White Day at WhisperNot ― ホワイトデーの夜 ―
三月の夜は、まだ少しだけ冷たい。
WhisperNotの窓の外では、
街灯の光が静かに路地を照らしていた。
カウンターの奥で、
マスターがレコードをかける。
針が落ちる。
流れ出したのは
Bill Evans “Waltz for Debby”
やわらかいピアノが、
店の空気を少しだけ春に変えた。
そのとき、
ドアのベルが小さく鳴る。
「いらっしゃい。」
入ってきたのは、
先月、ここでコーヒーを飲んでいた女性だった。
バレンタインの日。
彼女はこの席で、
小さなチョコレートを渡していた。
相手は――
まだ来ていない。
彼女は窓際の席に座る。
「今日は、ブラックで。」
「かしこまりました。」
マスターが静かにコーヒーを淹れる。
湯気が、
ランプの光に溶けていく。
レコードが変わる。
Chet Baker “My Funny Valentine”
もうバレンタインは終わったのに、
この曲が流れるのは、
たぶんマスターの小さないたずらだ。
そのとき、
もう一度ドアのベルが鳴る。
「こんばんは。」
少しだけ息を切らした男性が、
店に入ってきた。
彼は彼女を見ると、
少し照れくさそうに笑った。
「遅れてごめん。」
彼女は笑う。
「まだ、3分。」
マスターは何も言わず、
もう一杯コーヒーを淹れる。
レコードは三曲目に変わる。
Nat King Cole “L-O-V-E”
男性はポケットから
小さな包みを出した。
白い紙に包まれた、
シンプルな箱。
「これ。」
彼女は少し驚いた顔をする。
「覚えてたの?」
「一応、男なので。」
二人は笑う。
箱の中には
小さなクッキーと、
短いメッセージカード。
そこにはこう書いてあった。
“Thank you for the chocolate.”
それだけ。
だけど彼女は、
少しだけ目を細めた。
「シンプルだね。」
「…書きすぎると、恥ずかしい。」
レコードの音が
ゆっくり店を満たしている。
コーヒーの湯気。
夜の窓。
小さな笑い声。
マスターは、
次のレコードをそっと取り出す。
Ella Fitzgerald “It’s Only a Paper Moon”
恋は、
大きな出来事じゃない。
こういう夜が
少しずつ積み重なること。
たぶん、それだけだ。
WhisperNotの時計は
夜の11時を指していた。
窓の外では、
春が、
もうすぐそこまで来ている。
