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【時評】画面に突き立てられたナイフ──『メイクアガール』について


前書き──状況論、あるいは裂け目としてのアニメ

 AI、という言葉は、すでに単なる流行語を飛び越えてひとつの政治と化しつつあるように見える。公共領域と私的領域を横断するように言葉と言葉の間隙を漂い、それなしでは思考不可能な現実性を規定するひとつの符丁として。

  そしてその中で、「AI」はそれに期待される技術までもを包含した言葉として肥大しているかにみえる。AIバブル、とも言うべきこの、言説空間における符丁の流通は、想像力の内実とは無関係に、その種の商品(=パッケージ)を量的に増大させることになった。AI、およびその付随技術──たとえばヒューマノイド・ロボット──についての物語は、現在、強い商業的要請を受けているかにみえるのだ。たとえば、2022-2023年にかけての作品を対象とした第44回日本SF大賞では、人工知能が組み込まれた義足をめぐる物語であるという長谷敏司『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』が対象を受賞したし、その著者も参加した日本SF作家クラブによるアンソロジー『AIとSF』は昨年の11月に第二弾が刊行された。AIバブルは文壇を変えつつある。その商業的側面において。

 『メイクアガール』は、そうした一群の潮流の中に生起してきたひとつの裂け目だ。

 ……映画の時評を期待した読者は、奇妙に硬質なこの文章に戸惑ったかもしれない。付記しておけば、一番初めの段で言おうとしていたのは要するに「AIという言葉は流行り、という言葉が軽く見えるほど流行っている」というほどのことだ。では、なぜ僕は奇妙に込み入った硬い文章を必要としたのか。

 それは本記事で論じる長篇アニメ映画『メイクアガール』が、その文体にかなった強度と硬度を備えている作品であることを提示するためだ。そして同作はそればかりではなく、文壇における不可避的な変化に対するひとつの裂け目として君臨してさえいるようにもみえる。

 フィクションは、しばしば、それ自体ひとつのファンタジーだと見なされがちだ。つまり、硬質な現実の前にくずおれる砂糖菓子と見なされがちだ。だが『メイクアガール』において露出している現実性、それが内包する批評的契機は、確実に、われわれの住まう現実の一平面を撃ち抜いている。鑑賞者のまなざしを逆行して辿り来る砂糖菓子の弾丸。

 無論、映画の枠組みに照らせば、それはいささか過剰で、かつ的を外した論評であるようにも見える。

 ひとつには、物語のきわめて古典的な性格がある。人工生命・人工意識、すなわち「まんがのお化け」(伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』)を描いた作品は、SFやストーリーまんが──ジャパニメーションは否応なくその系譜に組み込まれている──においては何度となく描かれてきたモチーフではある。

 もうひとつには、主題の閉塞性、というより、自己完結的な構造がある。死んだ母親の研究を完遂させようとする主人公:水溜明の奮闘を描いた本作において重要になるのは「記録」と「記憶」の別だった。公益性・公共性のある、極限すれば「世界」と接続している「記録」としての性格を、母親の研究は帯びていなかった。それはどこまでも「記憶」、すなわちただひとりに向けられた私秘的な情報・情念の断片として縁どられていた。

 それが立ち現れさせるのは、母性によってどこまでも規定された時空間、その物語だ。

 ゆえに、物語はごく閉じられた関係におけるごく閉じられた救いへと収斂していく。それは不気味とさえ言えるほど徹底して、円環の中に閉じるよう設計されていた。そこに主題が宿るとするなら、そこにあるのは高度に発達した砂糖菓子だと言えるのではないか。そこに現実に対する攻撃力は宿りようがないのではないか。そのような反論は可能だ。

 しかし、僕はそれとは別の水準で思考したい。本作の胚胎する、古典的なものの反復とも、母性的な閉ざされとも別の可能性について思考したい。そこにあるのは新しい想像力だ。それも、2018年から連なる、一群の想像力の臨界点として解することのできるものだ。どういうことか。

 それを説明するための補助線を引く。かつて映画監督の新海誠は短編アニメーション『ほしのこえ』によって高い評価を受け、受け入れられた。その際、同作は「ポスト・エヴァ」の物語として──ジャンルコード(=巨大ロボットや出征する美少女)への自己言及性と「激しい一人語り」によってしるしづけられる物語として──評価されていた。

 そして『メイクアガール』もまた、そのような枠組みを用いて評価されるべき作品としてある。ここで「エヴァ」に相当するのは、2018年のアニメ『SSSS.GRIDMAN』(以下、『グリッドマン』)だ。『メイクアガール』はいわば「ポスト・グリッドマン」の想像力を提示してみせた作品なのだ。そのように言ってしまいたい。

 そしてそうした水準での思考のキーワードになるのが「ひび割れ」だ。フレームそれ自体、画面それ自体の「破れ」。裂開。ひび割れ。それがグリッドマンと『メイクアガール』を繋げるものになる。そしてそれをもって、ある一群の作品は、現実を撃ち抜けるだけの強度を獲得するのだ。

『SSSS.GRIDMAN』における「裂け目」

 『グリッドマン』はある種の怪獣・ヒーロー特撮の構造をメタ的に取り込んだアニメだった。原作が90年代のテレビ特撮というのもあり、本作は自覚的に「虚構」として構成され、また演じられていたのだ。

 その世界は一人の少女:新条アカネの手によって作り出されていた。世界は彼女のためにある。しかし世界を規定する原理は、つねに彼女を裏切ってきた。

 その世界を規定しているのは、「ジャンク」と「イレギュラー」だった。取るに足らない・役に立たないものと、不快さの源になる無粋な闖入者。その二項があるがゆえに、アカネはつねに苛立っていたのだし、それによって何度となく世界を滅ぼさなければならなかった。怪獣という造形物を使って。

 ここには不全の造形物を「苛立ち」に縁どられた造形物が破壊する、という構造がある。換言すればそれは、造形の失敗をさらなる造形によって、上塗りによって帳消しにしようとする態度だ。『グリッドマン』の物語はその「帳消し」に伴う破壊を防ぐこと(=さらなる「上塗り」)によって進行していくことになったが、根源にある「失敗」それ自体が解消されることはなかった。その解消こそが本作の終幕においてカタルシスとして提示されるものだったが、本記事でそこに立ち入ることはしない。

 ここにおいて決定的に重要になってくるのは「造形の失敗」だ。『グリッドマン』において、それを端的に表していたのは「アンチ」というキャラの存在だった。

 怪獣を倒すグリッドマンを倒すために造形されたこの「心のある怪獣」は、何度かの失敗により、早々にアカネから見限られることになる。そこに成長への期待や絡め手は存在しない。動かなくなった玩具を粗大ごみに分類するような大雑把さで、アカネはアンチに失望し、見限るのだ。

 ここにおいて露出しているのは、造形の失敗と、それに対する無責任さだ。アカネは『グリッドマン』の物語において、アンチを作ったことに対する責任を一切取らない。管理することも廃棄することもせず(その抹殺は他人任せだったうえ、それも失敗している)、ただ「見限る」。そしてそれに対する解決は、アンチ自身の自己成長によってもたらされることになる。無論、物語においてこの二人の関係性が無視されることはないが、「造物主としての責任」という軸において、この二者には断絶がある。それが縫合されるのは2023年の集大成的な作品『グリッドマン・ユニバース』でのことになる。

 そして『グリッドマン』は、こうした「無責任さ」とは別の水準で、「破れ」というテーーマを提示してみせた作品としてもあった。

 「夢だから、目覚める」。第9話において、理想の世界の夢に人々を幽閉する怪獣の中で、主人公:響裕太/グリッドマンはそう宣言する。これに象徴されるように、本作は夢からの目覚めを主題化していた。そしてその主題が結実した存在こそアカネにほかならない。彼女が自ら作った世界をどのように遇するのか──。それは物語上の最も重要なポイントとしてあった。そしてそれに対するひとつの回答として、彼女は裕太を刺すことになる。

 「変身前のヒーロー」を刺すこと。それは虚実の皮膜を融解させる、きわめてメタ的で、こう言ってよければ露悪的な行為だ。そしてそれに前後してアカネのかけている伊達メガネがひび割れていることは、それを象徴的に示している。アカネの一撃は分かちがたく虚構であるような物語空間に「ひび割れ」を入れるものとしてあったのだ。

 『グリッドマン』の物語は、その後大団円を迎えるが、こうした「ひび割れ」という主題は続く『SSSS.DYNAZENON』(以下、『ダイナゼノン』)において前景化してくることになる。本作では演出のレベルでこの「ひび割れ」が多用された。とりわけ『グリッドマン』第9話に対応する『ダイナゼノン』第10話において、理想化された過去=記憶に人々を幽閉する怪獣が作り出す時空間は「画面・ガラスの中」の出来事として演出された。ここにおいて夢=虚構は画面の向こう、ガラスの向こうの事態として描かれており、「ひび割れ」はその目覚めとして提示される。

 「無責任さ」と「ひび割れ」。『グリッドマン』におけるこの二つは、それぞれ独立した要素としてあった。しかし『メイクアガール』において、その二つは高度に結びついている。『メイクアガール』において「ひび割れ」は、「無責任さ」に対するバックラッシュとしてあった。そしてそのバックラッシュにおいて、このフィクションは現実を、画面の「こちら側」のわれわれを撃ち抜くのだ。

『メイクアガール』:「ロボット」の地平と「刺殺のオブセッション」

 本作がアバンタイトルに続いて映し出すのは、明による発明──カップラーメンマシン──だった。

 これは映像的な妙味だけではなく、主題にもかかわるモチーフの選択だ。というのも、続く部分で明はこの発明について「役に立たない」ものだとはっきりと明言しているからだ。五分かけてカップラーメンを作るそれは「人力でやったほうが早い」仕事しかすることのできない役立たず、廃品にすぎない。そして明の発明は、戯れのような機械から母親の研究を部分的に再生した人工知能に至るまで、そうした「廃品」同前のものとしてまずわれわれに示される。

 ここにおいて明かされているのは、明が「成功物」、「完成品」を創り出したことがない、という事実でもある。そして何かを完成させたことがない、ということは、ただちに、創造物に対して彼が責任を取ったことがなく、また取る能力を欠いている、ということを意味する。廃品=ジャンクは、実効性を欠いているがゆえに、責任がそもそも立ち現れようがない。彼はあらゆるものを造形する造物主でありながら、それを完遂する契機を得ることがなかった、不能の神としてある。

 本作のヒロインにあたる「0号」は、そうした前提の下あまりにさりげなく、唐突に作り出される。彼女は明の友人が口にした「カノジョを作るとパワーが二倍に……」という冗談に沿うかたちで造形された。明はその発言を本気にする。ただし、彼は「カノジョ」という言葉の意味を精査しない。ゆえに、ここにおいて強調されているのは「作る」という言葉の方であることがわかる。明にとって重要なのは「カノジョ」という主語ではなく「作る」という述語の方だ。そして前段で確認したように、明は作り手としての責任を欠いた存在だった。彼はカップラーメンマシンを作るのと同じ水準で、「カノジョ」を作るのだ。その責任を、意識しないままに。

 それは──きわめていかがわしい語用ではあるが──「人間」的自然さを欠いた振る舞いとしてある。いわゆる「人並み」の価値判断が、ここには希薄だ。しかしそれは、恐らく意図して削られた部分としてあるはずだ。

 明は意図的に「ロボット」のような人格として立ち現れている。人間の感情の機微が分からず、ほとんど愚直に「研究」を遂行する。幼いころに芽生えた「母親の研究を再生する」という大目的を確信して、それに疑いを差し挟まないばかりか、それに無関係な物事を切り捨てさえする。それは比喩的な意味での「ロボット」のそれに近い。

 こうした人格を、しかし、われわれは「常識外れ」としてはねつけることができないのではないか。

 美学研究者の難波優輝が指摘するように、われわれは(社会的)行為の多くがゲーム的に理解され演じられる、そういった世界に生きている。肉体と精神はパラメータのような定量的で唯物論的な基準に分かちがたく通貫されており、それを操作することこそ「賢い」生き方になる……そういった世界に生きてしまっている。そこにおいて人格は、ほとんど情報処理の対象としてしか、すなわちゲーム的対象としてしか見出されえない(「ゲーム的主体の誕生」)。

 こうした現実性は、2000年代にはすでにある程度予見されていたことではあった。斎藤環を中心に、社会評論の文脈で、今や人間の人格は「キャラ」として解釈され演じられているのではないか、という指摘がすでになされている。それは土井隆義『キャラ化する/される子どもたち』の分析や、その後の「自己実現」的なものの文脈──『友だち幻想』など──に接続し、2010年代の末から20年代の初頭にかけて「ルールハック」して「うまく生きる」仕方を伝授する教祖としての「ひろゆき(西村博之)」を神格化する流れに繋がっていく。

 ロボットのような、ゲームのような人格。それはもはやフィクションを越境している。そうした状況において、自覚的に「ロボット」として描き出された明の人格は、確実に現実の一側面を取り込んでいるといえるのではないか。

 こうした前提を置いたとき、0号の成長はある種の恐ろしさを備えてわれわれに、そして他ならぬ明に迫る。

 0号は作品の中で徐々に「人間的」な情緒、思考を獲得していく。それはやがて、最初に与えられた指令・感情であるところの「恋心」をより複雑深化させ、強化させることに結び付く。それはある意味ではゲーム的だが、明のそれよりも柔軟なものとして提示されていた。この柔軟さは、取りも直さず「人間」にしか持ちえないとみなされてきた複雑性を意味する。

 そしてこの複雑性が生起させたのが、「起源にまつわる問い」であったことは示唆的だ。それは自己の存在を問う、という、人工知能に備わっていない性格とみなされているもの──人間を人間としてしるしづけるもの──そのものだからだ。しかし、これは罠だ。

 0号が「起源にまつわる問い」として立てる「私はなぜ明さんのことが好きなのか」という問いには、決して答えが与えられることがない。起源にあたる「理由」が、そもそも存在しないからだ。明がなぜ0号を作ったのか。それは友人の言葉に偶然反応したためだ。原理的に、0号はカップラーメンマシン(=役立たず)と同列のものとして造形された。そういった表現でしか、彼女の誕生と彼女を下支えする感情の説明はつかない。起源は恣意のみによって縁どられていて、それ以上の意味を読み込むことができない。「すべてはほぼ確率的・・・に決められ」、「自らの運命について理由を問いただすことが、無意味なことになってしまっている」(東浩紀「ソルジェニーツィン試論」)のだ。

 この罠、この起源の掘り返せなさ、この残酷な造物主の残酷さに直面するところで、0号は「自分は心のないロボットなのではないか」という疑念とともにエラーを蓄積させていく。それは存在そのものに対する苦しみとしてある。あえて先に提示した言葉を持ち出すなら「人間的」な苦しみとして。

 明は0号のこの「人間的」な振る舞いに直面し、激しく苛立つ。明の「ロボット」性は、その合目的性に従って、作業効率を落とすゼロ号を自分から遠ざけ、排除しようとしていたのだ(*1)。しかし0号は「人間的」に明へと迫っていく。「ロボット」としての明へと。それは取りなさず、「ゲーム的主体」としてのすべての人々でもある。

*1:なお、ここにおける明の選択は、ある種のねじれを伴ったものとしてある。というのも、その「低下」をもたらしたのは、生の人間としての彼の、ゼロ号に対する恋心だったからだ。しかし人間の感情の機微が分からない「ロボット」としての明は、自分の感情についても把握できない。それがここにおいて「排除」という選択を取らせたものだ。

 この決定的なずれの中で、0号のエラーは加速していった。そしてその臨界点に、『メイクアガール』の終盤はある。

 終盤、トンネルで、0号は明のゴーグルを破壊する。投擲物によってひび割れ、地面に落ちたゴーグルの姿は、われわれにフレームの崩壊を提示している。それは虚実の皮膜の裂けでもある。象徴的な水準において、「あちら/こちら」の境界線は、すでに取り払われているのだ。

 そしてそのうえで、0号は明を刺す。

 ここで重要なのは、その攻撃が自分をも傷つけるものだという点だ。明に造形されたものはすべて、彼を攻撃できないように設定されている。その禁を破ることは、その身体の崩壊へとつながる。そうした造物主/被造物のヒエラルキーは、0号を動揺させてきたものだった。しかしその性質を織り込み済みで、彼女は明を刺すのだ。

 ここにおいて、被害と加害は高度に混ざり合っている。0号は刺しつつ、また刺されてもいる。自壊であると同時に、攻撃でもある。そしてその混淆は、存在にまで敷衍されていた。

 この終盤において、明の血は徹底して黒く描写される。それは赤い血、すなわち「人間の」血としては描かれない。ここにおいて強調されるのは明の右手の義手、つまり明の身体のうちの「ロボット」的な部分だ。刺すロボット=被造物/刺される人間=造物主という二項は、ここにおいて積極的に解体されている、といえる。

 しかしこの「刺殺」の起源に「無責任さ」があることは、決して見逃されるべきではない。

 ゲーム的主体=「ロボット」としての造物主が、自ら造形したものに対して不能であること、責任が取れないこと。0号による「刺殺」は、そうしたすべてへのバックラッシュとしてあるのだ。

 ここで、ヒエラルキーの混淆が機能してくる。演出が示唆しているのは、明は無責任さによって刺される対象であると同時に、刺す対象であったかもしれない、という可能性だ。フィジカルな面でも「ロボット」的に、人工生命的に描かれた明は、造形物としての性格を際立たされている。

 明を「造形」したのは、0号と高度に重ね合わされた彼の母親だ(なお、本作に「父親」の姿は登場しない)。明はここにおいて、0号を通じて母親を刺してもいる、とはいえないか。自分の前から去っていった不在の(そしておそらく「不能の」)造物主に対する攻撃。

 この「刺殺」は、しかし完遂されない(*2)。明は消えない傷を負ったままで生きていくことになる。そして0号は──奇妙にも復活を遂げる。これは「前書き」で記したような、ある種の「閉ざされ」のうちに作品を完結させようとする態度の現れなのだろうか。あるいは。

*2:「刺殺」はわれわれの住まうこの世界において、日本において、最もありふれた暴力としてある。2019年のホストめった刺し事件、2023年のすすきの首切断事件、無数の、詳細が記憶されない通り魔事件。それはつねに自分にとっての脅威であるが、同時に、「ありえない」を破壊する一撃、〈この世界〉を決定的に変革する一撃として見出され得るものでもある。

 とはいえ、われわれにとってそれ以上に重要なのはポストクレジットだ。こちらに向かって投げられたナイフと、それが砕く画面。ひび割れ。そして「2027」という文字。それはしばしば見られる予告の形態であるが、ここに僕は、そうしたメタ的・商業的な意味合いを超えた批評的契機を読み込んでしまう。それはあのトンネルの続きなのではないか。つまり0号の加害と被害が一体になった攻撃は、フレームを破るかたちでこちらにも波及しているのではないか。造物主としてのわれわれの座は、フレームをまなざす視座は、しかし──。

 はっきりとしたことは、いまだわからない。

 しかし『グリッドマン』以降、フィクションに開いた裂け目は、その危険な魅力によって、僕を惹きつけずにはおかない。そしてそれは、ひょっとするとわれわれの依って立つ視座を根底から揺さぶるような可能性を秘めているのではないか。

 そのような批評的契機を胚胎した作品として、『メイクアガール』はある。

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