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「梅福(ばいふく)」~ 『列仙酒牌』

【讃】隠宇監門、誰識子真
   門番として隠れているのだから、誰が子真を見つけられるのだろうか
(酒約)姓名遇木字者飮。
   名前に「木が入っている字」を使っている人は飲め

<梅福 『列仙酒牌』>

梅福について

梅福は『列仙伝』にも『神仙伝』にも載っていない仙人です。

史書の『漢書』の列伝に載せられている人物ですので、世間の噂だけで名を残す薬屋やどことなく胡散臭い仙人たちと一緒にするのは恐れ多いですが、この『列仙酒牌』を作成した任渭長やその周辺の人々には、ごく身近な仙人として認識されていたのでしょう。

しかしながら『漢書』の記載を読んでみても、梅福には大した大した事績はありません。中央政府で地位のある役職に就いたわけではなく、それなりの地方官として働いたというだけの人です。

事績として語られているのは、しばしば皇帝に対し意見書を上申したということですが、現在の目から見れば、採用されなくて当たり前といった意見ばかりです。

<梅福 解説 成寅 画『仙仏奇踪』>

仙人としての梅福

けれども、梅福は葛洪の時代には有名ではなくとも、その後、明の時代になる前には何らかの理由で仙人として捉えられるようになったのでしょう。この辺り道教や中国の民間宗教についての知見のある方ならともかく、私程度ですとその経緯については判っていません。

明の王世貞『列仙全伝』には梅福についての記述がいろいろあり、いかにも仙人という人物像に変わっています。以下『列仙全伝』の記述に従っています。

梅福は字を子真と云う寿春の人です。漢に仕えて南昌の尉になりましたが、王莽が勝手に政治を行っているのに嫌気がさし、家を棄てて仙人になりました。

あちこちを訪ね、仙霞山に行ったとき、たまたま空同仙君に出会い、内外丹法を授けられました。

その後雞籠山で修業をしましたがうまく行かず、劔江西嶺でまたまた空同仙君と出会いました。空同仙君は白雲から降りて来て「あなたは飛鴻山に縁があるだろう」と教えました。

ですから梅福は飛鴻山に庵を建て、そこで丹を作るのに成功して、寿春に帰りました。

ある日紫雲が浮かび、音楽と共に金童玉女が現れ、詔勅を持ち鸞に乗って降りてきました。梅福は詔勅を受け取って青鸞に乗って家を去りました。

妻子を棄てて家を出た後のことは判っていませんが、後の人で梅福を会稽で見たという人がいます。梅福は名前を変えて呉の門番をしていたとのことです。

宋の元豐の時に、寿春真人として封じられました。

【煩注】

役人としての梅福の意見書
梅福の言っている意見書は、次のようなものですので、現在の感覚からすれば採用されなくとも仕方がないといった感じです。

外戚が跋扈したのに対し「外戚の家が天下を乱さないように、彼らに優秀な師をつけて忠孝の道を教えるようにする(當與之賢師良傅,敎以忠孝之道)」

成帝に継嗣がないことについて「孔子は殷の出身であるから、その子孫を殷の跡継ぎと考えて(孔子故殷後也,雖不正統,封其子孫以爲殷後)、孔子の子孫を陛下の跡継ぎにすれば、国は栄える(今陛下誠能據仲尼之素功,以封其子孫,則國家必獲其福

『列仙全伝』(原文)
梅福。字子真寿春人。仕漢為南昌尉。見王莽専政。乃嘆曰。生為我酷。形為我辱。知為我毒。身為我桎梏。遂棄家求仙。遍遊鴈蕩南閲諸山。至仙霞山。遇空同仙君。授以内外丹法。入雞籠山修練不成。乃至劔江西嶺。再遇空同仙君。白雲中而降。謂福曰。汝縁在飛鴻山也。福遂徃飛鴻山。結菴修練。丹成趣装復還寿春。一日紫霧浮空。雲中楽奏金童玉女。捧詔控鸞。従空而下。福拜詔辭家。乗青鸞飛昇而去。史云。梅福知王莽必簒漢祚。一朝棄妻子去不知斯之。後人見福於會稽。變姓名為呉門市卒。今城中有呉市門。即其隠處。宋元豐間封寿春真人。(句点は私が勝手に入れているので、要注意)

【参考】

『任渭長木刻画四种』<学苑出版社、中国>
『酒牌』<山東書籍出版社、中国>
成寅編『中国神仙画像集』(上海古籍出版社)
王世貞『列仙全伝』@web
班固『漢書・巻六十七』楊胡朱梅云傳 第三十七<維基文庫@web>

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   老子の言葉によった『老子』解釈を中心としてます。
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   個人的に興味のある中国古典詩(漢詩)及び
   任渭長の版画が中心です。
   尚、最近始めた AI画像生成の作品を入れたものもあります。

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