮らしをする。ウソ、虚構、にまみれた都会・社交界を後にして、田舎で暮らすのである。

 ルソーは演劇にひどく否定的だが、演劇は完全な嘘、虚構であるから。芸術、嘘は自然を破壊する。ルソーは芸術を否定し演劇を否定する。それなのに、なぜルソーは小説を書いたのか。

 「小説は嘘か本当か分からない」ということにポイントであるというのである。そうだなあ。なんかすごく納得できるのである。

 かなり複雑な理路なので、興味のある方はぜひ本書を読んでほしいのだが、この章の結論部分だけ、引用してしまおう。

 一般意志は超越的で絶対的な存在である。自然と愛も超越的で絶対的な存在である。けれどもそれらは同時に訂正可能性に開かれていなければならない。
 その困難な命題は、ルソーにおいては、哲学の言葉によって理路整然と語られているのではなく、『新エロイーズ』という文学作品によって実践的に示された。これが本章の結論である。

本文298頁

真実と嘘の境界をなくすことで、はじめて自然は「訂正」される。そして、自然が人工的かつ遡行的に発見される。
『新エロイーズ』に隠されたこの思想は、真実と嘘を峻別し、統治の正当性を自然と真実の絶対性の上に基礎づけようとした『社会契約論』の構想、そしてそれを素朴に継承した全体主義や人工知能民主主義の構想とは、一見まったく相反するものである。
 しかし、第一部からなんども繰り返しているように、それは矛盾しない。むしろそこで示された絶対性と訂正可能性の両立は、人間のコミュニケーションに対するルソーの深い理解を示している。家族と家族でないもの、ゲームとゲームでないものを区別することが原理的に不可能であるように、ぼくたちは本当は、自然と自然でないもの、社会と社会でないもの、嘘と嘘でないもの、愛と愛でないものを区別することもできない。ルソーの「小さな社会」は、真実と嘘の境界で現れる人工的な自然のことなのだ。

本文302頁

「第9章 対話、結社、民主主義」ポリティカル・コレクトネスをポリティカル・コレクティング「政治的に訂正していく」運動へと訂正していく提言。

 前章の感想で僕の感想文は終わってもいいのだけれど、上記引用部分にある「小さな社会」という概念と民主主義をめぐって、次の章では、
①バフチンの文学論、特にドストエフスキーの『地下室の手記』とポリフォニーについて、
②トクヴィルの『アメリカの民主主義』の中に見る民主主義と訂正可能性が論じられる。
 特に後半で、ポリティカル・コレクトネスへの東氏らしい批判が展開されかけるが、いささか言葉足らずである。本書の主題「訂正可能性」とかけて、ポリティカル・コレクトネスのコレクトを「正しさ」ではなく、動詞の「訂正すること」と読み替えて、「ポリティカル・コレクティング」政治的に訂正していく、訂正し続ける運動とすることで、批判からその肯定的意味合いを引き出そうとしている。

とはいえ、この部分、やや性急な感は否めない。おそらく、この章で論じ足りなかったことが、次の著作に発展していくのだろう。そういう予感を持たせる最終章である。

 訂正可能性に開かれているということ、そのことにより様々な超越的な概念を、それについての感覚を訂正し変化させていくこと、その営みの連鎖が哲学だというあとがきで本書は終わっている。終わっているが、こう書いちゃった以上、その営みは続いていくのである。

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