「悼亡 其三」~ 梅堯臣
梅堯臣について
梅堯臣、字聖愈、は北宋の詩人、西暦で言えば1002年の生れの人です。
北宋というとなにかわりかし近い時代とも感じられますが、日本で言えば藤原道長(966-1028)とほぼ同時代の人ですので、平清盛(1118-1181)が活躍した源平時代よりは一時代前に当たります。
この時代の中国はわりかし安定していた時期で、梅堯臣も官僚として、筧さんの表現をお借りすれば《平凡で地味な一生を送》りました。
梅堯臣の家はごく普通の家柄のようで、父も祖父も官吏になったことはなかったようです。ただ、父の弟(梅詢)が翰林侍読学士という高官にのぼっているだけです。
筧さんの推測では《恐らく、詩人(梅堯臣)が庶出、すなわち妾腹であることを示すものであろう》となっています。
そうであれば、父の財産を継げるわけもないので、それを哀れんでか、叔父の梅詢は梅堯臣を任士として任官させました。任士とは、特別に功績のあった高官の子弟を、無試験で一定の官職を与えられるという特典のことです。こうすれば、梅堯臣も生活の糧を得ることができるだろうという親ごゝろであったと思います。
しかしながら、梅堯臣の場合にはこの親切心が裏目に出てしまったようです。当時の宋の時代は進士(科挙の合格者)の全盛期であり、任士で官吏に登用されたものは出世が難しかった時代でした。このため、梅堯臣は、五十才の時に学士院において選考され、進士の身分を得るまでは、ずーっと地方を廻っている状態でした。
悼亡 其三 訓読
従来有脩短 従来(じゅうらい)脩短(しゅうたん)有(あ)り
豈敢問蒼天 豈(あ)に敢(あえて)
蒼天(そうてん)に問(と)わん。
見盡人間婦 見(み)盡(つく)す人間(じんかん)の婦(ふ)
無如美且賢 如(かく)も美(うつく)しく且(かつ)
賢(かしこ)きは無(な)し。
譬令愚者壽 譬令(たとえ)愚者(ぐしゃ)にしても
壽(じゅ)となるれば
何不假其年 何(なん)ぞ其年(そのとし)を假(か)さず。
忍此連城寶 此(この)連城(れんじょう)の宝(たから)の
沉埋向九泉 沈(しず)み埋(うも)れて九泉(きゅうせん)に
向(むか)うを忍(しの)びん。
梅堯臣と謝氏
梅堯臣の妻は謝家の出身です。彼女の父親(謝濤)も兄(謝絳、字希深)も当時の有名人でした。筧さんの本に出ている関係図を下に示しますが、梅堯臣は、謝家を通じて間接的ながら、欧陽脩、王安石、黄庭堅とも家系的なつながりを持つことになります。

任士出身としてうだつの上がらない梅堯臣が、どうやってこの謝家の娘と結婚できたのかは判っていません。
ただ、梅堯臣にとって大変なお嬢さんと結婚したわけであり、奥さんを思う気持ちが人一倍強かったということだけは言えると思います。梅堯臣の悼亡詩を読むうえで参考にしていただけたらと思います。
欧陽脩の書いた「南陽県君謝氏墓誌銘」には次のような記載があります。尚、南陽県君とは梅堯臣の妻に対して朝廷から贈られた名誉の称号です。
《私はながらく貧しい生活を送っていたが、外では幸いなことに優秀な人々と交わることができ、家に帰れば妻がにこにこしているので、世に受け入れられない憂いを忘れることができた。金があるとかないとかの話に煩わされないですんだのは、ひとえに妻の助けである(其出而幸輿賢士大夫遊而樂。入則見吾妻之怡怡而忘其憂。使吾不以富貴貧賤累其心者。抑吾妻之助也)。
さらに続けて《私が家で友人たちと話をするのを謝氏は聞いており、暇があるときにその人たちの才能や賢しこさ、時勢のことを話すのだが、謝氏の話はいつも筋が通ったものだった(吾嘗輿士大夫語。謝氏多従戸塀竊聴之。問則盡能商擭其人才能賢否及時事之得失。皆有條理)。
清水さんの解説には《かげから見ていて、人の批評をしたのであるから、あまりいい趣味ではないかもしれないが云々》と書いてありますが、戦後の平和な時代ののんびりとした学究生活を送っている人とは梅堯臣夫妻の生活は違っています。
先ず一言言っておかなければならないのは、家に他人を招いた場合、昔の中国人にとって、それをどうやって上手に執り行うかは、主婦の才覚次第ということです。
主婦は、主人とその友人たちの話の進み具合を逐一把握し、食事や酒茶を準備するタイミングを図り、なにかあれば、召使や自分が出てとりなしや片づけを行う必要があります。従戸塀竊聴之とは主婦の必須の仕事であったわけです。
さらにそれに加え、謝氏の頭には官界の膨大な人間関係が頭に入っていたはずです。有力氏族の謝氏の娘は、物心つく頃から日常の会話で「どこのだれそれがかにかにして」というようなことは聞き続けていたでしょう。
また謝氏の娘として、同じような貴族の子女ともつながりがあり、そこでの交流を通じて、貴族や官界でのいろいろな人々の裏話・噂話や人物評を得ていたでしょう。
官界に足掛かりの無い梅堯臣とっては全く無縁だった情報であり、それらを謝氏から得て人々との交遊に活かしていたものと思われます。
梅堯臣にとって、謝氏は単に妻であるというだけでなく、こういったいろんな知識を与えてくれる人であり、官僚として生きてゆくのに必要不可欠な人だったと思われます。
【語釈】
脩短 長いと短い。「脩」は「長」に同じ。
蒼天
青空のこと、こヽでは天の神といった人の運命を司るものを指している。
譬令愚者壽
筧さんの訓読では「もし愚者は寿なりとせば」となっています。
管見ではありますが「愚者は長生きである」といった話は聞いたことがありませんし、その「愚者の寿命を借りる」といった発想は、どうも梅堯臣の詩の感覚と馴染めません。
筧さんの先生筋にあたる吉川幸次郎さんの『人間詩話』にある説明を、ちょっと長いが下に引用しておきます。
《つまり彼の女も、あまりに「美且賢」であった故に、長い命が与えられなかったのかも知れない。しかしそれならば、それで、もっと寿命を与えてくれとはいわぬ。せめて暫時、寿命を借してくれることはなぜできなかったのか。》
吉川さん特有の優しさに満ちた見解であり、話のつじつまも合いますが、やはり私の気持ちとしては素直には受け取れないところがあります。ここは個人的には「もう少し頭がよくなかった(愚者)としても、長生きでるのであれば」と解釈したい、と思っています。
連城寶
一般には「連城壁」もしくは「和氏壁」としられる古代中国の宝物の一つ。
趙の国が所有していたが、秦の昭王が十五の城と交換したいと申し出たことで「連城の壁」と呼ばれるようになりました。この詩では謝氏のことを指しています。
九泉
死者の行くところ、黄泉。
悼亡 其三 私訳
従来有脩短 昔から寿命に長い短いはあるんだから、
豈敢問蒼天 (謝氏が早死したことを)天に向かって
文句を言うわけじゃない。
見盡人間婦 人の世の女の人を数多く見たが、
無如美且賢 謝氏ほどに美人で賢い人は居なかった。
譬令愚者壽 (謝氏が)あれほど賢くなくても長生きできるんなら、
何不假其年 どうしてそういう風にしてくれなかったんだ。
忍此連城寶 謝氏という大切な大切な宝物が
沉埋向九泉 黄泉の国に沈んで行くのを
どうして耐えることが出来ようか
【参考】
筧文生注『梅堯臣』(中国詩人選集二集、岩波書店)
吉川幸次郎著『人間詩話』(岩波新書)
清水茂『唐宋八家文』(新訂中国古典選、朝日新聞社)
松浦友久編『漢詩の事典』(大修館書店)
【関連】
碧山雑文 ~ 道家
老子の言葉によった『老子』解釈を中心としてます。
その他道家関連の事々について書いています。
碧山雑文 ~ 中国詩文
個人的に興味のある中国古典詩(漢詩)及び
任渭長の版画が中心です。
尚、最近始めた AI画像生成の作品を入れたものもあります。
碧山雑文 ~ 本邦漢詩文
亀田鵬斎の一大傑作「酒仏経」だけは全訳註を行いました。
その他はほとんど進んでいません。
