K217|彀とは何か――伸合いの極から離れへ至る刹那
1.彀は、早気を考えるための中心となる
前稿では、伸合いを、詰合いによって整えられた身体の関係を崩さず、身体と気力を働かせながら射を進めることとして整理した。
その伸合いが進んだ先にあるのが、彀(やごろ)である。
彀という言葉は、現在の日常的な弓道指導では、会や伸合いほど頻繁に使われないかもしれない。
しかし、早気を単に「会が短い」「離れが早い」という問題から切り離して考えるためには、この言葉が重要になる。
早気の本質を、
何秒持てたか
ではなく、
射が彀へ至ったか
という観点から捉え直すことができるからである。
ただし、彀を三毒早気論のために作られた独自語のように扱ってはいけない。
まず射法上の意味を確認し、その上で三毒早気論ではどのように位置づけるかを分けて考える必要がある。
2.彀は、矢を発するのに適した状態と時機を示す
彀には、弓を十分に引き絞り、矢を発し得る状態や時機という意味がある。
弓道では、矢束を十分に取り、頬付け、口割、狙いなどが整い、詰合いと伸合いが働く。
その伸合いが充実し、離れへ至る直前の状態を彀と捉えることができる。
したがって彀は、単に、
矢束いっぱいに引いた形
外から会に見える姿勢
一定時間持った状態
苦しさの限界まで耐えた地点
を指すものではない。
外形として十分に引いていても、身体の構成が崩れていることがある。
会の秒数が長くても、詰合いと伸合いが止まり、離れを押さえ込んでいることもある。
彀を見るときには、外形や秒数だけでなく、射法上の働きがどこまで充実していたかを見なければならない。
3.彀は、伸合いの極にある
詰合いによって、身体各部と弓矢の関係が整う。
伸合いによって、その関係を崩さず、身体と気力を天地左右へ働かせ続ける。
射が止まらず、縮まず、矢筋への働きが充実していく。
その伸合いの極に彀がある。
ここでいう「極」は、筋力や苦痛の限界を意味しない。
これ以上耐えられない
これ以上引っ張れない
身体が壊れそうである
力を出し切って動けない
という状態ではない。
詰合いと伸合いが射法に沿って働き、その働きが離れへ通じるところまで充実したことをいう。
したがって彀は、力づくで到達する限界点ではない。
射法を働かせた結果として、発の時機が熟したところである。
4.彀は、長く留まる場所ではない
彀を完成した姿勢だと考えると、
彀へ達した後、そこでどれくらい持てばよいのか
という問いが生じる。
しかし、彀は長く滞在する場所ではない。
詰合いと伸合いが進み、その働きが離れへ通じるところまで充実する。
その刹那が彀であり、そこから離れへ至る。
したがって、
会に入る
彀に達する
彀を保つ
離れる時機を決める
意志で離れを起こす
という独立した工程に分かれるわけではない。
彀は、伸合いが終わった後に設けられた待機場所ではない。
伸合いの極と離れとの間にある、刹那的な接点である。
5.彀に達したかどうかは、射手が簡単に判定できるものではない
彀を明確な到達点として示すと、射手は会の中で、
今、彀に達しただろうか。
まだ彀ではないのか。
これが彀なのか。
と確認したくなる。
しかし、この自己判定が強くなると、射手は再び射の外側から自分を監視することになる。
彀へ至ることを目標にしても、会の中で彀そのものを探し続ける必要はない。
射手が実際に行うことは、
胴造りを崩さない
縦横十文字を働かせる
頬付けと口割を安定させる
狙いを通す
詰合いを整える
伸合いを働かせる
矢筋への力を途切れさせない
ことである。
これらの射法を働かせた結果として、彀へ至る。
彀は、会の途中で見つけて捕まえる対象ではない。
射法が十分に働いたとき、結果として成立する時機である。
6.彀と反射的な離れは同じではない
彀に達すると、離れへ至る。
この説明だけを見ると、彀とは反射的な離れを引き起こすスイッチのように思えるかもしれない。
しかし、彀から至る離れと、早気における反射的な離れは区別しなければならない。
早気では、詰合いと伸合いが十分に働く前に、離れが反射として起こる。
頬付けがつくと出る。
口割へ近づくと出る。
狙いへ入ろうとすると出る。
的が視界へ強く入ると出る。
これは、射法が充実した結果としての発ではない。
特定の状況や感覚をきっかけに、射が成立する前に起きる反応である。
一方、彀からの離れは、射手が詰合いと伸合いを働かせ、その射法上の働きが発へ通じたものである。
どちらも外からは矢が発せられる。
しかし、そこへ至る過程が異なる。
射法を働かせた結果として至った離れ
射法が成立する前に反射として起きた離れ
この違いを見ることが、早気を考える上で重要である。
7.早気とは、彀に至る前に離れることである
早気は、単に会の秒数が短いことではない。
三毒早気論では、
詰合いと伸合いを十分に働かせ、彀へ至る前に離れが起きること
を早気の中核として捉える。
この定義に立てば、二秒だから早気、五秒だから正常という一律の基準から離れることができる。
会が短く見えても、詰合いと伸合いが働き、彀へ至っている射があるかもしれない。
反対に、会が長く見えても、離れたい反射を押さえ込み、伸合いが止まり、彀へ至っていない射もあり得る。
したがって、問うべきなのは秒数だけではない。
頬付けと口割が成立したか
狙いが定まったか
詰合いが整ったか
伸合いを働かせられたか
矢筋への働きが続いたか
射が彀へ至ったか
である。
早気では、この過程が完了する前に離れが起こる。
そのために射手は、自ら射技を働かせ、射を成立させる機会を失っていく。
8.彀に至らない射には、異なる現れ方がある
彀に至らない射が、すべて同じ外形になるわけではない。
彀へ至る前に離れれば、早気として現れる。
彀へ向かう伸合いが止まり、離れにも至れなくなれば、モタレとして現れることがある。
彀へ至る直前に身体や力の関係が崩れれば、ゆるみとして現れることもある。
これらは原因も現れ方も同一ではない。
射技上の問題
身体条件
弓力や弓具
疲労
痛み
不安
過去に形成された反射
稽古環境
など、それぞれ異なる条件が関係する。
したがって、早気・モタレ・ゆるみを同じ射癖として扱うことはできない。
ただし、
いずれも詰合いと伸合いを働かせて彀へ至る射の流れが、何らかの形で成立しなかった
という観点から比較することはできる。
彀は、異なる射癖を無理に一つへまとめる言葉ではない。
それぞれの射が、どこまで成立していたのかを調べる基準である。
9.彀へ至る前に、成立しない射を戻す
射手は、会に入ったら必ず離れなければならないわけではない。
頬付けが成立しない
口割へ収まらない
狙いが定まらない
詰合いが崩れている
伸合いを働かせられない
身体や弓具に異常がある
このような場合、その射は彀へ至っていない。
成立していない射を無理に発するのではなく、自分の判断で引き戻すという選択がある。
早気では、彀へ至る前でも離れが反射として起こるため、射手は「進める・戻す」という選択を失いやすい。
射を進める。
条件が整わなければ戻す。
整ったなら、さらに詰合いと伸合いを働かせる。
こうした選択を取り戻すことは、射手が射の主導権を取り戻すことでもある。
ただし、引き戻しは安全を最優先し、弓具、周囲の状況、指導者の判断を踏まえて行う必要がある。
10.彀は、的中を保証するものではない
彀へ至った射が、必ず的中するとは限らない。
狙い、矢所、弓の働き、離れの方向などに問題があれば、彀へ至ったと感じた射でも外れることはある。
反対に、彀へ至る前に離れた早気の射が中ることもある。
したがって、一射の的中だけで、彀へ至ったかどうかを判断することはできない。
ただし、的中を軽視してよいという意味ではない。
的中は、射技が適切に働いているかを検証する重要な結果である。
彀へ至る射を反復し、その射が継続的な的中と結びついているかを見なければならない。
射が成立したか
的中したか
同じ射を再現できたか
を分けて記録し、長期的に重ねて考える必要がある。
彀は、的中に代わる精神的な価値ではない。
的中へ至る射法上の工程を確認するための重要な概念である。
11.三毒早気論における彀
三毒早気論では、彀を次のように位置づける。
彀とは、詰合いと伸合いが十分に働き、射が発へ通じるところまで成熟した刹那である。
ここでいう成熟は、精神的な高揚や神秘的な境地ではない。
身体と弓矢の関係が整っている
縦横十文字が働いている
頬付けと口割が成立している
狙いが通っている
詰合いが崩れていない
伸合いが途切れていない
結果を取るために離れを操作していない
苦しさを切るために離れへ逃げていない
という射法上の条件が、発へ向かって充実したことをいう。
この彀へ至る前に、離れが反射として起こる。
それが三毒早気論における早気の中核である。
早気を直すとは、彀を長く保つことではない。
離れを力で遅らせることでもない。
射手が再び、詰合いと伸合いを働かせ、射を彀へ至るところまで進められるようになることである。
次稿では、彀へ至った離れと、彀へ至る前に反射として起きる離れを区別しながら、「離れは起こすものではなく、起きるもの」という言葉を考える。
