誰もが”自分自身のフィルター”を通して世界を見ている〜電車で出会った小学生から学んだこと〜【#111】(体験記-02)
電車の中で、小学生の女の子とその母親と思しき人の会話が耳に入りました。
その子はこう言ったのです。
「私の意見では……だと思うの。」
ふと耳が止まりました。
“私の意見では”──
たったそれだけの前置きが、ものすごく成熟して聞こえたのです。
アドラー心理学の視点から見る「意見の主語」
この何気ない発言には、とても大きな意味があると感じます。
アドラー心理学では、「人は世界を客観的に見ることはできず、常に自分自身のフィルターを通して世界を捉えている」と考えます。
5つの基本前提の中の仮想論の考え方ですね。
つまり、●●ちゃんがこうだった、という事実ではなく、
「私にはそう見えた」「私の解釈ではこう思った」という主観的な視点に立てているということ。
これは、子どものうちから「事実」と「解釈」を分ける力が育っている証拠です。
この力があると、自分の意見に責任を持ちながら、他者との違いも自然に受け入れられる。
とても大切な社会的スキルであり、柔軟性、しなやかさにつながると感じます。
「客観的に言うと」という言葉が気になる理由
一方で、あるお気に入りの番組の中で、パーソナリティが相方に対してよくこう言うのを耳にします。
「客観的に見て、●●さんは……」
この言い方、実は結構気になるのです。
悪気があるわけではないとわかっていますし、フラットに見ている姿勢は伝わってきます。
でも、“客観的”という言葉には、あたかもそれが事実であるかのような力が宿ってしまう。
「私から見て●●に思える」とか、「周囲からは●●と評価されることが多い」といった言い方であれば、
もう少しニュアンスがやわらかく、伝わりやすくなるように思うのです。
これはもしかすると、自分の中の完璧主義や言葉に対するこだわりが引っかかっているのかもしれません。
目くじらを立てる必要はないですし、決してそうしているわけではないのですが・・・
でもやっぱり、言葉の使い方には気をつけたい。
そう改めて感じました。
小学生のひと言が、教えてくれたこと
あの小学生の一言に戻ります。
「私の意見では……」
これはまさに、自分の主観と向き合う姿勢です。
意見を持ち、発信しながらも、それが「唯一の真実ではない」と知っている語り口。
「事実は存在しない、存在するのは解釈である」
この言葉を、もっと日常の中で意識したいと思いました。
“私の意見では”から始まる、対話の練習」
「私の意見では」と語ることは、ただの自己主張ではありません。
それは同時に、「あなたはどう思う?」という対話の扉を開く言葉でもあるのです。
意見に“私の”という主語をつけることで、相手を否定することなく、自分の考えを伝えることができます。
そして相手の意見にも「そういう見方もあるんだね」と耳を傾ける余白が生まれます。
これはまさに、「主張」と「共感」の両立。
アドラー心理学でいう「横の関係」をつくる土台です。
正しさを競うのではなく、違いを味わい合うような議論。
その最初の一歩が、「私の意見では」という姿勢なのだと思います。
子どもが自然にやっていることを、大人こそ、意識的に取り戻したいですね。
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