20260819:冷笑文化について
どうも、イラストレーターのわかです。
本日は冷笑文化について考えたことを語っていきましょうかね。
始めに説明すると、今回の内容は「冷笑系」など特定の人物像についてどうこう~みたいな話というよりかは、文化自体の分析に近い話になります。
冷笑文化とは何か
この頃とくに流行っている概念ですが、主に意味するものとしては「何かをバカにすること」、特に「真剣に何かに取り組んだり、努力したりする行動や人をバカにすること」を”冷笑”と呼び、それが蔓延している状況なので”冷笑文化”という名前までつくようになりました。
「冷笑」という言葉自体は元々存在している言葉で、意味も大体同じですが、使われる文脈としてはほぼスラングやミームの類で、単語の辞書の定義以上にSNS文化上での共通認識を含んだ使われ方をしている言葉ですね。
さて、ここで冷笑文化がなぜ流行り出したのかをたどると、私はインターネットの発達によるメタ認知視点の共有が冷笑文化が広がる一つの起点になったのではないかと思います。
これがどういうことかと言うと、
インターネットが発達していなかった前の時代では、自分のような人間像がどう評価されるかは主に「個人が他人との交流を含め、自分の経験の中で自然と発見していくようなもの」だったんです。
それが今では「情報が飽和しているインターネットを通じて、数多くの人間像がそれぞれどういう評価をされる可能性があるか、先取りして知ることができる」ということです。
自分で気づいて言語化する前から、既に誰かによって名前がつけられ、共通認識になっている。
そしてそれを知ることで、「自分はこの構造に気づいている」という、知的に一段階優位に立ったような満足感を得られる同時に、それに気づいてないことをバカにされる危険を回避できる。
そういう仕組みです。
たとえば、「生産的なことをして、自分の能力を極めることから喜びを得る人」、さらに「そういう自分に陶酔していたり、他人にも自分の基準を押し付けたりする人」を「意識高い系」という名前で呼ぶとします。
そういう人間像は世の中にたくさんいるので、「あー、いるわこういう人」と、簡単にたくさんの共感を得て、単語が定着します。
そうすると今度は、それまで普通にそういう行動をしていた人まで、
「まてまて、私が今やっていることって“意識高い系”に見えるのでは?」
と考えるようになってきます。
それが1段目。
その概念が広まると、今度は2段目が出てきます。
「意識高い系ってわざわざ冷笑する人もなんだかねー」
という認識が共有されはじめ、今度はそれが「冷笑系」という名前を得ます。
(昨今の「冷笑系」という単語の流行りは、これがやっと命名されたようなものだと思っています。)
「冷笑系」という概念を認識することで、今度は冷笑する人を冷笑できるようになったわけです。
さて次は3段目。
「冷笑系を冷笑するの、自分は違うと思ってそうで痛いね」
みたいな認識もまた拡散され、多くの共感に繋がってしまいます。
そしてその次には、また新たな冷笑が冷笑を待ち構えている…
(無限冷笑の輪の出来上がり)
こんなことが一生繰り返されながら、元々は自分のことを理解するためだったはずのメタ認知の能力が、「他人をバカにして良い権利」のように通り始め、簡単に快楽を得る手段、あるいは知性競争で負けないための武器と化していきます。
何も知らなかった頃は、そもそも、そこまで自己検閲に陥ることなんてなかなかなかったはずです。
「自分がどのように見えているんだろう」と考えるにしても、自身の観測範囲のみでしか検閲ができなかったからです。
だからこそ我々も、何も知らずにいた当時は堂々と恥ずかしい黒歴史をたくさん作ってきたじゃあないですか。
今ではインターネットによって「これが他人からどう捉えられる可能性があるのか」を、より細かく分類されたほぼすべての人間像それぞれに、すでに何らかの冷笑認識がついてしまっている。
そしてなにより罠なのは、一度知ってしまったら戻ることはできないってこと。
何かをすると「○○系」と名付けられ、ネガティブな意味で解釈される可能性を警戒しないといけなくなるし、「○○系」から離れようとすると、また「自分は○○系と違うと思っている××系」だったり、「予防線張ってる人」だったりと、また別の冷笑可能な人間像が作られてしまいます。
出口がないんです、もう。
そこで、
一体どうするのが正解なんだーーー!!!!
って当然なってくると思います。
健全な考え方とは何だろう
冷笑文化の罠に陥っている状態では、そもそも「冷笑されない正解」を探すこと自体がかなり難しいです。
真剣になると「必死すぎて痛い」
斜に構えると「冷笑系で痛い」
自信を持つと「自分に酔ってて痛い」
自虐すると「予防線張ってて痛い」
もう何をしても詰みです。
だって、冷笑文化はそもそも「君はまだそこにいるのかい?私は一段階上にいるんだけどね」って冷笑するっていう目的が先行しているので、どんな行動も後付けで冷笑することができるからです。
だったら、私はもはや「絶対に冷笑されない自分」になること自体を諦めた方が早いんじゃないかと思います。
ここで言いたいのは、メタ認知を捨てて「自分がどう思われるかなんて考えずに、好きなことをしていよう!」という話ではなくてですね、「自分が今少し自分に酔っている」と分かった上で、それを必ずしもやめなくてもいい、という話です。
真剣になると「必死にやれてカッコいい」
斜に構えると「素直じゃなくてかわいい」
自信を持つと「堂々としててカッコいい」
自虐すると「謙遜できるのえらい」
のように、
○○することは恥ずかしいという結論が先行している冷笑文化とは逆に、
○○することはすばらしいという結論を先行させるんです。
(言ってみるとあまりにも順当な言葉なので、冷笑文化に慣れてしまっている今の時代では、いかにも”1段目すぎる”ように見えるかもしれませんが)
言ってしまえば自分の人生の主人公は自分なので、冷笑されないように自分を完全無欠で客観的で中立的な存在にはならなくてもいいんじゃないかなと思うんですよね。(もちろん他人に迷惑かけない範囲での話ですが)
「○○で痛い」を全部つぶした後に残るのは本当に理想の自分になるのかな、って思うと、そうでもない気がしますし。
逆に少しダサいところもあって、冷笑されそうな要素も持っているからこそ人間味や個性が見えて、その人らしいな~って思えたりもする気がします。
なので、私にとっては健全なメタ認知って、
「自分が何をしているのか・どう思われるかが分かる状態」でも
「自分のやりたいこと・なりたい象を」と選べるようになること
だとおもいます。
