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記事を書いたら、何度もAIに殴らせる

私は記事を書いたあと、
必ずやっていることがある。

反論させる。

チャッピーに。

別のチャットのチャッピーに。

別のChatGPTに。

クロッチ(Claude)に。

とにかく、いろんなAIに読ませる。

そして聞く。

「この記事に反対するなら?」

「一番痛い反論は?」

「この論理、本当に成立してる?」

「この記事が嫌いな人なら、どこを突く?」

「反対側の立場なら?」

「関係者なら?」

「一般の読者なら?」

「私に都合よく考えてない?」

「ただの感情論になってない?」

返ってきた答えを読んで、

また聞く。

「それ、本当に反論になってる?」

「もっと厳しく。」

「忖度してない?」

「それで終わり?」

何回殴らせんねん。

自分でもそう思う。

でも私は、
だいたいいつもこれをやっている。

AIの言うとおりには直さない

こう書くと、

AIに記事を添削してもらっている、

と思われるかもしれない。

ちょっと違う。

もちろん、

「確かに、ここ分かりにくいな。」

と思えば直す。

でもAIに、

「ここは削った方がいいです。」

と言われたからといって、

削るわけではない。

「結論をもっと明確にした方がいいです。」

と言われても、

そうするとは限らない。

普通に、

「いや、違うw」

となることも多い。

むしろ、
そこからが始まりだったりする。

「なんで違うと思った?」を見る

AIの指摘に対して、

「違う。」

と思った時。

私は、

その「違う」を見る。

なんで私は、
これを違うと思ったんだろう。

ただ指摘されたのが嫌だった?

図星だった?

それとも、

その修正をすると、
私が書きたかったものそのものが変わる?

たとえば、

「もっと結論を明確にした方がいい。」

と言われたとする。

でも私は、

「いや、もう書いてるけど。」

と思うことがある。

私がどう見ているのか。

どこに違和感があるのか。

何が起きているのか。

ちゃんと書いているつもりだ。

だったら、

「結論が弱い」のではなく、

私が結論だと思っている地点と、

AIが結論だと思っている地点が、

違うのかもしれない。

逆に、

「いや、ここは絶対必要。」

と思っていた文章に反論をぶつけ続けたら、

「あれ?
なくても成立するな。」

となることもある。

その時は消す。

AIが正しいからじゃない。

自分で確かめて、

いらないと分かったから。

自分の文章って、自分では見えにくい

記事を書いた直後って、

当然だけど、

私は私の論理の中にいる。

こう思った。

だから、こう考えた。

その結果、こう書いた。

私の中では、
全部つながっている。

だから読み返しても、

「うん。そうだよね。」

となりやすい。

でも、

その前提を持っていない人には、

全然違う景色が見えているかもしれない。

そこでAIを使う。

自分とは違う場所に、
とりあえず立たせてみる。

反対する人。

傷つく人。

納得できない人。

意味が分からない人。

全く違う価値観を持つ人。

いろんな場所から、
自分の記事を見てもらう。

すると、

自分の場所からだけでは見えなかったものが出てくる。

AIに証明させるもの

AIって、

聞き方次第で、

自分の考えをものすごく補強してくれる。

「私の考えって間違ってないよね?」

と聞けば、

「その考えには、こういう合理性があります。」

と説明してくれる。

「やっぱり相手がおかしいよね?」

と聞けば、

相手のおかしいところを探すことだってできる。

自分の意見を補強する材料なんて、

いくらでも集められる。

たぶん、

自分の正しさを確認するためにも、
AIは使える。

でも私は、

それだけには使いたくない。

「私が正しいとしたら?」

ではなく、

「私が間違っているとしたら?」

を聞く。

「この考えを補強して。」

ではなく、

「これを壊すなら?」

を聞く。

自分では立ちにくい、
自分にとって都合の悪い場所に、

AIを立たせる。

そこで見えたものを持ち帰って、

もう一度、

自分の文章を見る。

AIに、

「あなたは正しい。」

と言ってもらいたいわけじゃない。

自分でもう一回、
見てみたい。

反論をなくしたいわけではない

別に、

公開したあと批判されたくないから、

先に全部潰しているわけではない。

むしろ、

歓迎している。

そしてそもそも、

反論できない記事なんて、
たぶんない。

少なくとも、

私が書いているようなテーマに、
ひとつの正解があるとは思っていない。

価値観が違えば、

同じ出来事を見ても、
違うことを思う。

私の記事を読んで、

「私はそう思わない。」

という人がいるのも普通だと思う。

それをなくしたいわけじゃない。

正しい文章にしたいわけじゃない。

おりこうさんの文章になりたいわけじゃない。

私が知りたいのは、

その反論を受けたとしても、

それでも私は、これを書くのか。

ということだ。

壊れたところを見る

何度も反論をぶつけていると、

本当に壊れるところがある。

「それを言われたら、この論理は成立しないな。」

「私、ここ都合よく飛ばしてたな。」

「言いたいことと、書いてあることがズレてる。」

そう気づいたら、

直す。

場合によっては、

かなり大きく書き直す。

でも、

壊れたからといって、

必ず直すわけでもない。

弱いところがある。

別の見方もできる。

反論も成立する。

それが分かった上で、

それでも記事として機能しているなら、

そのまま残すこともある。

逆に、

何度反論をぶつけても、

「いや、それでも私はこう思う。」

と残るものもある。

全てのAIに反論されても、

なぜか譲れない部分がある。

それは、

意地でも、

AIより私の方が正しいという意味でもない。

私は、

AIに正解を教えてもらっているわけではない。

完璧に壊れない文章を作りたいわけじゃない。

どこまで壊れて、

それでも何が残るのか。

私はたぶん、

それを見ている。

自分でも知らなかったもの

この作業で一番面白いのは、

文章の通りが良くなることだけじゃない。

自分でも分かっていなかったことが、
出てくることがある。

「そこを直した方がいい。」

と言われて、

「嫌だ。」

と思う。

なんで?

と考える。

すると、

自分がその文章で何を守ろうとしていたのかが、
初めて分かったりする。

記事を書いていたはずなのに、

途中から、

自分の認識を潜っている。

何がそこにあるのか

誤字を直す。

文章を短くする。

読みやすくする。

重複を削る。

もちろん、
それも推敲だと思う。

でも私がやっているのは、

ちょっと違うのかもしれない。

自分の文章に、

違う視点をぶつける。

反論させる。

疑わせる。

壊してみる。

そして、

それでも残るものを見る。

だから私は、

記事を書き終わったら、

自分の記事を殴りにいく。

何がそこにあるのかを、

自分で見たいから。



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