クリスタルと、共に生きるまで②幼少期
小さなころの私は、たぶん、ちょっと変わっていました。
(本人にそんな自覚は無かったですし、今も私は、ひとりひとり、同じ人間はいないから、全員“ちょっとそれぞれ変わってる”って思っています。
そのユニークさが、世界を豊かにするんじゃないのかな、とも)
どう変わっていたのかというと、見えない世界の存在は、私にとって「物心ついたときから在る世界」でした。
シンプルに言うならば、霊が見えていました。
幼稚園に入るかぐらいのころは、人間と、霊的存在との違いがちょっとよく分からなくて、周りのお友達と話が合わないもんだから、あれ?みんなには見えてないのかな?って次第に気づいていった記憶です。
幼稚園の途中で家が引っ越したのと、弟が生まれて母が弟にかかりっきりになったのとで、幼稚園の後半は、一人で満員電車に20分くらい乗って、幼稚園のバスが来る旧家のところまで制服姿で通っていたのですが(今考えると、なかなかに我が家、スパルタ教育です)、混んでいる電車の、必ず同じ場所でつり革を握っているちょっと全体が黒ずんで見える人(不思議とそこには混んでいても空間が出来る)とか、横断歩道の前で、その場で同じ動作をずっとやっている人とか、最初はちょっとおかしな人間なんだと思っていた感じです。そういう人たちに話しかけられたりもして、普通に話したりしていました。(ま、端的に言うと地縛霊の方々です)
なんてったって一人でいる時間が長いもので、時折、生身の人間(おばさんとか)にも「ひとりで学校行くの?」的に声をかけられたりもあり、「ううん、幼稚園に行くの」とかから始まって、同じ電車の同じドアから毎日乗るから、顔見知りの乗客とかが出来てきて、ふつうに挨拶を返したりとかをしていたのです(ついていったりはしないですよ。むしろ、守ってくれていたのではないかと今は思っています)。
家に帰ってきて、親にも「今日もだれだれがいたよー」という話とかはしていたと思うんですけど、人か人じゃないかを区別して報告する、という発想は無かったんですよね。自分にとっては違いが曖昧だったから。
母が、そんな私の違和感に初めて気付いたのは、どうやら家の中でだったみたいです。
当時、お昼に「あなたの知らない世界」という心霊番組を(関西だと読売テレビで)やっていました。ちょっと記憶があいまいなんですが、ドラマ仕立ての回ではないもの、失踪した人を霊能者が探したり、霊障がある部屋をテレビに写して怪奇現象を捉えようとしたりとか、今の時代では考えられない、ど真ん中にサイキックな番組が、ふつうに、お茶の間で観れたんですね(出演者の新倉イワオさん、大好きだったなぁ)。
そこで、行方不明の人を探していて、池だか湖だかを探索する、みたいな回で、何らかの目星をつけて探している画面の奥の方を指さして、私が、
「そっちにはいないよ、もっと後ろのほうだよ」
って一生懸命言ってたらしいんですよね(私は全く、覚えてないのですけど。母がある時話してくれました)。
母も、じゃっかんの霊感がある人だったので、「あ、この子はちゃんと視えるのか」ってその時に思ったみたいです。その回では結局、その人は見つからず、私は、探す場所を間違っているからだとずっと言っていたようです。
母が私の「視える話」を否定せずに、
「そういう感覚がある人がたまにいる。ママにはそこまでハッキリわからないけれど、世の中には、たまにいるよ」
という態度で接してくれたことを、今、感謝しています。
あと、私が幼かったその時代、テレビにも霊能者がたくさん出ていたし、ユリ・ゲラーはスプーン曲げまくっていたし(もちろん私も一緒に曲げていました・笑)、目にする機会は多かったんですよね。それもありがたかったのかもしれません。
なんというか、その時の自分の「開かれてしまっていたアンテナ」みたいなものを、成長した中学生のころに、実はいったん封印してしまうのですが、アンテナそのものを否定されなかったことで、さらに大人になって、とある流れでクリスタルたちに出会う時に、アンテナが素直なまま通電したというか、変に曲がったり、周波数が変わって間違ったところに繋がってしまうようなことがなかったように思うからです。
「私が見えたり感じたりしていることは、一般的ではないかもしれないけれど、別に間違っていることではないんだな。本当はみんなが持っているはずのアンテナなんだよな」
と、かなりピュアに思えたことで、「見えない世界」を特別視することにも逆に繋がらなかったのではないかしら、と。
そのため、「見えない世界が見えることはすごいことだ」という発想に、全くなりませんでしたし、それと同じくらいの強度で、「見えない世界があることは普通のことなんだ」とも思っていました。
だって、皆さんの魂だって、レントゲンやCTとかに映らないけど、どこかしらにきっと存在していますよね? って話です。
守護霊さんも普通にいますよ(小さい時は一人の時間、すごく頻繁に、心の声で話しこんでいました)。
私たちはもともと、「見えない存在」から始まっていて、それはまごうことの無い、シンプルな事実なんだけれども、ほとんどの人がそのことを忘れてこの地球に生まれます。
(もしくは、言葉をうまく操れない3歳くらいまでは、わりと覚えているんだけれど、物心がついて外界の輪郭がはっきりしてくるにつれて、内界にある認知や生前の記憶は、無意識領域へと移行していくシステムに人類はなっている)
それでいいんです。それが正解です。
やっぱり、理由もちゃんとあって。
「目に見える現実を、肉体をしっかりと生きる・体験しつくす」ために、「見えない領域をキレイさっぱり忘れた方が、何かと都合がいい」からなんだと思います。その方が、なんというか、「人間をちゃんとやることへの集中力」が高まるんですよね。その濃淡が、今以上にもっと濃かった時代です。地球的にいうならば。
(今はまた、ちょっと違う感じになってきていますけれどね)
実際に私、成長するにつれて、だんだん都合が悪くなっていきましたので(苦笑)。
なので、こういったサイキックの質というものは、大人になった今の自分の認識としても、「人としてはバグ(欠陥)」だよなぁと思っています。
本来ならば、なくても良いよね、と。
何の因果か、バグを抱えて生まれてきちゃったね、残念ね、と。
「見えない世界を認知しない」方が、「人間としては品質が良い」のです。
だから、こういう「ぶっちゃけ話」をするのも、ちょっとドキドキするんですね。
「見えない世界を認知しない」方が当たり前の世界で、バギー(=欠陥まみれ)な話をしているわけなので。
でもまあ、世の中というものはこれもまた不思議なもので、「程度の差こそあれ、人はそれぞれ、何らかのバグ(欠陥)があったりもする」らしく、「なので、まあ、いろいろしんどくても、一人じゃないですよ、あなたも、そして私も」
ということを、この変てこな話を通して、お伝えする必要が、あるようなのです。
続きます。
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