PART1 『剣と魔法の国・3泊4日 癒しの旅
まえがき
長年勤めた会社を辞めた40代・体重90キロのおじさんが、
有り余る時間を持て余し、ふらりと立ち寄った旅行代理店で
『剣と魔法の世界 3泊4日』の異世界ツアーに申し込む。
異世界モノだけど、チート能力や特別な使命は一切ない。
そこに待っていたのは、鞍のない飛竜による絶望的な股擦れ、
ゴムタイヤのように硬い肉、そして泥水味のポーションだった。
現代の便利さに慣れすぎた中年の肉体が、
ひたすら異世界の理不尽な環境に打ちのめされ、
「アスファルト」やお手軽な「錠剤の薬」、
スマホ一つで届く「宅配ピザ」の異常な快適さを痛感していく。
息苦しい社会から逃げ出した先でおじさんが体験する、
異世界の過酷なリアルをお楽しみください。
第1話『90キロの億り人と、路地裏の異世界ツーリスト』
人生のターニングポイントというのは、思いもよらない角度から、しかも信じられないほど間の抜けたタイミングでやってくる。
40代後半、独身、体重90キロ。 健康診断の数値は年々右肩上がりだが、会社での評価はみごとに右肩下がりだった。ある日、上司から個室に呼ばれ、「来期からは、ちょっと君への期待値を変えさせてもらう。つまり、お給料は毎年少しずつ下がっていくコースになるんだけど……」と、オブラートを50枚くらい重ねたような事実上の戦力外通告を受けた。
普通のサラリーマンなら、ここで目の前が真っ暗になるのだろう。 しかし、まさにその時だった。私の左腕で、スマートウォッチが「ブブッ」と陽気なリズムで振動した。 ちらりと視線を落とすと、小さな液晶画面に、元気なキャラクターのアイコンと共にポップな文字が光っていた。
『長時間座りっぱなしです! 立ち上がって、軽くストレッチしましょう!』
信じられないほど、間抜けなタイミングだった。 目の前の男が「君の会社でのポジションはもう下がる一方だ」とこの世の終わりのような顔で語っているまさにその瞬間に、私の手首の機械は「さあ、立ち上がって次のアクションを!」と無邪気に促してきているのだ。
私はふっと息を吐き、そのアラートの指示に従うようにスッと背筋を伸ばすと、静かに「あ、じゃあ辞めます」と即答した。 上司が「えっ?」と鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたのを、今でも覚えている。
別に自暴自棄になったわけではない。 実は私、いわゆる「億り人」になっていたのだ。
と言っても、私に先見の明があったわけでも、血のにじむような企業分析をしたわけでもない。数年前、深夜のテンションでSNSを眺めていたとき、見ず知らずのアイコンが呟いていた「これからは半導体とAIがヤバい」という情報だけを鵜呑みにし、貯金を全額突っ込んでそのまま放置していただけである。 つまり、私の唯一の才能は「ネットの情報を疑わないピュアな心」だった。それが運よく大化けし、一生遊んで暮らせるだけの残高が証券口座に鎮座していたのである。
こうして私は、晴れて「有り余る時間と金を持て余した、ただの太ったおじさん」になった。
退職して最初の火曜日。 昼の11時に起き、パジャマのまま麦茶を飲みながら、「よし、海外旅行にでも行くか」と思い立った。ハワイでパンケーキを食べるガラではない。台湾あたりで、ひたすら角煮でも食べ歩こう。
私は着替えて街に出たが、駅前にある大手旅行代理店のガラス張りの店舗は、どうにも眩しすぎた。パンフレットを眺めるキラキラした女子大生や老夫婦の中に、平日の昼間から90キロの無職が紛れ込むのは、どうにも居心地が悪い。
路地裏をぶらぶら歩いていると、雑居ビルの2階に「ツノダ・ツーリスト」という古ぼけた看板を見つけた。 階段には、湿った段ボールと、昭和の喫茶店に染み付いたヤニのような匂いが漂っている。ここなら、私のような日陰の人間でも受け入れてくれそうだった。
ギィ、と鳴る重いアルミのドアを開けると、60代くらいの、白髪交じりでひどく猫背の店主が、新聞から顔を上げた。
「……いらっしゃい。どこか、行きたいところでも?」 「あ、いや。一人で、ちょっとのんびりできる海外とか、どうかなと思いまして。台湾とか……」
店主は私の全身をジロリと上から下まで舐め回すように見た。 「お客さん、最近仕事辞めたでしょ」 「えっ、わかりますか」 「わかるよ。その、時間だけが無限にあるみたいな、独特の気の抜け方ね。……台湾もいいけど、スマホばっかり見ちゃうでしょ。もっとこう、完全に日常から切り離された『海外』、行ってみない?」
そう言って彼がカウンターの下からゴソゴソと取り出したのは、わら半紙のように分厚くてザラザラした、手書きのパンフレットだった。
『剣と魔法の国・3泊4日 癒しの旅(※ポーションは不味いので注意)』

「……なんですか、これ。テーマパークか何かのツアーですか?」 「まあ、似たようなもんよ。ネットも繋がらないし、言葉も通じないけど、空気だけは無駄に美味い。お客さんみたいに、ちょっと人生休みたい人にはピッタリの場所だよ」
私は、店主が淹れてくれた、ほのかに埃っぽい味がするぬるいお茶をすすりながら、そのパンフレットを眺めた。 どうせ暇なのだ。VR施設か、あるいはそういうコンセプチュアルな村落(テーマパーク)に行くのも悪くない。億り人になったのだ、少しばかりの散財はバチが当たらないだろう。
「じゃあ、これで」 私はクレジットカードを出そうとしたが、店主は「うちは現金か、金貨だけなんだわ」と笑った。
手続きを終えると、店主は「じゃあ、お気をつけて」と、事務所の奥にある、トイレに続くような薄汚れた木のドアを指差した。
「ここから行くんですか?」 「そうそう。ドアノブ、ちょっと強めに回してね」
私は疑心暗鬼になりながら、そのドアを開けた。 てっきり、裏口からマイクロバスにでも乗せられるのだと思っていた。
しかし、一歩足を踏み出した瞬間。 雑居ビルのカビ臭さは一瞬で消え去り、代わりに、乾いた土の匂いと、どこかで獣が鳴く甲高い声、そして、肌をジリジリと焦がすような強烈な太陽の光が、私を包み込んだ。
振り返ると、そこにあるはずの「ツノダ・ツーリスト」の薄汚れたドアは跡形もなく消えており、見渡す限りの見知らぬ草原が広がっていた。
「……マジか」
私が異世界旅行の常連になったのは、この日がすべての始まりだった。 私の手には、スマホと財布、そして、あの埃っぽい旅行代理店で渡された「わら半紙のパンフレット」だけが握りしめられていた。
第2話『憧れの骨付き肉と、私のセラミック(差し歯)』
「ツノダ・ツーリスト」の裏口のドアを抜けた先の草原で、私はまず、激しい「股擦れ(またづれ)」の危機に直面していた。
わら半紙のパンフレットには、手書きのゆるい字で『最寄りの王都ルンまで、歩いてすぐ♪』と書かれていた。しかし、異世界人の「すぐ」は信用してはいけない。彼らの健脚と、スマホの歩数計が1日平均800歩しかカウントしない私の足とでは、基礎スペックが違いすぎるのだ。
ジリジリと照りつける太陽の下、90キロの巨体を揺らして歩くこと小一時間。 スウェットパンツの中で太もも同士が情赦なく擦れ合い、摩擦熱で火がつきそうになった頃、ようやく石造りの巨大な街並みが見えてきた。
王都の門をくぐり、私が真っ先に向かったのは酒場だった。 魔王の噂を集めるためでも、仲間を探すためでもない。シンプルに、喉がカラカラで腹が減っていたからだ。異世界の情緒を味わう前に、まずは己の生命維持を優先しなければならない。孤独な無職の腹の虫は、ファンタジー世界でも容赦なく鳴る。
大通りから一本入った路地裏に、いかにも「冒険者が集まりそうな酒場」があった。 重たい樫の木のドアを両手でギィッと押し開ける。
その瞬間、鼻腔をぶん殴ってきたのは、ツンとした酸っぱいエールの匂いと、獣の脂が焦げた匂い、そして「毎日お風呂に入る習慣がない屈強な大人たち」の、むせ返るような体臭だった。 薄暗い店内では、剣を背負った男たちが丸太のテーブルを囲んで騒いでいる。日本の居酒屋チェーンのように「いらっしゃいませー!」と元気な声が響くわけもなく、店主らしきスキンヘッドの大男が、顎で空いている席をしゃくっただけだった。
私は、座るとお尻が痛くなるゴツゴツした木の椅子に腰を下ろした。 メニューはない。周りの客が食べているものを指差して、店主に「あれと同じものを」とジェスチャーで伝えた。
やがて、ドンッ!と乱暴な音とともに私の前に置かれたのは、木のジョッキになみなみと注がれた濁ったエールと、大きなお皿に乗った「巨大な骨付き肉」だった。

おお、これだ。これぞ異世界。 アニメや漫画で主人公たちが豪快に噛みちぎる、あの「マンガ肉」である。 億り人になってからというもの、六本木の高級焼肉や、銀座の回らない寿司も食べたが、この原始的なビジュアルの暴力には敵わない。私の脳内で、野生のスイッチがカチッと入った。
まずはエールで喉を潤す。 木のジョッキはふちがささくれ立っていて、唇にトゲが刺さらないかヒヤヒヤした。おまけに常温だ。日本のキンキンに冷えた生ビールがいかに奇跡の飲み物であるかを痛感しつつ、私は本命の「骨付き肉」を両手でわしづかみにした。
ずっしりと重い。肉汁が指を伝う。 私は意を決して、分厚い肉の塊にガブリと食らいついた。
……硬い。
なんだこれは。古くなったゴムタイヤを噛んでいるのか? いや、違う。ゴムタイヤのほうがまだ噛み切りやすいかもしれない。圧倒的な弾力が、私の顎を力一杯押し返してくるのだ。
「フンギィィィ……ッ!」
私は首を振り、犬がおもちゃを振り回すようにして肉を引きちぎろうとした。 しかし、肉の繊維は強靭だった。噛めば噛むほど、血抜きが甘いのか、野生の獣特有の強烈な臭みが口の中に広がっていく。
そして、その死闘の最中、私の脳裏に「ある恐怖」がよぎった。
(待てよ……これ、右上のセラミックの差し歯、取れるんじゃないか……?)
一昨年の冬、歯医者で12万円払って入れた、私の大切なセラミック。 もしこんな異世界の片田舎で差し歯がポロリと取れてしまったら、どうなる? 治癒魔法で歯は生えるのか? いや、無理だろう。そもそも、言葉も通じないこの街で「歯医者を教えてください」とどうやって伝えるというのだ。
私はスッと冷静になった。 12万円のセラミックを、この得体の知れないゴム肉と引き換えにするわけにはいかない。
私は肉からそっと口を離し、骨付き肉をお皿に戻した。 そして、肉の横にコロンと添えられていた、ただの「塩茹でした芋」をフォークで刺した。
ホクホクとした芋を口に入れた瞬間、素朴な塩味と柔らかさが、疲れ切った私の顎と心にじんわりと染み渡った。美味い。涙が出るほど美味い。異世界の芋、最高だ。ありがとう、農家の人。
周りでは、冒険者たちが豪快に肉を噛みちぎりながら、ジョッキを打ち鳴らしている。 その騒騒しい喧騒の中で、私はただ一人、90キロの巨体を丸め、リスのように前歯だけで少しずつ、少しずつ、芋を削るように食べていた。
異世界の洗礼は、魔物でも魔法でもない。 「圧倒的な顎の筋力不足」という、残酷なまでの老いの現実であった。
第3話『干し草のベッドと、無愛想なおかみの足湯』
塩茹での芋でどうにか胃袋を満たした私は、酒場の二階にある宿屋に部屋を取った。 ツノダ・ツーリストで両替してきた、チョコレートの銀紙みたいな分厚い銀貨を一枚渡すと、恰幅のいい、そして無愛想なおかみが無言で木製の鍵を渡してくれた。
案内された部屋へ向かう階段は、日本の建築基準法なら一発でアウトになるほど急勾配だった。90キロの巨体が一段登るたびに、階段が「ギィィ……ッ」と悲鳴を上げる。床を踏み抜いて一階の酒場に落下するのではないかと冷やや汗をかきながら、私はようやく自分の部屋にたどり着いた。
ガチャリと扉を開ける。 四畳半ほどの薄暗い部屋には、小さな丸窓と、ポツンと置かれたベッドがひとつ。
私は重いリュックを下ろし、ベッドに腰掛けた。 「バシャッ」 鈍い音がして、お尻の下で何かが潰れる感触があった。
マットレスではない。麻袋の中に、大量の「干し草」が詰め込まれているのだ。 横になってみると、背中のあちこちに硬い茎のようなものがチクチクと刺さる。おまけに、長年いろんな旅人が染み込ませてきたであろう、汗とホコリの匂いがうっすらと漂ってきた。 シモンズのふかふかなベッドに慣れきった現代の四十代にとって、これはもはや「寝床」ではなく「修行場」である。
さらに悪いことに、夜になると石造りの部屋は急激に冷え込んだ。 丸窓の隙間から、容赦なく隙間風が吹き込んでくる。私はユニクロのノーカラージャケットのジッパーを上まで上げ、リュックを抱きしめるようにして丸くなった。
寒い。そして、痛い。 今日一日、舗装されていないデコボコの土の道を歩き回ったツケが、今になって一気にやってきたのだ。ふくらはぎはパンパンに腫れ上がり、膝の関節は熱を持っている。
(……なんで俺、異世界なんて来ちゃったんだろう)
薄暗い部屋の中で、私はふと我に返った。 億り人になって、時間が有り余っていたとはいえ、おとなしく熱海の温泉旅館にでも行っていれば、今頃は畳の上でフカフカの布団に包まれていただろう。 こんな干し草の上で、寒さと関節痛に震えているなんて、滑稽すぎる。
その時だった。 コンコン、と控えめなノックの音がして、扉が開いた。
立っていたのは、先ほどの無愛想なおかみだった。 彼女の腕には、私のような巨体でもすっぽり包めそうな、巨大で分厚い「獣の毛皮」が抱えられている。さらに、その足元には、湯気を立てる大きな木の桶があった。
おかみはズカズカと部屋に入ってくると、私が寝ている干し草のベッドの上に、バサリと毛皮を投げかけた。 「うわっ……」
思わず声が出た。その毛皮、ものすごく「獣の匂い」がしたのだ。雨の日の大型犬を、さらに三日ほど風呂に入れなかったような強烈な匂い。しかし、それと同時に、ものすごい重みと「温かさ」が私を包み込んだ。
おかみは私の顔など見ず、今度は足元の木の桶を指差し、何かを短く呟いた。 言葉はわからない。しかし、彼女の視線は私の「パンパンに張ったふくらはぎ」に向いていた。
私は促されるまま、ベッドに腰掛け、靴下を脱いでその桶に足を入れた。 「あ……っ、はあぁぁ……」

思わず、だらしない声が漏れた。 桶の中には、ただのお湯ではなく、青い葉っぱのようなものが浮かんでいた。それが薬草なのか何なのかはわからないが、ジンジンと痛んでいた足先に、熱いお湯が染み渡っていく。 凍えていた血流が、一気に全身を巡り始めるのがわかった。極楽だ。
私が放心状態でお湯に浸かっていると、おかみは少しだけ満足そうに鼻を鳴らした。 そして、部屋を出て行こうとする彼女の背中に向かって、私は思わず声をかけた。
「あ、あの……ありがとう」
当然、日本語だ。通じるはずもない。 しかし、おかみは足を止め、振り返って私の顔を見た。 そして、チェックインの時には見せなかった、深く刻まれたシワをくちゃくちゃに折りたたむような、とても優しくて温かい笑顔を見せた。彼女はこくりと一つ頷き、静かに扉を閉めた。
一人になった部屋で、私はポカポカになった足を桶から出し、手ぬぐいで拭いた。
ベッドに潜り込み、あの重たい毛皮を被る。 相変わらず、雨の日の大型犬の匂いは強烈だった。背中の干し草もチクチクする。 だけど、不思議と嫌な気分ではなかった。
言葉も通じない、名前も知らない異世界のおばちゃんが、足を引きずって階段を登る太ったおじさんのために、わざわざお湯を沸かし、重い毛皮を運んできてくれた。 その事実が、冷え切っていた私の心を、お湯よりもずっと熱く温めてくれていた。
「……異世界も、悪くないな」
私は大型犬の匂いに包まれながら、いつの間にか深い眠りに落ちていた。 その夜は、一度も目を覚ますことはなかった。
第4話『オプショナルツアーと、ドブの匂いがするスライム』
あの獣臭くも温かい毛皮のおかげで、昨晩は泥のように眠ることができた。 翌朝、足の痛みもすっかり引いていた私は、すこぶる機嫌が良かった。億り人特有の「心と懐の余裕」というやつが、私を少しだけアクティブな気分にさせていた。
せっかく異世界に来たのだ。観光名所を巡るだけでなく、少しは「それらしいアクティビティ」も体験しておきたい。ハワイに行ったらウミガメと泳ぐツアーに参加するように、異世界に来たらやはり「魔物狩り」だろう。
私は大通りにある冒険者ギルドへ向かった。 そこは屈強な男たちのむせ返るような体臭に満ちた、まるで区役所の窓口のような場所だった。言葉は通じないが、パンフレットの挿絵と身振り手振り、そして銀貨数枚の力で、なんとか「初心者向けスライム討伐体験ツアー(ガイド・レンタル武器付き)」らしきものに申し込むことができた。
案内してくれたガイドは、そばかす顔の15歳くらいの少年だった。 彼は私に、レンタル品である「太い木の棍棒」を手渡してきた。受け取った瞬間、私の腕はズンッと下に持っていかれた。
(重っ……!)
ただの木の棒だというのに、野球のバットの三倍は重い。表面はヤスリがけすらされておらず、ささくれ立っている。これを素手で振り回せというのか。私は一抹の不安を覚えながら、少年の後をついて村の外れにある草原へと向かった。
太陽がジリジリと肌を焼く。歩くこと20分、少年がピタリと立ち止まり、草むらを指差した。
いた。スライムだ。 ゲームやアニメで見るスライムは、半透明でプルプルした、まるでソーダ味のゼリーのような可愛らしい姿をしている。 しかし、現実のそれはまったく違った。
色は淀んだ緑色で、表面にはブツブツとした気泡が浮き沈みしている。そして何より、風に乗って漂ってくる「匂い」が最悪だった。 夏の終わりに干上がった、ヘドロまみれのドブ川の匂い。あるいは、三日間放置した熱帯魚の水槽の匂いである。

「うっ……くっさ……」 思わず鼻をつまむ私を見て、少年は「さあ、やっちまいな!」とばかりに背中を叩いた。
やるしかない。私は90キロの体を踏ん張り、重い棍棒を両手で振りかぶった。 「どりゃあぁぁぁ……ッ!」
――ピキッ。 その瞬間、私の右肩から首にかけて、鋭い稲妻のような痛みが走った。 四十肩である。日頃マウスより重いものを持たない私が、無理な姿勢でフルスイングなどして無事で済むはずがなかった。
「いっ、だあああ!!」
激痛に顔を歪めながらも、振り下ろされた棍棒は重力に従い、スライムの脳天(?)に直撃した。 ゲームならここで「パシャァン!」という爽快な破裂音とともに、スライムが光の粒子となって消え去るはずだ。
しかし、現実は違った。 「ベッチャアァァァッ!!」
生暖かい、強烈な水しぶきが飛び散った。 棍棒に潰されたスライムは、中途半端にちぎれてドロドロの粘液を撒き散らし、私のユニクロのノーカラージャケットとスウェットパンツに、べっとりと付着したのだ。
「うわあああ! 汚っ! くっさ!!」
粘液は、納豆とヤマト糊を混ぜたような最悪の粘度を持っていた。しかも、強烈なドブの匂いが、今度は至近距離から私の鼻腔を直撃する。 パニックになりながら服を拭おうとする私の足元で、真っ二つに分裂したスライムが、ポヨン、ポヨンと不気味に蠢きながら再生を始めている。
「もういい! 無理無理無理無理!」
私は棍棒を放り投げた。 そして、ポケットから銀貨を一枚取り出すと、呆然としている少年の手に握らせ、スライムを指差して「お願い! あとよろしく!」と日本語で叫んだ。
少年は銀貨と私を交互に見比べると、肩をすくめ、腰の短剣を抜いた。そして、熟練の魚屋がアジを捌くような手際で、あっという間にスライムの核らしきものを突き刺し、討伐を完了させてしまった。
その後、私は木陰に座り込み、持参したぬるい水を飲みながら、少年が次々とスライムを間引いていくのをただ眺めていた。
右肩はジンジンと痛み、お気に入りのジャケットからはドブの匂いが取れない。 金で他人に戦わせるという、億り人特有の最低な資本主義的解決策を使ってしまった罪悪感と、圧倒的な疲労感。
「魔物狩りなんて、二度とやるもんか……」
私は草の上に寝転がり、流れていく異世界の雲を見つめた。 剣と魔法の世界においても、四十肩の痛みと、運動不足の現実は、決して魔法で消えたりはしないのだ。私は、残りの日程はすべて「食う、寝る、足湯」の三つに全振りすることを、静かに、そして固く心に誓った。
第5話『路地裏の猫耳と、資本主義の猫じゃらし』
スライム討伐(という名のお金での解決)から一夜明け、私はすっかり異世界の空気に馴染んだ気になっていた。 ノーカラージャケットに染み付いたドブの匂いも風に晒してなんとか消え、私は王都の賑やかな市場をぶらぶらと歩いていた。
私は、無類の猫好きである。 幡ヶ谷の路地裏を歩いているときなど、野良猫を見かけるとつい立ち止まってしまうし、実は今も、靴の中には密かに「猫柄の靴下」を履き、ジャケットの下には「猫のプリントTシャツ」を着込んでいる。40代後半・90キロの独身男性としては少々ファンシーすぎる自覚はあるが、猫への愛は誰にも止められない。
そんな私が、異世界の市場の片隅で「それ」を見つけてしまったのは、ある意味で必然だったのかもしれない。
果物屋と布屋の間の、少し薄暗い路地。 そこにしゃがみ込んでいる人影の頭に、ピンと立った三角の耳があった。しかも、そのお尻のあたりからは、ふさふさとした長いしっぽが揺れているではないか。
(ね、猫耳……!)
異世界ファンタジーにおける王道中の王道、獣人である。 そのしっぽの優雅な揺れ方を見た瞬間、私の脳内で「幡ヶ谷の路地裏スイッチ」が完全にオンになってしまった。理性よりも先に、猫好きとしてのDNAが暴走したのだ。
私は吸い寄せられるように路地に入り、その背中の後ろにそっと近づいた。 そして、90キロの巨体を揺らしてしゃがみ込み(膝がパキッと鳴った)、最高に甘ったるい、自分でも吐き気のするような「猫撫で声」を出してしまったのである。
「チッチッチッ……おいで〜。どうちたの〜、こんなところにいちゅわって〜。にゃあ〜ん」
私は右手で、見えない猫じゃらしを振るようなジェスチャーまで添えていた。完全に不審者である。
「……あ?」
ドスッと響くような、地鳴りのような低い声がした。 ゆっくりと振り返ったその「猫耳」の持ち主を見て、私の心臓はヒュッと縮み上がった。
そこにいたのは、アニメに出てくるような華奢で可愛い猫耳美少女などでは断じてなかった。 身長は2メートル近くありそう。丸太のように太い腕には無数の刀傷が刻まれ、顔の左半分には眼帯。そして、口からは鋭い牙が覗いている。 例えるなら「歴戦の傭兵の顔面に、無理やり猫のパーツをくっつけた生き物」であった。
彼は路地に敷いた布の上で、血の匂いがする巨大な牙や、謎の獣の毛皮を並べて売っている最中だったらしい。
「なんだ、てめェ……俺を舐めてんのか?」
眼帯の奥の鋭い隻眼が、私を射抜いた。 空気が凍りついた。本能が「こいつはヤバい。ワンパンで首が飛ぶ」と警鐘を鳴らしている。 「チッチッチッ」の形に固まっていた私の右手は、ゆっくりと震え始めた。
言葉は通じないが、私が彼を「ペット扱い」して舐め腐った態度をとったことだけは、万国共通の殺気として完全に伝わってしまったのだ。大剣の柄に、彼の手がゆっくりと伸びる。
終わった。私の異世界旅行は、己の猫好きのせいで幕を閉じるのか。
その時、私の脳裏に「億り人」としての本能が閃いた。 この世の揉め事の9割は、資本主義の力で解決できる。私は震える手を素早くポケットに突っ込み、ツノダ・ツーリストで両替してきた分厚い銀貨を3枚、いや5枚、彼の目の前の布に叩きつけるように置いた。
「アッ、アイムソーリー! ノー舐めてる! これ! これ全部買う! オールバイ! イエス!!」
私はめちゃくちゃなルー語と身振り手振りで、彼が売っていた「血の匂いがする牙」と「ゴツゴツした謎の骨のネックレス」をすべて指差した。
獣人はピタリと動きを止めた。 銀貨5枚。それがこの世界でどれほどの価値かはわからないが、路地裏の露天商にとっては、おそらく数ヶ月分の売上に匹敵する大金だったのだろう。
彼の鋭い隻眼が、銀貨と私を三往復くらいした。 そして、ゆっくりと大剣から手を離し、牙を剥き出しにして、ニヤリと笑った。
「……まいどあり」
彼はそう言った(気がした)。 そして、丸太のような太い手で私の右手を取り、骨が砕けそうなほど力強く、ガッチリと握手を交わした。種族の壁を越え、売り手と買い手としての確かな「絆」が生まれた瞬間だった。
帰り道。 私は宿屋のベッドの上に、買ったばかりの「謎の牙」と「骨のネックレス」を並べて途方に暮れていた。 どう考えても、日本の税関を通れそうにない代物である。そもそも、こんな呪われそうなアイテム、家に飾りたくもない。

しかし、私の命を救ってくれた大切な品だ。 私は深くため息をつきながら、靴を脱ぎ、猫柄の靴下を見つめた。 異世界の猫(獣人)は、ちゅ〜るではなく、銀貨で撫でるのが一番安全なのだと、私はこの日、高い勉強代を払って学んだのである。
第6話『90キロのヴィーナスと、初めての「ごめんなさい」』
私の腹には、立派な浮き輪がついている。 40代に差し掛かった頃から、どれだけ腹筋をしても、この浮き輪は決してしぼむことなく、年々その質量を増していった。
日本にいた頃、会社の健康診断では産業医に「このままだと死にますよ」とため息をつかれ、電車で座れば隣の若い女性にスッと肩をすくめられる。私にとって自分の90キロの肉体は、ただの「劣等感の塊」であり、重たい十字架だった。
異世界に来てからも、その十字架は健在である。すぐ息は上がるし、膝は痛い。この過酷な剣と魔法の世界において、脂肪などただのデッドウェイト(死重)でしかないと思っていた。あの日までは。
その日の午後、私は王都の広場のベンチで、クレープのような薄焼きパンに甘い豆のペーストを塗った異世界のスイーツをかじっていた。
その時だった。太陽の光を遮るように、私の目の前に巨大な影が落ちた。
見上げると、そこには身長2メートル近い、筋骨隆々の戦士が立っていた。 赤銅色に日焼けした太い腕。歴戦の山賊のようにゴツゴツとした四角い輪郭に、無数の刀傷。どう見ても「屈強な男」の顔立ちだったが、革と鉄でできた防具の胸元だけが、物理法則を無視したかのようにドカンと前方にせり出している。 その圧倒的な質量(巨乳)を見て、私はかろうじて「あ、女性なんだな」と認識した。
私が呆然としていると、女戦士はズンッと片膝をつき、私の目の前にしゃがみ込んだ。 そして、丸太のような巨大な手を伸ばし、私の「ぽっこりと出たお腹」を、指先でそっと、まるで壊れ物を扱うようにツンッと突いたのだ。
「……ッ!?」 私がビクッと身を縮めると、彼女は私のお腹の「プニッ」とした感触を確かめ、ほうっと熱い感嘆の溜息を漏らした。そして今度は、両手で私のお腹を大事そうに包み込み、撫で始めたではないか。
パニックになる私の元へ、見かねた露店の店主(少し日本語がわかる案内人のおじさん)が駆け寄ってきた。店主は女戦士と二、三の言葉を交わすと、呆れたような顔で私に向き直った。
「お客さん、あんた、求婚されてるよ」 「……はい?」 「彼女、北の荒野の部族の戦士なんだけどね。『こんなに美しくて、柔らかくて、真っ白な男は見たことがない。ぜひ私の夫になって、私のテントで一生守らせてほしい』って言ってる」
私の脳内は完全にバグを起こした。美しい? 柔らかい? このメタボ腹が?
店主の話によれば、常に魔物や他部族との命懸けの戦いを強いられている彼女たちの文化において、「体に傷一つなく、たっぷりと脂肪を蓄えている男」というのは、「戦う必要がないほどの圧倒的な富と平和の象徴」なのだという。
女戦士は腰の袋から、蜂蜜がたっぷりとかかった高価そうな木の実のタルトを取り出した。彼女はそれを私の両手に握らせ、傷だらけのいかつい顔を少しだけ赤らめ、乙女のようにはにかんでみせた。
「食え、私の柔らかい王子様」 言葉はわからなくても、その眼差しが、あまりにも純粋な敬意と好意に満ちていることだけは痛いほど伝わってきた。
私は、タルトの重みと蜂蜜の匂いを感じながら、なんだか泣きそうになってしまった。 40年以上生きてきて、自分のこの醜いお腹を、こんなに優しい手つきで、まるで宝物のように撫でてくれた人間がかつていただろうか。誰からも期待されず、自分自身でも諦めていた肉体が、この遠い異世界の空の下で、全肯定されたのだ。
「……ありがとう」 私は心からの笑顔で、彼女の目を見て言った。 「でも、ごめんなさい。私、もう少しだけこの世界を一人で歩いてみたいんだ」
案内人の店主が通訳すると、彼女は少しだけ悲しそうに目を伏せた。しかし、すぐに立ち上がると、私の肩をポンッと優しく(それでもむち打ちになりそうなくらい痛かったが)叩き、颯爽と人混みの中へと消えていった。

残された私は、ベンチに座り、タルトを一口かじった。 口いっぱいに広がる蜂蜜の強烈な甘さ。
その甘さを噛み締めながら、私はふと、とんでもない事実に気がついた。
(……俺、今、女の子を『振った』のか?)
バレンタインデーの最高獲得記録は「母からのチロルチョコ」のみ。そんな筋金入りの非モテおじさんが、生まれて初めて女性の求婚を断ってしまったのだ。
もし、あの手を取っていたらどうなっていた? 私は北の荒野のテントで暮らす。夕方、オークの生首をぶら下げて帰ってきた彼女が「ただいま、私の柔らかい王子様」と、血まみれの屈強な腕で私を抱きしめる。愛の証として、彼女のあのゴツゴツした山賊のような頬ずりが、私の柔らかい顔肉にめり込む……。
いやいやいや、ないないない! 私は思わず首を横に振った。熊のハグである。いくら平和の象徴扱いでも、命がいくつあっても足りない。
危ないところだった、と冷や汗を拭いながらも、私の口角は少しだけ上がっていた。
日本に帰れば、また「痩せろ」と迫害されるだけの、邪魔な脂肪の塊だ。 でも、今日だけは。初めて女の子を振ってしまった「90キロのヴィーナス」に、少しだけ胸を張ってもいいような気がした。
第7話『飛竜の空の旅と、片道切符の絶望』
異世界の街にもすっかり慣れてきた頃。私は少し離れた隣町まで足を伸ばすことになった。
徒歩や馬車では丸一日かかる険しい山越えのルートだ。四十肩と膝の痛みを抱える私にとって、山道など自殺行為に等しい。どうしたものかと悩んでいると、街の広場に「飛竜(ワイバーン)便・隣町まで直行」という看板を出している商人がいた。
おお、これぞファンタジーの醍醐味である。 広場の奥には、見上げるほど巨大な、緑色の鱗を持った翼竜が大人しくしゃがんでいた。映画『ネバーエンディング・ストーリー』のファルコンのように、大空を優雅に滑空するロマンチックな旅。私は高鳴る胸を抑え、少し高い銀貨を払って搭乗手続きを済ませた。
しかし、案内された飛竜の背中を見て、私は嫌な予感を覚えた。
「……あの、鞍的なものは?」 「鞍? そんなもんねえよ。この手綱の革紐にしっかり掴まってな。あんた重そうだから、振り落とされないように気をつけてな」
御者の男は鼻で笑い、私をワイバーンの背中へとよじ登らせた。
跨ってみて、絶望した。 ワイバーンの背骨は、ゴツゴツとした巨大な岩の連なりのように尖っていたのだ。おまけに、表面の鱗はヤスリのようにザラザラしている。 座面は平らではなく、完全に「山の尾根(V字)」である。そこに90キロの体重が乗るのだ。出発前からすでに、私の股間と尾てい骨には「三角木馬」に乗せられたような鋭い圧が掛かっていた。

「じゃあ、飛ぶぞ!」
御者の合図とともに、ワイバーンが巨大な翼を広げ、力強く地面を蹴った。 「バサァッ!!」
「んぎゃあぁぁぁッ!?」
凄まじいG(重力)とともに体が上空へ押し上げられた瞬間、私の口からカエルのような悲鳴が漏れた。 ワイバーンが羽ばたくたびに、背中の筋肉が大きく盛り上がり、尖った背骨が下から私の股間を容赦なく突き上げてくるのだ。
「痛い痛い痛い! 割れる! 骨盤が真っ二つになる!!」
風切り音で私の声など誰にも届かない。 高度1000メートルの空の旅は、ロマンとは程遠い「物理的な拷問」だった。
上空の風は、息をするのも苦しいほどの暴風だ。ノーカラージャケットの隙間から氷のように冷たい風が入り込み、急激に体温を奪っていく。 ドライアイの目は涙でボロボロになり、時折、パチンッ! と正体不明の硬い虫が顔面に激突してくる。
しかし何よりも辛いのは、やはり「鞍がない」という圧倒的な人間工学の欠如であった。 上下にバウンドするたびに背骨の突起が食い込み、内股はヤスリのような鱗と擦れ合って、ジーンズの生地越しでも火が出るように熱い。私は涙と鼻水を流しながら、ただひたすらに手綱の革紐を握りしめ、この生き地獄が終わるのを祈り続けた。
「ほら、着いたぞ。降りな」
隣町の広場に着陸した時、私は自分の足で立つことができなかった。 股関節は完全に麻痺し、内股はひどい股擦れを起こしてガニ股のまま固まっている。私は生まれたての子鹿のようにプルプルと震えながら、ワイバーンの背中から滑り落ち、地面の土に這いつくばった。
「……もう二度と、空なんか飛ばない」
涙目で地面の草を握りしめ、私は固く誓った。 空を飛ぶのは確かに奇跡だが、鞍のない飛竜に乗るなど、ただの拷問である。
しかし。 地面に這いつくばったまま、私はふと、とんでもない事実に気がついてしまった。
ここは、王都から丸一日かかる「隣町」である。 そして私の帰りの切符、つまり日本へ繋がる「ツノダ・ツーリストの扉」は、王都の宿屋にあるのだ。
ということは、私はあの王都へ「帰らなければならない」。 空を飛ばないということは、徒歩か、サスペンションの欠片もない木の馬車に乗って、丸一日かけてデコボコの山道を引き返すということだ。 この、ワイバーンの鱗でズタズタに股擦れを起こし、ガニ股でしか歩けなくなった、悲鳴を上げる下半身を引きずって。
「……嘘だろ」
夕暮れの空へ向かって、バサァッ!と意気揚々と飛び立っていくワイバーンの背中を見上げながら、私は己の計画性のなさを呪い、異世界の冷たい土の上で静かに絶望の涙を流したのだった。
第8話『初めてのダンジョンと、幻のドローン空撮』
鞍のないワイバーンによる空の旅は、私の股関節と太ももの内側に壊滅的なダメージを残した。 もう二度と、背骨のゴツゴツした空飛ぶ爬虫類になんか乗るものか。激痛の走る股間をかばいながら、私はガニ股でペタペタと王都の石畳を歩いていた。
ツノダ・ツーリストのよれよれのわら半紙によれば、次の行程は王都から馬車で北へ向かった先にある「試練の洞窟」。いわゆる新米冒険者たちの登竜門と呼ばれるダンジョンである。
本来なら「ダンジョン」などという物騒な響きの場所には、この無防備な90キロの肉体で近づきたくはない。しかし、ワイバーンの拷問から解放されたばかりの私にとって、「初心者向け」という言葉は不思議な安心感があった。
それに、洞窟である。ひんやりと涼しいに違いない。 灼熱の太陽とホコリっぽい馬車の移動にやられた中年男にとって、天然のクーラーは非常に魅力的だった。「初心者向けの洞窟なんて、要するに観光地化された鍾乳洞ツアーみたいなものだろう」。私の脳内には、修学旅行で行った山口県の秋芳洞のような、歩きやすく舗装された遊歩道と、カラフルなLEDライトでライトアップされた涼しげな地底湖のビジョンが広がっていた。
せっかく異世界に来たのだ。涼みがてら、ちょっと地底探検でも見学してやろう。
そんな観光客気分丸出しの軽い気持ちで足を運んだ私だったが。 洞窟の入り口に立った瞬間、私の冒険(という名の見学ツアー)は早くも終わりの気配を見せていた。
ぽっかりと空いた巨大な岩穴の奥には、下へと続く石段があったのだが、これが日本の建築基準法を完全に無視した、体感45度の急勾配だったのだ。しかも、表面にはびっしりと濡れた苔が生え、一段一段の高さもバラバラである。
「……これ、降りるの?」 私は絶望的な気分で、暗闇へと続く階段を見下ろした。

90キロのわがままボディを支える私の膝は、その光景を見ただけで「これ以上踏み込んだら、二度と地上には戻さないぞ」とストライキを宣言していた。このダンジョンの真のボスは、奥に潜むゴブリンなどではない。この「膝破りの階段」である。
横をすり抜けていく若い冒険者たちは、軽い身のこなしで次々と暗闇の底へ降りていく。 私も、ダンジョンの奥底にあるという光る鉱石や、巨大な地底湖の景色は見てみたい。しかし、命(と膝の軟骨)を懸ける気には到底なれないのだ。
洞窟の入り口にある手頃な岩にドッコイショと腰を下ろし、私は深いため息をついた。
「ああ……ここにドローンがあればなぁ」
この時、私が心から欲したのは、伝説の聖剣でも強力な炎の魔法でもなかった。 DJIの高機能ドローンと、リアルタイム出力機能のついたGoProである。
もし今の私にそれがあれば、どうだ。 私はこの安全で日当たりの良い岩の上にどっかと座り、手元のコントローラーを握るだけでいい。暗闇のダンジョンを、高性能なLEDライトを搭載したドローンが静かに、そしてスピーディーに進んでいく。急な階段も関係ない。トラップの矢が飛んできても、巧みなスティックさばきでヒュンッと避ける。 手元の4Kモニターには、高画質のGoProが捉えた地底湖の絶景が、リアルタイムで鮮明に映し出されるのだ。
「そこ右! あー、宝箱あるね。でもミミックかもしれないから、上からズームで確認して……よし、安全!」
私は岩の上で一人、手の中にある幻のプロポ(送信機)を操作しながら、ブツブツと呟いた。 想像するだけで最高だ。汗水垂らして泥だらけになっている冒険者たちを尻目に、水筒のぬるい水を飲みながら、安全圏からダンジョンの全貌を暴く。これぞ、現代の大人の資本主義的・異世界攻略法である。
しかし、悲しいかな。現実の私の手の中には、ドローンのコントローラーではなく、先ほど道端で拾ったただの木の枝しか握られていない。
「……帰るか」
一時間ほど岩の上で『幻の空撮』を楽しんだ後、私はゆっくりと立ち上がった。 ダンジョンを一歩も進んでいないというのに、なぜかものすごい達成感と、少しの虚しさが胸を満たしていた。
どれだけ異世界の魔法が凄くても、おじさんの膝を守りながら絶景を届けてくれる「現代テクノロジー」の優しさには敵わない。 私は帰り道、空を飛ぶワイバーンを見上げながら、いつかこの世界に最新型のドローンを密輸してやる、と固く心に誓ったのだった。
第9話『事務的な回復魔法と、緑色の泥水』
ワイバーンの強烈な股擦れと、過酷なダンジョン探索。立て続けに異世界の理不尽な洗礼を浴びた私の四十代の肉体は、完全に限界を迎えていた。
腰は爆発寸前、両膝は笑いっぱなしである。這うようにして宿のロビーに辿り着いた私は、「あいたたた……」と大げさに腰をさすり、女将に向かって「これ、なんとかならない?」と懇願するようなジェスチャーを送った。
言葉は通じないが、万国共通の『限界を迎えた中年男のSOS』は伝わったらしい。女将は「しょうがないねぇ」という顔をして、私を路地裏の掘っ立て小屋へと連れて行った。
モグリの整体院か何かだろうか。 中には、やる気のなさそうな中年女性がパイプ椅子のようなものに座っていた。私のボロボロの体を見るなり、女性は面倒くさそうに立ち上がり、患部に向けてスッと手をかざした。
えっ。ちょっと待って。 もしかしてこれ、ずっと密かに期待していた「魔法」ってやつじゃないか!?
異世界に来てからというもの、火おこしも水汲みもすべて人力のアナログな光景ばかり見せられ、すっかり忘れていた。そうだ、ここは「剣と魔法の世界」なのだ。 四十代のいい大人が恥ずかしい限りだが、一応はファミコン時代からRPGを嗜んできた身である。不意打ちでやってきたファンタジーの真髄に、私の胸の奥で中学生男子のようなワクワク感が急激に膨れ上がった。
来るぞ。神聖なる光、天使のさえずり、全身を包み込む温かいオーラ……!
しかし。 女性の手のひらから漏れたのは、寿命の近づいた蛍光灯の豆電球のような、頼りない緑色の光だった。「ジジジ……」と、古い家電のようなノイズまで鳴っている。 あっという間に光は消え、女性は「はい終わり」とでも言いたげに顎をしゃくった。
えっ、ショボい。事務的すぎる。 しかし、恐るる恐る腰を回してみると……痛くない。 魔法、マジですごい。物理的な損傷が、本当に一瞬で消え去っている。
とはいえ、私の心には一抹の虚しさが残った。 幡ヶ谷にある「60分2,980円の揉みほぐし」で、無口な整体師のお兄さんがジワジワと凝りを解きほぐしてくれる、あの「過程の喜び」が一切ないのだ。 プロセスをすっ飛ばして結果だけを出力されるこの無機質さ。魔法というのは、なんとも情緒に欠けるテクノロジーである。
そんな贅沢な不満を抱いていると、女性が木のコップに緑色の液体を注いで差し出してきた。
待てよ。この不自然に発光する緑色の液体……。 私はハッとした。もしやこれ、ファンタジー世界の王道、「ポーション」というやつではないか!?

私のテンションは再び跳ね上がった。色は完全に「絵の具の緑」だが、きっとメロンソーダのようなチープで甘い味がするに違いない。私はコップを受け取り、せっかくの異世界体験だとばかりに、一気に飲み干した。
その瞬間、私の視界がぐらりと揺れた。
味覚というよりも、それは「暴力」だった。 カブトムシの飼育ケースの底の土を、サビた十円玉と一緒に煮詰めたような、圧倒的な腐葉土感と金属臭。それがダイレクトに鼻腔を突き抜けていく。
「――っっ」
私は声も出せず、その場にうずくまった。 腰の痛みは消えたはずなのに、胃袋からせり上がってくる劇的な吐き気のせいで、私の疲労度はさっきよりも確実に増している。
涙目で口元を覆いながら、私の脳裏に、ある記憶が遅れてフラッシュバックした。 出発前、ツノダ・ツーリストの親父が渡してきた、あのわら半紙のチラシ。その右下の端っこに、赤ペンで殴り書きされていた一文である。
『※ポーションは不味いので注意』
……あの親父、そういう大事なことはもっとデカい字で書いといてくれよ。
私は口内にいつまでもこびりつく泥水の味に顔をしかめながら、日本の製薬会社の偉大さを狂おしいほどに噛み締めていた。 どんなに苦い成分でも、無味無臭のツルッとしたカプセルで包み込み、ユーザーに不快感を一切与えずに飲み込ませてくれる、現代の思いやり。
魔法は確かに奇跡だ。 だが、情緒の欠片もない豆電球の光を浴び、この罰ゲームのような泥水を毎回我慢して飲まなければならないのだとしたら――私は喜んで現代のロキソニンと湿布を選ぶ。
嘘みたいに軽くなった腰のまま、私は荒れ狂う胃を押さえて「くの字」に曲がりながら、治療院のテントを後にした。 傍から見れば、入る前と出た後で、おじさんの歩く姿勢は1ミリも変わっていなかったはずである。
第10話『吟遊詩人の不協和音と、無口なマスターの塩茹で芋』
あの「ゴムタイヤのような骨付き肉」との死闘から数日。 私はすっかり、宿屋の一階にある酒場の常連になっていた。
夕暮れ時になると、いつもの隅の席にドッコイショと腰を下ろす。すると、スキンヘッドで顔に傷のある強面のマスターが、何も言わずに「常温の濁ったエール」と「塩茹でした芋」をドンッと置いてくれるようになった。 私の貧弱な顎の筋力と、肉に対するトラウマを完全に察してくれているのだ。言葉は一言も通じないが、私たちの中には確かな「行きつけの客と店主」の阿吽の呼吸が生まれていた。
その日の夜は、いつもより酒場が騒がしかった。 「吟遊詩人」がやって来ていたのだ。
ファンタジー世界において、吟遊詩人といえば花形である。美しいリュートの音色とともに、英雄の叙事詩や遠い国のロマンスを歌い上げ、酒場の客たちを魅了する……はずだった。
「ギャリィィン! ジャカジャァァン!!」
私の耳に突き刺さったのは、およそ音楽とは呼べないような暴力的なノイズだった。 吟遊詩人の青年が抱えているのは、安っぽい木をくり抜き、獣の腸(おそらく乾燥が甘い)を張っただけの粗悪な弦楽器である。チューニングという概念が存在しないのか、和音は絶望的にズレており、弦を弾くたびに「ビヨン、ビヨン」と情けない音がする。
おまけに、彼の歌声は発情期の猫をさらにヒステリックにしたような高音で、延々と「同じスリーコードのフレーズ」をループさせているのだ。
(……うるさい。圧倒的にうるさい)
私は塩茹での芋をかじりながら、眉間を強く揉んだ。 そして、喧騒から逃れるようにそっと目を閉じ、東京の自宅のタワマンの一室を思い浮かべた。
億り人になってから、私が唯一贅沢をしたのが「オーディオ環境」だった。 オレンジ色に温かく光る真空管アンプ。ずっしりと重い木製のヴィンテージスピーカー。そこに、分厚い180グラム重量盤のアナログレコードを置き、静かに針を落とす。 プチッ、という微かなノイズの後に流れ出す、ビル・エヴァンスのピアノや、山下達郎の透き通るようなカッティングギター。 低音は輪郭を持ち、高音はどこまでも伸びやかで、耳に一切の疲労を与えない「至福の音響空間」。
それに比べて、なんだこの目の前の現実は。 「ギャリジャカ! ニャアアアアン!!」 狂ったチューニングの不協和音が、私の三半規管を容赦なく削っていく。現代の緻密なミキシングとマスタリング技術に甘やかされた40代の耳にとって、この野生のライブはただの拷問でしかなかった。
私はたまらず目を開け、大きなため息をついた。 その時である。
ふとカウンターに目をやると、ジョッキを布で拭いていたスキンヘッドのマスターと、バッチリ目が合った。
マスターは拭く手を止め、チラリと横目で、熱唱する吟遊詩人を見た。 そして再び私の方に視線を戻すと、ほんのわずかに肩をすくめ、「フゥッ」と鼻から呆れたような息を吐き出したのだ。
(……だよな。お前も、こいつの歌、ヘタクソだなって思ってるよな)
私は、声に出さずに目でそう語りかけ、小さく頷いた。 マスターの厳つい顔の口角が、一瞬だけ微かに上がった気がした。
世界を救う勇者には、この狂った和音も「酒場の活気」として聞こえるのかもしれない。 しかし、日々の静寂を愛し、平穏に酒を飲みたい中年男にとって、この騒音はただの迷惑だ。種族も言葉も育った環境も違う異世界のマスターと、私の「おじさんとしての感性」が、不快な音楽を通して完全にシンクロした瞬間だった。
数分後。 マスターは私のテーブルにやってくると、頼んでもいない小皿を無言でコトンと置いた。 見ると、そこにはいつもの芋ではなく、少し炙ってトロトロになった「ヤギのチーズ」が乗っていた。

「……奢り?」 私が日本語で小声で聞くと、マスターは私の肩をポンと軽く叩き、再びカウンターへと戻っていった。
騒音は相変わらず酒場に鳴り響いている。 しかし、私はその炙りチーズを齧り、常温のエールを流し込みながら、なんだかひどく満ち足りた気分になっていた。
真空管アンプも、アナログレコードもここにはない。 けれど、無口なマスターがくれたこのチーズの塩気は、どんな名盤の音色よりも、私の心を静かに、そして温かく満たしてくれたのだ。
第11話『幡ヶ谷のアスファルトと、次なるわら半紙』
異世界での3泊4日の滞在は、私の90キロの肉体を限界まで追い詰めていた。
四十肩は悲鳴を上げ、ふくらはぎはパンパンに張り、鼻の奥には常に微かな獣の匂いがこびりついている。それでも、あの無口な酒場のマスターと別れる時、私は少しだけ名残惜しかった。彼が最後に握らせてくれた、干し肉と塩茹で芋の包みは、リュックの中で確かな重みを放っている。
「ツノダ・ツーリスト」の店主は、「帰りは、宿屋の部屋のドアノブを左に3回、強く回して開けなさい」と言っていた。
私は干し草のベッドに別れを告げ、言われた通りに木製のドアノブをガチャ、ガチャ、ガチャと回した。そして、思い切りドアを手前に引く。
その瞬間。 むせ返るような酒場の匂いと、微かな土の香りがフッと消え去った。 代わりに鼻腔を突いたのは、カビの生えた段ボールと、昭和の喫茶店に染み付いたヤニの匂いだった。
「……おかえり。ずいぶん泥だらけだね」
パイプ椅子に深く腰掛け、スポーツ新聞から顔を上げたツノダ・ツーリストの店主が、面白そうに笑っていた。 私は、ただいま、と小さく呟き、雑居ビルの急な階段を降りて外へ出た。
外は、見慣れた幡ヶ谷の街だった。 一歩足を踏み出した瞬間、私は猛烈な違和感に襲われた。
(……平らだ)
足の裏が、どこまでも滑らかで、一切の凹凸がないことに驚愕している。アスファルトという近代の魔法は、石や泥に足をとられる異世界の道とは根本的に違う。つまづく心配が一切ないということが、これほどまでに膝への負担を減らすとは知らなかった。
駅前を少し歩くと、赤い自転車が並んでいるポートを見つけた。私が愛してやまない、ドコモのシェアサイクルだ。 私はポケットからスマホを取り出した。4日ぶりに電源を入れると、未読の通知が一気に滝のように流れ込んでくる。私はそれを無視してQRコードを読み込み、サドルにまたがってペダルを漕ぎ出した。
「スィィィ……ッ」
――なんという、軽さ。 電動アシストが作動した瞬間、私の背中を透明な巨人が優しく押してくれたかのような推進力が生まれた。90キロの質量を乗せているというのに、股は分厚いクッションでできたサドルに守られている。風を切って幡ヶ谷の街を疾走しながら、私は思わず「ははっ、すげえ」と声に出して笑ってしまった。
空飛ぶ竜なんかより、よっぽど優秀じゃないか。
自宅のマンションに帰り着くと、私は真っ先に風呂場へ直行した。 蛇口をひねれば、40度に設定されたお湯が、強烈な水圧でシャワーヘッドから勢いよく噴き出してくる。頭から熱いお湯を浴びた瞬間、毛穴に詰まっていた異世界の土埃や、スライムのドブの匂いが、すべてきれいに洗い流されていくのを感じた。
風呂上がり、私はスマホで宅配ピザを頼んだ。 30分後、玄関に届けられたのは、薄い生地にたっぷりのモッツァレラチーズと、真っ赤なトマトソースが輝く、完璧なマルゲリータだった。

リビングのソファに深く腰掛け、コーラと一緒に熱々のピザをかじる。 口いっぱいに広がるトマトの酸味と、旨味の爆弾。あの、ゴムタイヤのような異世界の骨付き肉とは次元が違う。柔らかく、計算し尽くされた現代の美食が、私の胃袋を優しく満たしていく。
「あぁ……最高だ」
エアコンが効いた、適温で快適な部屋。 スマホを見れば、放置しているS&P500のインデックスファンドが、私が泥だらけになっている間にも勝手に資産を増やしてくれている。 何一つ不自由のない、完璧な「億り人」の平穏な日常がここにあった。
しかし。 ピザを半分ほど食べたあたりで、私はふと、部屋の「静けさ」が気になり始めた。
うるさい吟遊詩人の不協和音もない。 荒々しい冒険者たちの怒号もない。 そして、私が黙っていても、絶妙なタイミングで炙りチーズを出してくれる、あの無骨なマスターもいない。
快適すぎるのだ。 何一つ負荷のないこの世界は、90キロの私を優しく包み込んでくれる反面、どこか物足りなく、無菌室の中にいるような息苦しさを感じさせた。
私はリュックを引き寄せ、中から着替えを取り出そうとした。 すると、リュックの底から、一枚のザラザラしたわら半紙がハラリと床に落ちた。
拾い上げてみると、そこにはあの店主のゆるい手書きの文字で、こう記されていた。
『氷点下の絶景・ドワーフの隠れ湯ツアー 2泊3日(※雪男の求愛に注意)』
私は、そのわら半紙と、目の前の冷めかけたピザを交互に見比べた。 ドワーフの隠れ湯。絶対に道中は険しいだろうし、寒さで四十肩が疼くのは目に見えている。おまけに雪男の求愛とはなんだ。また面倒なことになる予感しかしない。
「……ふっ」
私は思わず吹き出し、そのわら半紙をテーブルの上の、一番目立つ場所にそっと置いた。
私の90キロの肉体は、しばらくこの快適なアスファルトと電動アシスト自転車の恩恵に預かって、しっかりと休ませる必要がある。
だが、膝の痛みが完全に引いた頃。 私はきっとまた、あの湿った匂いのする雑居ビルのドアノブを、強く回してしまうのだろう。
私は残りのピザを平らげ、ふかふかのマットレスにダイブすると、獣の匂いがしない清潔なシーツの香りに包まれながら、深い眠りへと落ちていった。
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