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第9話 アマリアの館へ

9月14日。
 ポルトガル滞在最後の日である。
 いや、正確には帰国前日と言うべきか。
 翌日はリスボンを発ち、パリを経由して日本へ帰る。

 だからこそ、この日は朝から忙しかった。
 まだ日の出前の薄明の頃に起き出し、まずはベレン地区へ向かった。
 観光客としてリスボンへ来た以上、ここだけは見ておかなくてはならない。

朝もやの中で ベレンの塔

ベレンの塔。
 発見のモニュメント。

発見のモニュメント 東面;最前部から3人目がバスコダガマ

 そしてジェロニモス修道院。
 いずれもポルトガルの大航海時代を象徴するモニュメントだ。

 もっとも、ポルトやコインブラで数多くの教会や修道院、石造建築を見てきた私たちにとって、この日は文字通り「朝飯前の散歩」のような感覚だった。
 むしろ、その姿をしっかり目に焼き付けることの方が大切だった。

 時間節約のため、路面電車は使わず、移動はもっぱらタクシーである。幸いポルトガルのタクシー代は日本ほど高くない。限られた滞在時間を有効に使うため、今回はタクシーをフル活用した。

 散策を終えると、一旦ホテルへ戻った。
 理由は飛行機のWEBチェックインをしなくてはならない。
 どうやら予約した翌日のパリ―羽田便はかなり混雑しているらしい。
 チェックインの早い者順で座席が決まるとの情報もあり、少々神経質になっていた。

 午前十時過ぎ。
 航空会社から案内メールが届く。
 早速パソコンを開いて作業を始めた。
 ところが、これがうまくいかない。
 画面がスクロールしない。
 入力欄が見えない。
 縮小したり拡大したりしながら悪戦苦闘する。
 気がつけば一時間以上が経っていた。

 ようやく「チェックイン完了」の表示が出たものの、どうにも信用できない。
 そこで日本の旅行代理店へ電話し、確認をお願いした。
 返ってきた答えは、
 「大丈夫です。チェックインは完了しています。」
 とのこと。
 ようやく胸を撫で下ろした。

 そして私は、今回の旅でどうしても行きたかった場所へ向かった。

アマリア・ロドリゲスが生活していた館である。
 館の主人は既に亡くなってしまったが、現在は博物館として公開されており、在りし日のアマリアを偲ぶことができる。
 タクシーで住宅街へ向かう。
 「ここですよ。」

アマリアの館 50年の歳月を経てようやくたどり着いた

 運転手に言われて降りた場所は、拍子抜けするほど普通の家だった。
 Fadoの女王の館と聞いていたので、もっと壮大な建物を想像していた。
 日本で言えば、美空ひばり記念館のようなものを思い描いていたのである。

 しかし、そこにあったのは実に質素な邸宅だった。
 私は以前から思っている。
 歌の巧さという点で言えば、
 アマリア・ロドリゲスと美空ひばり。
 この二人は世界の双璧ではないかと。
 ジャンルは違う。
 だが、人の心を震わせる力という意味では、どちらも別格だ。

 意気込んで館へ入る。
 ところが受付の女性は、
 「今は昼休み。二時に来て。」
 と、あっさり言った。
 これもまたポルトガルらしい。

 仕方なく近所を散歩しながら時間を潰した。
 二時になり再び訪れる。
 今度は小柄なおばあちゃんが受付にいた。

 「ハ~イ、どうぞ。」
 満面の笑みで迎えてくれる。
 そして館内を案内してくれた。
 話を聞くうちに驚いた。
 彼女は十六歳の頃からアマリアに仕え続けた人物だったのである。
 まさに生き証人だった。

アマリアの館 単なる歌い手としての軌跡ではなかった

 彼女の口から語られるアマリアの話はどれも興味深かった。
 世界中の歌手。
 政治家。
 財界人。
 多くの著名人がこの館を訪れたこと。
 時にはここでレコーディングまで行われたこと。
 アマリアの日常。
 その人柄。
 そして歌への情熱。
 どの話にも、長年寄り添った人だけが知る温かさがあった。

最晩年の日本公演ツアー しかも浜松公演のポスターが飾られていた

 私はアマリアに会えなかった。
 だが、アマリアを知る人に会えた。
 それで十分だった。

 館の奥には、彼女が最後の日々を過ごした部屋が静かに残されていた。
 ドアは閉ざされたまま。
 中へ入ることはできない。
 その扉は、永遠に閉じられた時間そのもののように見えた。
 私はしばらくその前に立ち尽くした。

 存命中に来たかった。
 だが、それは叶わなかった。
 それでも、この館に流れる空気は確かに彼女のものだった。

アマリアの功績の数々 世界中の国が彼女を評価した

五十数年前。
 一枚のレコードから始まった私とFadoとの付き合い。
 その原点へ、ようやく辿り着いた。

 アマリアはいない。
 だが、その息遣いは今もここに残っている。
 私は静かに館を後にした。

 今夜はいよいよ、本場のFadoを聴きに行く。

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