K357|正念――離したい反応に呑まれる前に、何が起きているかを知る
はじめに
K351の正見では、早気を人格の弱さと決めつけず、条件によって起こる現象として見た。
K352の正思惟では、中りや失敗回避ではなく、射を成立させる方向へ意図を置き直した。
K353の正語では、自分と他者の射を縛る言葉を減らし、身体の働きへ移せる言葉を選んだ。
K354の正業では、崩れた射を漫然と反復せず、射が成立しやすい条件から稽古を組み直した。
K355の正命では、道場外の生活条件も射と無関係ではないことを考えた。
K356の正精進では、崩れを生む条件を減らし、射が成立する働きを生じさせ、それを育てる努力を考えた。
しかし、どれほど条件を整えても、会では実際に反応が起こる。
中てたい。
外したくない。
苦しい。
怖い。
早く終わらせたい。
このままでは離れてしまう。
身体にも変化が現れる。
息が浅くなる。
肩や手先が固まる。
目通り以後の引分けが狭くなる。
狙いに触り始める。
馬手が収まりではなく、離れの位置を探し始める。
そして多くの場合、射手は離れた後になってから気づく。
また早気だった。
すでに矢は放たれている。
では、反応が始まったとき、何が起きていたのか。
その反応に、もう少し早く気づくことはできないのか。
三毒早気論における正念は、この問題を扱う。
正念とは、単に「今に集中すること」ではない
正念は、八正道の第七に置かれている。
現代では、正念はしばしば「マインドフルネス」と訳され、
今この瞬間に集中すること
判断せず、あるがままに受け入れること
心を落ち着けること
として説明される。
これらは正念を理解する手掛かりにはなるが、それだけで仏教における正念の全体を表すものではない。
正念には、対象を忘れず、見失わず、明らかに観察し続ける働きがある。
仏教では、身体、感受、心、法を観察する四念処という実践が説かれる。
身体を身体として観る
感受を感受として観る
心を心として観る
法を法として観る
したがって、正念を単純に、
会で離したい反応に気づくこと
と定義することはできない。
本稿では、正念が示す、
起きていることを見失わず、それに別の評価を重ねる前に知る
という働きを、早気へ応用する。
三毒早気論における正念とは、
離したい反応を力で抑え込むのではなく、身体・感覚・心・射の状態に何が起きているかを知り、その反応に呑まれ切らないこと
である。
正念は、射を監視することではない
早気に悩む射手が「自分の射をよく観察しよう」と考えると、射中の自己監視が強くなることがある。
肩は上がっていないか。
肘の位置は正しいか。
息は止まっていないか。
狙いは合っているか。
引分けは続いているか。
会は短くないか。
離れそうになっていないか。
これらを一射の中で同時に確認すれば、射手は弓を引きながら、自分の射を採点し続けることになる。
一つの働きを確認している間に、別の働きが止まる。
「できているか」と判定するたびに、射の連続へ新しい介入が入る。
これは、三毒早気論がいう正念とは違う。
正念は、射の全部を細かく監視することではない。
また、崩れを絶対に見逃さないように身構えることでもない。
何を観るかをあらかじめ絞り、その働きが失われたときに気づけるようにする。
たとえば、その日の課題が目通り以後の引分けなら、
目通りを過ぎても、左右の働きが続いているか
を中心に置く。
肩、肘、呼吸、狙い、会の長さ、離れの気配を、すべて同時に監視する必要はない。
正念は監視項目を増やすことではなく、いま必要な対象を見失わないことである。
身体に起きていることを知る
早気は、心の中の言葉だけで起こるわけではない。
考えるより先に、身体へ現れることがある。
息が浅くなる。
肩が固まる。
胸が詰まる。
手先に力が集まる。
引分けが小さくなる。
狙いを合わせる動きが増える。
馬手が収まりを探り始める。
この段階では、まだ本人が「離したい」と明確に考えていないこともある。
しかし、身体はすでに離れへ向かう準備を始めている。
三毒早気論に正念を応用するとき、最初に観るべきものの一つは身体である。
ただし、
肩が固まってはいけない
息を止めてはいけない
と評価するのではない。
まず、
肩が固まり始めた。
息が浅くなった。
目通りから引分けが狭くなった。
と知る。
身体の変化を知ることと、すぐ修正命令を出すことは別である。
気づいた後、射の中で戻れるなら、左右の働きや引分けの継続へ戻る。
すでに射が崩れ、無理に続けることが危険または不適切なら、引き戻すなど別の行為を選ぶ。
重要なのは、離れが出るまで身体の変化を見失わないことである。
快・不快に起きていることを知る
会では、さまざまな感覚が生じる。
苦しい。
張りが強い。
怖い。
落ち着かない。
狙いが決まって気持ちよい。
今なら中りそうだ。
仏教では、このような経験に伴う快・不快・そのどちらでもない感受を「受」として観察する。
三毒早気論では、この視点が重要になる。
なぜなら、早気では、感覚とそれへの反応が近接し、射手には一続きに感じられやすいからである。
苦しい。
だから、早く終わらせたい。
不安だ。
だから、離れて確定させたい。
狙いが合った。
だから、今のうちに離したい。
張りが心地よい。
だから、この状態を失う前に中てたい。
感覚が生じること自体を、ただちに貪・瞋・痴と決める必要はない。
苦しさは、まず苦しさである。
不安は、まず不安である。
問題は、その感覚に対して、
欲しい
消したい
早く終わらせたい
という反応が重なり、射を動かし始めることである。
正念とは、
苦しいのは駄目だ
と裁くことではない。
いま、不快を感じている。そこから逃れたい反応が起きている。
と知ることである。
感覚と、それに対する反応を分けて観る。
そこに、反応へ従う以外の余地が生まれる。
心がどちらへ向いているかを知る
会で身体が整っていても、心が結果へ向かうことがある。
この矢は中りそうだ。
ここで外したくない。
前の矢を取り戻したい。
審査員に良く見せたい。
早気が直ったところを証明したい。
このとき必要なのは、
中てたいと思ってはいけない
と、その心を否定することではない。
中てたい心があることを知る。
失敗を恐れていることを知る。
早く結果を確定したい方向へ、心が動いたことを知る。
知ることと、従うことは同じではない。
中てたい心があっても、詰合いと伸合いを続けることはできる。
不安があっても、目通り以後の引分けを継続することはできる。
離れたい反応があっても、それを離れの命令にしないことはできる。
三毒早気論における正念は、心を無くすことではない。
心の向きを見失わず、射法上の行為と混同しないことである。
射全体で起きていることを知る
身体、感覚、心を個別に見るだけではなく、射全体の構造を見る必要もある。
たとえば、
狙いが定まる
中りそうだと感じる
結果を早く確定したくなる
引分けが止まる
馬手が離れの位置を探す
離れが出る
というつながりがあるかもしれない。
あるいは、
会で張りの苦しさを感じる
苦しさを消したくなる
息を止める
身体を固めて離れを封じる
伸合いが止まる
最後は耐えきれずに離れる
という流れかもしれない。
正念とは、個々の感覚をばらばらに確認するだけではない。
何が何につながり、射がどこで別の方向へ変わったかを見ることである。
ただし、これを射中に詳細に分析する必要はない。
射中では、決めた対象を見失わない。
射後に、身体、感覚、心、射法の関係を振り返る。
射中の気づきと、射後の分析を分ける。
そうしなければ、観察そのものが射を止める仕事になってしまう。
気づく位置を、少しずつ手前へ移す
早気への気づきには、段階がある。
最初は、離れた後にしか分からない。
また早気だった。
次に、離れた瞬間に分かる。
いま、自分で離した。
さらに、離れる直前に分かる。
もう離れが出ようとしている。
その前には、狙いが定まった瞬間に結果へ心が動いたことへ気づく。
さらに手前では、頬付け前に馬手が収まりを探し始めたことへ気づく。
もっと手前では、目通りを過ぎたところで引分けが止まり始めたことへ気づく。
場合によっては、打起しや大三の段階ですでに急いでいることが分かる。
このように、気づく位置は遡ることができる。
離れた後。
離れの瞬間。
離れる直前。
狙いが定まったとき。
頬付け前。
目通り付近。
引分け以前。
正念による進歩は、早気が一度も出なくなることだけではない。
気づく位置が、以前より少し手前へ移った
ことにも現れる。
離れた後でしか分からなかったものが、離れる前に分かる。
頬付け後でしか分からなかったものが、目通りで分かる。
そこまで遡れれば、選べる行為が増える。
正念とは、反応を完全に未然防止する能力ではない。
反応が射を支配する前に、それを知る可能性を広げることである。
気づいたからといって、反応が消えるわけではない
反応に気づけば、それだけで消える。
そのように期待すると、正念も結果を得るための技法になる。
気づいたのに、まだ離したい。
観察したのに、苦しさが消えない。
分かっているのに、また早気が出た。
そして、
自分は正しく気づけていないのではないか
と考える。
しかし、気づくことと、反応が消えることは同じではない。
離したいと気づいても、離したい反応は残る。
苦しいと知っても、苦しさは続く。
結果を欲していると分かっても、中てたい気持ちが直ちになくなるわけではない。
正念の役割は、反応を瞬時に消すことではない。
反応と射手の行為を、完全に同一にしないことである。
離したい反応がある。
だから離さなければならない。
ではない。
苦しさがある。
だから会から逃げなければならない。
でもない。
反応があっても、引分けを続けることはできる。
不安があっても、詰合いと伸合いへ戻ることはできる。
気づきによって、反応と行為の間にわずかな余地が生まれる。
その余地が、射の主導権を取り戻す入口になる。
「あるがままに受け入れる」を誤解しない
正念は、起きているものを否定せずに観る実践として説明されることがある。
しかし、「あるがままに受け入れる」という言葉には注意が必要である。
早気を受け入れるとは、
早く離れても仕方がない
今の射を変えなくてよい
苦しくなったら離れてよい
という意味ではない。
現状を認めることと、現状へ従い続けることは違う。
目通りで引分けが止まっている。
狙いがつくと離れを急いでいる。
会の苦しさを嫌っている。
その事実を否定せず認める。
そのうえで、必要な稽古を選ぶ。
引分けを組み直す。
距離を変える。
崩れたら一段戻る。
課題を一つに絞る。
受け入れるとは、改善を放棄することではない。
現実と戦う前に、何が現実なのかを正確に見ることである。
三毒に名前をつけすぎない
三毒早気論を学ぶと、射中の反応へ名前をつけたくなる。
これは貪だ。
いま瞋が起きた。
痴に呑まれている。
分類できることには意味がある。
しかし、会の中で一つ一つを判定し続ければ、三毒という言葉も新しい監視項目になる。
貪を起こしてはいけない。
瞋を消さなければならない。
痴に気づかなければならない。
これでは、仏教用語によって自分の射を追い込むことになる。
射中では、
結果へ心が動いた。
苦しさから逃げたくなった。
引分けの継続を見失った。
という程度でよい。
貪・瞋・痴の分類は、主に射後の整理で使う。
三毒は、射の中で唱える言葉ではない。
起きた反応を後から読み解き、次の稽古を選ぶための枠組みである。
正念は、集中しすぎることとも違う
早気に対して、
もっと集中しなければならない
と言われることがある。
しかし、何へ集中するかによって結果は変わる。
離れだけへ集中する。
的中だけへ集中する。
苦しさだけへ集中する。
早気を出さないことだけへ集中する。
このような集中では、一つの対象が大きくなり、射全体が見えなくなることがある。
離れが気になれば、詰合いと伸合いを忘れる。
苦しさが気になれば、呼吸や張り合いを忘れる。
中りが気になれば、引分けの継続を忘れる。
正念は、一点へ意識を貼りつけることではない。
何を中心に置きながら、何を見失わないか
が重要になる。
目通り後の引分けを中心に置きながら、身体全体の張り合いを失わない。
狙いを定めながら、狙いだけに射全体を支配させない。
会の苦しさを感じながら、苦しさだけが会のすべてではないことを見失わない。
正念は、散漫になることでも、一点へ固着することでもない。
必要な対象を保ちながら、射全体との関係を失わないことである。
正念は、射中だけの実践ではない
気づきは、会の中だけで行うものではない。
射前には、
今日は結果を急いでいないか。
身体に強い疲労はないか。
課題を増やしすぎていないか。
を見る。
射中には、その日の観点を見失わない。
目通り後も引分けが続いているか。
頬付けを終点にしていないか。
狙いがついた瞬間に、射を閉じていないか。
射後には、事実を振り返る。
どこで身体が変わったか。
どこで快・不快へ反応したか。
どこで心が結果へ向いたか。
どこで射法上の働きが失われたか。
射前・射中・射後を分けることで、射中にすべてを分析しようとする負担を減らせる。
正念とは、会の中だけで特別な観察状態を作ることではない。
稽古全体を通じて、何をしているかを見失わないことである。
稽古で正念を使う
正念を稽古へ応用するなら、次のように進めるとよい。
一 観る対象を一つ決める
その日の課題を絞る。
目通り後の引分け
頬付け前の馬手の収まり
狙いが定まった瞬間の反応
など、具体的な対象にする。
二 射中では判定しすぎない
できているか、駄目かと採点し続けない。
変化が起きたことを知り、戻れるなら身体の働きへ戻る。
三 射後に言葉へする
駄目だった
ではなく、
目通りで引分けが止まった
と具体化する。
四 気づいた位置を記録する
離れた後に分かった。
離れる直前に分かった。
狙いが定まった時点で分かった。
目通りで変化に気づいた。
気づきの位置が手前へ動いたかを見る。
五 気づきを成功と同一視しない
気づいても離れることはある。
それでも、以前より手前で分かったなら、次の行為を選べる範囲は広がっている。
正念の稽古は、「完璧に気づく」ことを目指すものではない。
見失っていた場所を、一つずつ見えるようにすることである。
正精進と正念の違い
正精進は、
何を防ぎ、何を離れ、何を生じさせ、何を育てるか
という努力の方向を扱う。
正念は、
いま、身体・感覚・心・射に何が起きているかを見失わないこと
を扱う。
努力の方向が正しくても、崩れの始まりに気づけなければ、古い反応を繰り返す。
気づきがあっても、その後に何を育てるかがなければ、観察だけで終わる。
正精進によって射が成立する条件を育てる。
正念によって、その条件が保たれているか、どこで失われたかを知る。
両者が結びついて、気づきが稽古の変更へつながる。
正念から正定へ
身体、感覚、心、射の状態に気づけるようになっても、意識が次々と移り続ければ、射はまとまらない。
身体を見て、次に苦しさを見て、次に狙いを見て、次に離れを見ているうちに、射全体の方向を失うことがある。
正念は、何が起きているかを見失わない働きである。
しかし、その対象に心が留まり、射全体が一つの方向へまとまるためには、正定という観点が必要になる。
正定は、何も感じない静かな心を作ることではない。
中り、離れ、苦しさの一点へ吸い寄せられず、射の働きを散乱させないことである。
次のK358では、正念によって見えてきたものを、どのように一つの射としてまとめるかを考える。
まとめ――気づくとは、反応と行為を分けることである
早気の反応は、気づいたときにはすでに始まっていることがある。
息が浅くなる。
肩が固まる。
引分けが止まる。
狙いへ意識が吸われる。
離れを早く確定させたくなる。
それを力で抑えようとすれば、会は反応との戦いになる。
一方、何も見ないままでは、射手は反応に従って離れる。
三毒早気論における正念とは、
離したい反応を力で抑え込むのではなく、身体・感覚・心・射の状態に何が起きているかを知り、その反応に呑まれ切らないこと
である。
苦しさがある。
しかし、苦しさに従って離れなければならないわけではない。
中てたい心がある。
しかし、中りに射の途中を支配させる必要はない。
離したい反応がある。
しかし、その反応と離れる行為は同じではない。
気づいたからといって、反応が消えるとは限らない。
それでも、反応と行為の間に、わずかな余地が生まれる。
離れた後でしか分からなかったものが、離れる直前に分かる。
離れる直前でしか分からなかったものが、狙いの成立時に分かる。
さらに、頬付け前、目通り付近へと気づく位置が遡る。
そこまで見えれば、離れを止める以外の行為を選べる。
引分けへ戻る。
左右の張り合いへ戻る。
詰合いと伸合いを続ける。
必要なら、無理に離れまで進まず一度戻す。
正念とは、早気を監視することではない。
早気に呑まれる前に、自分の射で起きていることを見失わないことである。
そして、反応に従う以外の射を選べる位置を、少しずつ手前へ取り戻す。
これが、三毒早気論における正念である。
※本稿は、八正道の伝統的教義と弓道の射法を同一視するものではありません。正念および四念処が示す、身体・感受・心・法を見失わずに観察するという方向を、早気の反応と崩れの入口を知るための補助線として参照する試論です。
