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【マツモトキョシ】の仇討ち

講義:星一の「挫折」から、マツキヨの「黄色い看板」へ

時間があったら。図書館で探して読んでほしい本があります。
【明治・父・アメリカ 】と 【人民は弱し 官吏は強し】 の二冊です。
前者は、世界へ飛び出し理想に燃えた実業家・星一と明治という時代の熱気を描き、後者は、その理想が巨大な官僚機構と衝突し挫折していく姿を描きます。夢と挑戦、そして組織との闘い。一人の人生を通して日本近代史の光と影が見えてくる名著です。

【高島解説】


『人民は弱し 官吏は強し』の、あまりに不都合な真実 まずは私、高島から、このテキストの地層を少し掘っておきましょう。

人民は弱し 官吏は強しという本は、一見すると父を偲ぶ美しい追悼文に見えます。
しかし読み進めると、それは次第に別の顔を見せ始める。
これは単なる親孝行の本ではありません。

近代日本が生み出した「官僚制」という巨大な装置の観察記録であり、その装置に押し潰された一人の実業家の裁判記録でもあります。


主人公は父である 星一。

星一という男は、少々時代を先取りし過ぎた人物でした。
彼が目指したのは単純です。
良薬を安く。
良薬を広く。
良薬を特権階級ではなく大衆へ。
今なら当たり前に聞こえる発想ですが、当時としてはそうではありません。 それは既存の流通や権益構造を揺さぶる行為でもありました。

しかし近代国家というものは、不思議な生き物です。
露骨な暴力は嫌う。
ところが規則は増やす。
法律は整備する。
前例は尊重する。
手続きは複雑になる。
そして、誰も悪人ではないのに、人だけが綺麗に潰れていく。

星製薬を巡る数々の騒動も、
歴史的評価はさまざまでしょう。

けれど少なくともそこには、
「巨大な組織と一人の革新者が戦った」
という構図が見えてきます。

星一を破ったのは悪党ではありません。
むしろ善良な官吏たちです。
善良な人々が規則を守る。
前例を守る。
組織を守る。
そして気が付くと、一人の異才が「社会の安全のため」
という大義名分のもと、跡形もなく排除されている。

これが近代国家の少々厄介なところです。


タイトルの「官吏は強し」の強さとは正義の強さではありません。
前例の強さです。
組織の強さです。
責任を無限に分散させる技術の強さです。
そして個人を喜んで飲み込むシステムの強さです。
だからこそ 星新一 は、この父の敗北を書かずにはいられなかった。
それは父への鎮魂歌であると同時に、
「なぜ組織は人間より強いのか」
という近代そのものへの告発であり、
「私たちは今日もなお、その家畜小屋の中にいる」
という静かな脅迫でもあるのです。

【土屋思考】

なぜ「すぐやる」のか
哲学としての脱・役所仕事
みなさん、こんにちは。
 高島先生の話を聞いていると胃薬が欲しくなります。

国家。
制度。
官僚制。
実に重い。
私なら三行目くらいで昼寝します。
ところが一人だけ昼寝しなかった人物がいた。

若き日の 松本清 です。

彼は星一の近くで働き、その成功も挫折も目撃しました。
そしてある種の結論に辿り着いたのではないでしょうか。
星一を苦しめたものは何か。
悪意か。
違う。
動かないことです。
前例がない。
担当外である。
検討します。
持ち帰ります。
会議します。
つまり、 誰も反対しないのに何も進まない。
これです。

このとき松本清が気づいてしまった恐ろしい真実は、
「お上は人民を憎んでなどいない」
ということです。
ただ、
「人民のことなどこれっぽっちも興味がない」
から動かない。

人民が弱かった理由は、
お上が強かったからではありません。
お上が動かなかったからです。

ならば、自分が松戸市長になったらどうするか。
普通の人間なら権力を持った瞬間に官吏側へ転職します。
そちら側へ回る方が、はるかに安全で、暖かく、
責任を取らずに済むからです。

ところが松本清は妙な人だった。
彼が作ったのは有名な

「すぐやる課」です。

これを行政改革として語る人は多い。
しかし私は思想史として読むべきだと思う。
なぜなら、
「市民の困りごとをすぐ処理する」
という発想は、
「役所の都合を優先するな」
という思想そのものだからです。

言い換えるなら、 星一が敗れた相手が 「前例主義」なら、
松本清が掲げた武器は 「即行動主義」だった。
これは行政版の仇討ちです。
刀ではない。
書類でもない。
「お前たちが愛する手続きを、スピードという暴力で叩き潰す」
という、合法的な仇討ちです。

【結び】
マツキヨの黄色は「星一の灯火」である

さて。
ようやく街角まで戻ってきました。
みなさんも見たことがあるでしょう。
マツモトキヨシ の黄色い看板です。
遠くからでも目立つ。
夜でも目立つ。
少々主張が強い。
時には黄色というより
「私はここにいるぞ!」
と叫んでいるように見える。
多くの人はあれを単なる商業デザインだと思っています。
もちろん商業デザインでもあります。
しかし歴史という望遠鏡を覗くと、別の景色が見えてきます。

星一が目指したもの。
良薬を大衆へ。
松本清が目指したもの。
行政は市民のために動け。
両者は別々の物語に見えて、実は同じ方向を向いています。
人のために制度を動かせ。
組織のために人を動かすな。
その思想です。

だから私は勝手に思うのです。
マツキヨの黄色い看板は広告ではない。
あれは百年前、 「人民は弱し」
と嘆いた時代から受け継がれた小さな反逆の旗なのではないかと。
星一が夢を見た。
松本清が実践した。
そして現代の街角で黄色く光っている。

しかし、私たちはその黄色い光の誘惑に負けて、ただ便利に風邪薬を買い、ポイントを貯め、システムに手懐けられて満足してはいないでしょうか。
あの看板がこれほどまでに毒々しく黄色いのは、システムに去勢されかけた私たちへの、最後の警告灯かもしれないのです。

私たちが何気なく風邪薬を手に取るその背後には、
近代日本が抱えた不条理と、
それに抗った人々の長い物語が、
まだ静かに息をしているのであります。