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K313|「中てたい」はいつ会を壊すのか――欲と貪を分ける


「中てたい」と思うこと

「中てたい」と思うこと自体が、早気の原因なのだろうか。

もしそうなら、的を狙う競技として弓道を続けることそのものが、早気を生むことになる。しかし、これは適切ではない。

的中を目指すことと、的中に執着することは同じではない。

倶舎論の語で考えるなら、まず「欲」と「貪」を分けなければならない。

ここでいう欲とは、ある行為をしようと望む働きである。倶舎論では、欲は大地法の一つに数えられ、あらゆる心に広く起こり得る心所とされる。

したがって、

  • 的に中てたい

  • 射を上達させたい

  • 審査に合格したい

  • 試合に勝ちたい

という目的があるだけで、それを直ちに貪と呼ぶことはできない。

貪とは、単に何かを望むことではない。対象を好ましいものとして染着し、そこから離れにくくなる煩悩である。

「中てたい」という言葉が同じでも、その内実は一様ではない。

「中てたい」の中身を分ける

会で起こる「中てたい」には、少なくとも次のような違いがある。

一つ目は、技術上の目的である。

的へ矢を運ぶために、狙いを定め、射法に従って射を遂行しようとする。これは弓を引くうえで自然な目的であり、それだけで煩悩とはいえない。

二つ目は、行為を成し遂げようとする欲である。

「この一本を最後まで引きたい」「狙いを保って離れまで働きたい」という意欲である。この欲は、むしろ射を支えることがある。

三つ目は、結果への染着である。

「何としても、この場で中りを手に入れなければならない」

「外れた自分を受け入れられない」

「中てた自分でなければ価値がない」

このように、的中や的中した自己像から心が離れられなくなっているなら、貪との関係を検討できる。

四つ目は、外れへの拒絶である。

求めているように見えて、実際には「外したくない」「失敗する時間に耐えたくない」という拒絶が強いこともある。この場合、中心にあるのは貪だけではなく、瞋に通じる反発や排除かもしれない。

五つ目は、迷いである。

「まだ引くべきか、もう離すべきか」

「このままでは外れるのではないか」

この揺れには、疑や判断の混乱が関係する可能性がある。すべてを三毒だけで説明する必要はない。

さらに、心の動きとは別に、目通りや狙いの成立を合図として離してしまう身体化した習慣も考えなければならない。

これは煩悩そのものではない。

中りが会を壊すのではない

中りは、会の外にある無関係なものではない。狙いも的中も、射の重要な要素である。

問題は、会の最中に中りを確定しようとすることである。

会において、まだ中りも外れも現れていない。それにもかかわらず、心が結果を先に確保しようとすると、注意の対象が変わる。

本来ならば、

  • 左右の張り合い

  • 縦線

  • 詰合い

  • 伸合い

  • 弓力を受け続ける身体

  • 離れに至るまでの射の働き

に向かうはずの注意が、「今なら中る」「これ以上引けば外す」という予測へ移っていく。

そのとき、的中は射の結果ではなく、現在ただちに回収すべきものになる。

ここでいう「結果を前倒しして回収する」は、倶舎論の術語ではない。早気を観察するための比喩である。

倶舎論が説明するのは、心や心所、煩悩、所縁などの関係である。それだけで、離れがどのような運動機序によって起こるかまで説明できるわけではない。

心の分析と、射技・身体の分析は分けておく必要がある。

心は一本のあいだに変化する

「中てたい」という一つの心が、打起しから離れまで固定して続くわけではない。

一本の射のあいだにも、多くの心の刹那が相続する。

はじめは「射を正しく行いたい」という欲であったものが、会に入ってから「早く結果を確かめたい」という焦りへ変わることがある。

的を所縁としていた心が、外れの予測、他者の評価、身体の苦しさ、過去の失敗へと移ることもある。

したがって、早気を点検するときは、

「中てたいと思ったか」

だけでは足りない。

見るべきなのは、

「その瞬間、何を対象としていたか」

「その対象に、どのように関わっていたか」

「次の瞬間、心はどこへ移ったか」

である。

「中てたい」を消す必要はない

早気を直そうとして、「中てたいと思ってはいけない」と自分に命じることがある。

しかし、目的そのものを消そうとすると、かえって「中てたい心をなくさなければならない」という新しい緊張が生まれる。

必要なのは、的中への志向を捨てることではない。

的中を、会の途中で奪い取ろうとしないことである。

中りか外れかは、離れの後に現れる。会の中で中りを保証することはできない。

会で行えるのは、結果の確保ではなく、射を働かせ続けることである。

点検のための問い

会で「中てたい」が強くなったとき、次のように問い直す。

  • 私はいま、何をしようとしているのか

  • 的中を目指しているのか、それとも的中を確定しようとしているのか

  • 中りを欲しているのか、外れを拒絶しているのか

  • 的を見ているのか、評価される自分を見ているのか

  • 離れようとしているのか、それとも身体がいつもの合図に反応しているのか

  • 結果を待てず、射の途中で回収しようとしていないか

この問いは、心を善悪で裁くためのものではない。

欲、貪、瞋、疑、注意の移動、そして身体化した習慣を混同しないためのものである。

「中てたい」は、必ずしも会を壊さない。

会を壊し得るのは、中りを目指すことではなく、まだ現れていない結果に心を奪われ、射の働きを途中で終わらせることである。

中りを捨てるのではない。

中りを目指しながら、射を最後まで働かせる。


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