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映画『ルックバック』と、ちいかわ、推し活。

映画『ルックバック』を観た。

藤本タツキが2021年に発表した読み切り漫画を実写化したもので、2年前に一度アニメ映画化されており、映画化自体は2度目となる。ちなみに原作は9月18日まで無料公開されている。


原作と実写映画版でディテールの違いはあるが、ストーリーの大筋はほぼ変わらない。

主人公は秋田県で暮らす小学生の藤野。彼女は絵が得意で学校新聞に4コママンガを連載している。ある日、担任の提案で不登校の京本の漫画を隣に載せることになる。京本が描いた漫画を見て藤野はその画力の高さに驚き、自信を失って漫画を描くことを止めてしまう。小学校の卒業式の日、藤野は初めて京本と接する。京本は藤野のファンだと明かし、二人は漫画を共作しはじめ、高校卒業直前に少年ジャンプの連載が決まる。

その後ストーリーは急展開を迎えるのだが、そこに至るまでで注目すべきポイントは、二人が暮らす秋田が極めて神々しく描かれていることである。一面に広がる雪、静かに波打つ海だけでなく、駅前の風景までもが光り輝いている。

そして秋田と同じく、京本にも〝神々しい〟要素が付与されている。京本の家はわざとらしいほど神社のすぐ前にある。時代設定から考えて、二人が小学校を卒業したのは2008年前後と推測される。しかし小学生の京本は21世紀にはそぐわない古臭い半纏を着て生活している。自らの創作意欲に突き動かされて漫画を描く彼女の後ろ姿は座敷童のようですらある。藤野の4コママンガによって閉じた扉から出てくる展開は、天の岩戸開きと重ねて見ることもできる。

藤野も神々しく映し出されてはいるのだが、ところどころに俗っぽさが見える。彼女ははじめからクラスメイトの評判を気にしている。漫画賞に応募しようとしたり、ジャンプ編集部に持ち込みをしようとしたりと出世欲を垣間見せるのも藤野である。

実写映画版の新たな要素として、藤野の両親の存在が挙げられる。両親は頻繁に登場し、藤野と京本の創作活動を見守る。京本の両親は一切出てこない。是枝裕和監督は、藤野と京本の神々しさに明確な差をつけている。藤野は間違いなく人の子だが、京本は神の子でありうる。

ここで、藤野と京本は多くのクリエイターが抱える矛盾する要素を象徴していると気づく。すなわち商業性と作品性である。大衆性と芸術性と言ってもいい。人気漫画家を目指す藤野に対し、京本はただただ絵を描く喜びを追求する。

クリエイターはみな、最初は自由に作品を作ることができる。しかし作品が売れなければ制作を続けられない。思うままに作ったものがヒットする幸福に恵まれる天才は一握りもいない。自分の作品性を犠牲にして〝売れ線〟へと舵を切るクリエイターは少なくない。創作活動はたいがい、商業性と作品性の間の葛藤を伴う。

地理的に言えば商業性は東京と、作品性は秋田と結びつけられている。藤野は東京の編集者とコミュニケーションが取れるが、京本は口を開くことさえできない。連載が決まり、東京へ移住する直前になって京本は藤野に別れを告げる。純粋な創作の喜びは東京を拒絶する。

東京に適応できる藤野は、連載漫画の『シャークキック』をヒットさせてアニメ化へ繋げる。編集者とアシスタントはアンケート1位を目指す。商業性が高まり、作品性が排除されそうになったところで、藤野の覚悟を問うかのごとく京本が襲撃事件に巻き込まれる。藤野が心の支えにしていた「作品性」がこの世から消え、藤野の連載はストップする。

ここでストーリーが終われば『ルックバック』は商業性に飲み込まれたクリエイターの悲劇にとどまる。しかし藤野は京本のいない彼女の実家を訪れ、小学校の卒業式の日をもう一度やり直し、「ありえたかもしれない未来」を手に入れる。フィクションの力によって一度失われた作品性を再生させる。ある意味で荒唐無稽なこの物語は、京本の神々しさによって成立している。京本は神霊となって藤野に乗り移り、藤野は商業性と作品性を融合させて再び漫画家として歩み出す。

『シャークキック』のアニメ化が決まったとき、編集者は藤野に「さみしいでしょ?」と聞く。編集者は商業的な成功が必ずしもプラスばかりでないと知っている。このやりとりは原作にない。是枝監督には、商業性と作品性の狭間の葛藤を描く意図が見える。


そして、商業性にまつわる葛藤はファンの側にも存在する。

先日、ちいかわとくら寿司のコラボが突然中止される事件があった。

配布前のちいかわグッズがメルカリに多数出品されており、調査の結果従業員によるグッズの横流しが発覚。コラボの中止に至ったという。

この一件が報じられると、一部のちいかわファンが「ナガノ先生が激怒してコラボを中止した」「くら寿司から徹底的に引き上げろと指示している」と言いはじめた。ちいかわの新作がくら寿司への怒りを暗喩していると〝考察〟するファンも現れた。

作者のナガノからこの件についてのコメントは出ていない。激怒したというエビデンスもない。しかしファンの間でナガノ激怒説は一定程度支持された。そこにはナガノ先生に不埒な輩へ天罰を下してほしいというファンの願望が投影されていた。いわばファンにとってナガノは崇めるべき神なのである。

日本は漫画家が神格化される国だ。

しかし、作者が神聖であることと商業性は相性が悪い。金儲けに走る教祖は信者を冷ます。安易なヒット狙いは「魂を売った」と非難される。しかし制作は儲からなければ続かない。商業性を完全に消すことはできない。

ファンは作者の神聖さに酔いしれたいが、商業性は悪魔のようにファンにささやく。「あいつだって所詮金儲けのために物作りをしているのさ」。

その葛藤を解消するために用いられるのが、推し活である。

ファンは作者を「応援」するために、グッズを買い集める。教祖たる作者にお金が集まるのは、彼らが儲けたいからではない。ファンの「推したい」という愛情表現の結果、やむをえずお金が作者のもとに集まっているにすぎない。推し活のロジックは作者から〝悪しき〟商業性を切り離す。コラボグッズを買い漁る行為は利己的ではなく、布教を推進するための利他的な行為となる。天罰を求めることも、推し活に励むことも、その根っこには作者が神聖でいてほしい願望がある点では変わらない。両者とも、漫画家に「現実では叶わないことを実現する力」を期待している。

この前提に立つと、『ルックバック』がこれほど多くの人を惹きつける物語になったことも腑に落ちる。『ルックバック』は商業性にまみれたように見える藤野の中に、神聖な京本が生きているという理想にほかならないのだから。

『ルックバック』は荒唐無稽な物語である。漫画を生み出す営みを神聖視する日本の風土の上だからこそ成立している。その意味で『ルックバック』は極めて日本的な作品である。


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