哲学対話「爪痕を残す」

これまでも何度か取り上げている『荻上チキ Session』のお気に入りコーナー『哲学対話』。
新年一回目のテーマが「『爪痕を残す』ってどういうこと?」だった。

このタイトルを見たとき、まず私が引っかかったのは、
「爪痕を残すって、そもそもどっちの意味の話なんだろう?」
ということだった。2つの使い方を連想したからだ。

「爪痕」という言葉は、もともとかなり重たいイメージだ。
災害や戦争が残した傷跡。
「台風が大きな爪痕を残していった」とか、「〇〇災害の爪痕」といった使われ方が、まず頭に浮かぶ。

だから「爪痕を残す」という表現より先に、「爪痕=傷跡」というイメージがある。

しかし一方で、 誰かが何かの痕跡を残すことも「爪痕を残す」と比喩的に言うことがある。
どちらかといえば、競争的な場面に
おいて、トップになるほどまではいかなくとも、次に繋がるような何らかのインパクトを残した場合に言うような印象がある。たとえばオーディションに合格はできなかったけど審査員に覚えてもらえた、とか。
「〇〇さん、今回ちゃんと爪痕残しましたね」
といった言い方で、割と耳にする。

ところが、番組内での話によると、今の学生さんの間では「飲み会で爪痕を残す」みたいな使われ方もあるらしい。

それを聞いて、だいぶカジュアルな言葉になったな、という印象を受けた。

もちろん、それが「ダメ」というわけではない。
言葉の意味が変わったり、広がったりすること自体は、自然なことでもある。

ただ、番組の中でも指摘されていたように、
言葉の意味がどんどん拡散していくことで、
本来その言葉で表現しようとしていた概念そのものが、薄まって消えてしまう、という危険もある。

番組では、「難民」や「テロ」といった言葉が例に挙げられていた。

たとえば「帰宅難民」ぐらいなら、まだ許容範囲だと感じる人も多いだろう。
でも、「入りたいカフェが見つからなくてカフェ難民」などと言い出すと、さすがに軽くなりすぎているように感じてしまう。

言葉というのは、どうしても強い表現に引っ張られる。
注目を集めたいとき、印象に残したいときほど、強い言葉を選んでしまう。

美味しそうな食べ物の写真をSNSに上げる、特に連続的に上げることを「飯テロ」などと呼んだりもするけど、指摘を目にしてから、私は意識的に避けるようになった。

直接誰かに注意されたわけではない。
ただ、「ああ、確かにそうだな」と思わされるものを見かけて、それ以降、自分の中で線を引くようになった。

話を元に戻すと、「爪痕」という言葉も、あまりにカジュアルに使われすぎると、
災害や暴力、取り返しのつかない被害を指し示すための言葉としての重みが、少しずつ削られてしまうのではないか、そんな気もする。

言葉は便利だけれど、同時にとても危うい。
どう使うかで、見えている世界の輪郭そのものが、静かに変わっていく。

「爪痕を残す」という言葉をめぐる今回のやりとりを聞きながら、そんなことを考えた。

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