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遣悲懷三首之三 元稹

元稹と白居易

元稹と白居易は貞元十九年(803)に同時に科挙(書判抜萃科)に及第して以降、その死に至るまで終世を友人として過ごしました。

もちろん個人的な相性もあるでしょうし、同時に合格したという親しみもあるでしょうが、二人とも同族の人数も少なく、お偉いさんになっている人も一族にいない、貧寒な氏族の出身です。

さらに平岡さんの本によれば《白居易の血統が果たしてそうであったのか、なお疑問はあるけども、白姓はもともと胡人が中国化したときに用いたものである》

そして《元稹はまぎれもなく鮮卑の血を引く。白居易が元稹のために書いた『元公墓誌銘』に「後魏昭成皇帝の十五代の孫なり」というている。昭成皇帝は、鮮卑族拓跋部の出身である。名は什翼犍、三三八年に代王となり、年号を建国と定め、後魏の王朝の基礎をなした。》

このように二人とも中国伝統の有力貴族からは決して尊敬されない血統であった事も仲間意識を強めたのではないかとと思われます。

<元稹 遣悲懷三首之三 自作AI>

遣悲懷三首之三

元稹の「遣悲懷」第一首は、亡き妻の想い出を語っています。第二首は妻に死なれた現在の悲しみを、そしてこの第三首では妻に対しての己の率直な気持ちを述べています。

遣悲懷三首之三 訓読
閑坐悲君亦自悲   閑坐(かんざ)して君(きみ)を悲(かな)しみ
            亦(また)自(みずか)らを悲(かな)しむ
百年多是幾多時   百年(ひゃくねん)多(おお)くは是(これ)
            幾多(いくた)の時(とき)
鄧攸無子尋知命   鄧攸(とうゆう)子(こ)無(な)き
            知命(ちめい)を尋(つ)ぎ
潘岳悼亡猶費詞   潘岳(はんがく)悼亡(とうぼう)
            猶(なお)詞(ことば)を費(つい)やす
同穴窅冥何所望   同穴(どうけつ)窅冥(ようめい)
            何(なん)の望(のぞ)む所(ところ)あらん
他生縁會更難期   他生(たしょう)の縁會(えんえ)
            更(さら)に期(き)し難(がた)し
惟將終夜常開眼   惟(た)だ將(まさ)に終夜(しゅうや)
            常(つね)に眼(め)を開(ひら)き
報答平生未展眉   報答(ほうとう)平生(へいぜい)
            未(いま)だ展(かなわ)ざる眉(まゆ)

【語釈】

鄧攸   普の家臣。自分の子供を棄てて、亡くなった弟の子供を救った
     ことで名高い。詳しくは煩注を。
知命   天命を知る。五十歳をいふ。
    〔ジン〕たづぬ(釋理)、おとづれる(訪)、が本義。
     ついで、もとありし事の跡をつぎてする(『字源』)
潘岳   西普の詩人。美男としても有名。
     詩の世界では最初に「悼亡詩」(奥さんを亡くしたのを悼む詩)
     を作ったとされています。
     詳しくは泉聲悠韻さんの
    「潘岳「悼亡詩」~天下一の美男、愛妻の死に打ちひしがれて」
     を見てください。
同穴   夫妻同じ墓穴に葬られることを指します。大本の出典は「穀則
     異室、死則同穴。」(『詩経』王風「大車」)です。
     今の日本では「偕老同穴(一緒に年老いて、同じ墓に入る
     =仲よし夫婦」と四字熟語で用いられることがほとんど。
窅冥   奥深く暗いさま、窈冥。
他生   今生以外の。来世
縁會   縁があって巡り会う

最終句については煩注を見てください。

<元稹 遣悲懷三首之三 彩図>

遣悲懷三首之三 私訳

閑坐悲君亦自悲   じっと座って君が死んだのを悲しんでいると、
            自分自身も悲しくなってくる。
百年多是幾多時   人生百年と言ったって、あとどのくらいあると
            いうのだろう。
鄧攸無子尋知命   鄧攸に子供が無かったように、
            私たちも天命で子供を授からなかった。
潘岳悼亡猶費詞   潘岳が奥さんを悼んで詩を作ったように、
            私もこヽに言葉を書き連ねる。
同穴窅冥何所望   死んでからもずーっと一緒なんてことを
            望んでる訳じゃない
他生縁會更難期   來世にまた会えるなんてことも期待してはいない。
惟將終夜常開眼   (私は)一晩中眠らずに
報答平生未展眉   この世に思いを残して死んだ貴女に、
            いつものように話をしよう

元稹が亡くなった妻韋叢に、一晩中まんじりとせずに、生きている時と同じように日々のあれこれを心の内で話している姿は、いずれの時代でも変わらないものだと思います。

「中国の古典詩では夫婦の間の愛情などは詠わなものだ」などという方もおりますが、江戸・明治期に流行った漢詩にそういったものが含まれていなかっただけです。

蛮国では「抱き付き、声高に訴える」ものだけを愛情表現としておりますが、この詩のような「見まもり、静かに語る」方により深いものを感じるのは、私が東洋人だからでしょう。

<元稹 遣悲懷三首之三 詩与画>


【煩注】

鄧攸
普(西普及び東晋双方)の臣。字伯道

『世説新語・徳行第一』に記載されている「永嘉の乱をのがれて江南に向かった時、自分の子供を棄てて弟の子を守った(鄧攸始避難、于道中棄己子全弟子)」ことで有名で、中国古典にはしばしば登場します。この元稹の詩でもこの事を言っています。

この話には続きがあり、『世説新語・徳行第一』には次のように記載されてます。こちらも有名な話です。

「鄧攸は江南に渡り、(東晋でも重用されて出世し)妾を持つようになり、その妾を寵愛しました。数年たってから、その娘に出身を聞いたところ、北の出身者で乱に遭って江南に逃れたという事でした。両親の名前を憶えているというので聞いたところ、鄧攸の甥ということが判りました。鄧攸はこの事を深く後悔し、この後生涯妾を持ちませんでした(既過江、取一妾、甚寵愛。歴年後、訊其所由、妾具説、是北人遭亂。憶父母姓名。乃攸之甥也。攸素有徳業、言行無玷。聞之哀恨、終身遂不復畜妾)」。

鄧攸が子供を棄てた件については『晉書』にも書かれています、というかこちらが元でしょう。
石勒過泗水,攸乃斫壞車,以牛馬負妻子而逃。又遇賊,掠其牛馬,歩走,擔其兒及其弟子綏。度不能兩全,乃謂其妻曰:「吾弟早亡,唯有一息,理不可絶,止應自棄我兒耳。幸而得存,我後當有子。」妻泣而從之,乃棄之。其子朝棄而暮及。明日,攸繋之於樹而去。(『晉書』卷九十、列伝第六十)

また、甥の娘を妾にした話も次のように記載されています。
攸棄子之後,妻子不復孕。過江,納妾,甚寵之,訊其家屬,説是北人遭亂,憶父母姓名,乃攸之甥。攸素有德行,聞之感恨,遂不復畜妾,卒以無嗣。時人義而哀之,為之語曰:「天道無知,使鄧伯道無兒。」弟子綏服攸喪三年。(『晉書』卷九十、列伝第六十)

尚、この鄧攸のことは『蒙求』にも「伯道無兒嵇紹不孤」として取り上げられていますので、一般にはこちらの方で知られていると思います。『蒙求集注』の文章は『晉書』から引用されています。

最終句「報答平生未展眉」について
● 聊か平生の労苦に報いんがために、その死を悲しんでいる(鹽谷)
● 生前眉の晴れる間もなかったお前の労苦に報いるばかりだ(目加田)
● ふだん開くことのなかったあなたの眉に報いてあげよう(筧@筑摩『唐詩選』)

報答   辞書では「むくゆる、人の恵みに報いる。答える、返事」。
     私的にはここは単純に「報じて答える」と解釈しました。
     要するに「普通に話をする」ことを指していると考えます。

平生   ひごろ、かって、むかし。ふだん、つねづね

未展眉
:ころがる(転)。のばす(伸)。ひらく(開)。かなう(適)。

展眉 喜びてまゆをのばす。愁をひらくにいう(『字源』)
   まゆをのばす。顔の様子がのびやかになること。愁の消滅
   するにいふ。(『大漢和』)

未展眉を直訳すれば「未だ愁の消滅しない=愁たまゝの」と言った意味になるでしょう。「展」を訓読では「かなう(適)」とし、「未展眉」の訳は「この世に思いを残した」としました。

【参考】

鹽谷温『唐詩三百首 新釈』(書籍文物流通会)
目加田誠『唐詩三百首』(東洋文庫、平凡社)
吉川幸次郎・小川環樹編『唐詩選』(筑摩叢書、筑摩書房)
周海褊注『彩図 唐詩三百首』(海洋出版社、北京)
上海辞書出版社編『詩輿画 唐詩三百首』(上海辞書出版社、上海)
陳婉俊補注『唐詩三百首』(商務印書館、香港)
喩守眞『唐詩三百首』(臺灣中華書局、臺北)
平岡武夫『白居易』(中国詩文選、筑摩書房)
目加田誠『世説新語』(新釈漢文大系、明治書院)
早川光三郎『蒙求』(新釈漢文大系、明治書院)
泉聲悠韻「潘岳「悼亡詩」~天下一の美男、愛妻の死に打ちひしがれて」
https://note.com/kanshikanbun/n/ne91f0ae2949d
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