第15話 『別れは、歌になった。』
ファドを聴いていると、なぜこれほど胸の奥へ入り込んでくるのだろうと思う。
悲しいから、というだけでは説明しきれない。
恋人との別れ。
遠くへ旅立つ人。
帰りを待ち続ける人。
そして、二度と会えなかった人。
その一つ一つは、王や英雄の物語ではない。
名もない市井の人々が、日々の暮らしの中で抱えた思いである。
ポルトガルは、海とともに歩んできた国だった。
港からは、多くの船が世界へ向けて旅立っていった。
国にとっては、栄光ある大航海だったのかもしれない。

しかし、一人の男が船に乗り、一人の女が岸辺に残る。
その瞬間だけを見れば、それは国家の栄光ではなく、一つの別れだった。
船は港を離れていく。
見送る人の姿は、次第に小さくなる。
いつ帰って来られるのか。
本当に帰って来られるのか。
それさえ分からない時代である。
港には、今日も帰りを待つ女がいた。
海の向こうへ消えていく船を見送りながら、胸の奥にしまった涙は、誰にも見せることなく、静かに時を重ねていく。
その言葉にならない思いが、いつしか歌になったとしても、不思議ではないように思う。
もちろん、大航海時代の別れが、そのままファドを生んだと断定することはできない。
ファドには、港町に生きた人々の暮らしや、異なる文化が交わる街の空気、恋や貧しさ、孤独や希望など、さまざまな人生が幾重にも折り重なっているのだろう。
それでも私は、その旋律の奥に、海へ出た人と、港に残された人々の心が静かに息づいているように感じた。
思いを言葉にできないとき、人は歌う。
忘れたいのに忘れられないときにも、人は歌う。
帰らぬ人を待ちながら、それでも明日を生きていくために、人は歌を必要としたのかもしれない。
ファドは、悲しみを消してくれる歌ではない。
悲しみを抱えたまま、生きていくための歌なのだろう。

海の向こうへ旅立つ人を見送る涙も、帰らぬ人を待ち続ける涙も、その思いは国が違っても、時代が違っても、大きく変わるものではないように思う。
だからこそ、ファドは遠い異国の歌でありながら、私たち日本人の心にも静かに響いてくるのではないだろうか。
ポルトガルの街でファドを聴いたとき、私はその旋律の向こうに、名も残らなかった多くの人々の姿を思うようになった。
海へ出た人。
港に残された人。
愛する人を失った人。
それでも日々を暮らし、誰かを思い、歌い続けた人々。
ファドは、男と女の別れだけを歌っているのではない。
この国の人々が、長い歳月の中で味わってきた数え切れない別れを、静かに紡いできた歌なのではないだろうか。
そして、その美しい旋律の背後には、まだ目をそらしてはならない、もっと深く、もっと重い歴史が横たわっている。
