K351|正見――早気を人格ではなく、条件によって起こる現象として見る
はじめに
早気に悩む者ほど、最初に自分の心を疑う。
心が弱いのではないか。
我慢が足りないのではないか。
気持ちで負けているのではないか。
本番に弱い人間なのではないか。
そう考えて、もっと強く持とうとする。
離れを意志で押さえようとする。
会の秒数を延ばそうとする。
しかし、止めようとするほど苦しくなり、かえって早く離れてしまうことがある。
もし早気が、単純な意志の弱さだけで起こるならば、「離すまい」と強く決意すれば、ある程度は止められるはずである。
ところが実際には、その決意自体が新しい緊張を生み、射をさらに狭くすることがある。
これは、努力が足りないという話ではない。
努力する前に、早気という現象をどう見ているか。
そこに、すでに見誤りがあるのではないか。
三毒早気論における正見は、この問いから始まる。
正見とは、単なる「客観視」ではない
正見は、八正道の最初に置かれている。
仏教における正見は、単に物事を冷静に見ることや、偏見を持たないことだけを意味しない。
苦とは何か。
苦は何によって起こるのか。
苦を離れることは可能なのか。
そのために、どのような道を歩むのか。
また、自分の行為が結果と無関係ではないことを知り、貪・瞋・痴に基づく見方を離れていくことも、正見に関わる。
したがって、
正見とは、早気を現象として見ることである
という説明は、仏教における正見の定義そのものではない。
それは正見の本来の意味を踏まえながら、早気という問題へ応用した、三毒早気論独自の読み方である。
本稿では正見を、
早気について何を見誤っているかを知り、射の中で実際に起きていることを見るための出発点
として考える。
第一の見誤り――早気を人格の問題にする
早気が出ると、射手はその一本を、すぐ自分の人格へ結びつけやすい。
我慢のできない人間だ。
精神的に弱い。
集中力がない。
修行が足りない。
しかし、一本の射で起きた現象と、その人の人格全体とは同じではない。
巻藁では引けるのに、的前では引けない。
稽古では引けるのに、審査では早くなる。
一人なら引けるのに、立に入ると崩れる。
一射目は引けても、失敗した後の二射目で急ぐ。
このように、早気の現れ方が条件によって変わるならば、早気を固定した人格だけで説明することはできない。
的があること。
人に見られていること。
合否がかかっていること。
前の矢を外したこと。
身体が疲れていること。
会で苦しさを感じたこと。
こうした条件が重なったとき、特定の反応が強く現れている可能性がある。
もちろん、心の働きは射と無関係ではない。
しかし、
心の働きを観察すること
と、
心の弱さを判定すること
は、まったく違う。
早気を人格の欠陥と決めた瞬間、その一本の中で何が起きていたのかは見えにくくなる。
正見の第一歩は、射の現象を人格への判決に変えないことである。
第二の見誤り――早気を会の秒数だけで判定する
早気は、一般に「会が短いこと」と説明される。
確かに、会に至るとすぐ離れてしまうことは、早気の分かりやすい現れ方である。
しかし、会の秒数だけでは、射がどこまで進んでいたかは分からない。
三秒でも、詰合いと伸合いが途切れず、射が離れへ向かって成熟している場合がある。
反対に、十秒保っていても、
身体を固めている
離れを意志で封じている
伸合いが止まっている
狙いを何度も修正している
苦しさに耐えているだけになっている
という場合がある。
長く保っているように見えても、射が進んでいなければ、それは三毒早気論が目指す会ではない。
会は、秒数を獲得する場所ではない。
詰合い、伸合い、狙い、呼吸、気力が働き続け、射が彀へ向かって成熟する場である。
したがって、正見とは、
会が何秒あったか
だけではなく、
その間、射の何が進み、何が止まっていたか
を見ることである。
早気を秒数だけの問題と見れば、対策も「もっと長く持つ」だけになる。
それによって会が我慢の時間になれば、見方を正したことにはならない。
第三の見誤り――早気を離れの瞬間だけの問題にする
早気は、離れが予定より早く出たところで目に見える。
そのため、射手も指導者も、離れの瞬間に注目しやすい。
そこで離してはいけない。
離れを止めなければならない。
もう少し保たなければならない。
しかし、離れが先に出たという現象は、射がその瞬間だけで突然壊れたことを意味しない。
崩れは、それ以前から始まっている場合がある。
打起しから焦っていた。
大三で力の方向が定まっていなかった。
引分けが目通り付近で止まり始めた。
頬付けまで馬手が収まらなかった。
狙いが薄くなり、馬手が収まりを探し始めた。
詰合いへ入る前に、すでに離れを意識していた。
最後に現れるのは離れであっても、崩れの入口が離れにあるとは限らない。
正見とは、結果として現れた離れだけを見ず、射の流れを遡ることである。
どこから引分けが変わったのか。
どこで息が詰まったのか。
どこで狙いへ意識が吸われたのか。
どこで伸びる方向を失ったのか。
早気を直すとは、最後の離れだけを止めることではない。
離れが先走る前に、射の流れがどこで失われたかを見つけることである。
第四の見誤り――中れば問題がないと考える
早気でも中ることはある。
むしろ、早く離す射が一定の反復によって安定し、的中することもある。
すると、
中っているのだから、今のままでよいのではないか
という考えが生まれる。
しかし、三毒早気論が早気を問題とするのは、単に中らないからではない。
射手が、
まだ離したくないのに離れてしまう。
もっと引きたいのに引けない。
自分で選んだ射を実行できない。
という状態に置かれているからである。
たとえ中っていても、離れの時機を選べず、射を本来進めるべきところまで進められないならば、射の自由は失われている。
反対に、外れたからといって、ただちに悪い射とは限らない。
詰合いと伸合いが以前より進んだ。
離れを止めるのではなく、引分けを継続できた。
結果へ心が動いた瞬間に気づけた。
彀へ向かう射の流れが、少しでも戻った。
そのような一本には、的中とは別の意味がある。
正見とは、的中を軽視することではない。
的中だけを唯一の評価基準にせず、
その一本で射の主導権が保たれていたか
を見ることである。
第五の見誤り――三毒を射手の性格分類にする
三毒早気論では、早気の中に現れる反応を、貪・瞋・痴という三つの方向から考える。
貪――中てたい、決めたい、早く結果を得たい。
瞋――苦しい、怖い、この状態から逃れたい。
痴――自分の中で何が起きているのか見えなくなる。
しかし、これは、
あなたは貪の強い射手である。
あの人は瞋の強い性格である。
自分は痴の人間である。
と分類するためのものではない。
同じ人でも、一本ごとに反応は変わる。
一射目では中りを欲し、二射目では失敗を恐れ、外した後には自分の射が分からなくなることもある。
貪・瞋・痴は、固定された三種類の人間を表すのではない。
条件に応じて現れ、互いに影響し合う反応の方向である。
しかも、三毒を見つけたからといって、それをただちに消そうとしてはならない。
貪をなくそう。
瞋を抑えよう。
痴にならないようにしよう。
と強く構えれば、今度は「早く三毒を克服したい」という新たな執着が生まれることがある。
三毒を知る目的は、自分を裁くことではない。
その一本で、何が射を動かしていたかを見分けることである。
「評価」と「観察」は違う
ここで、正見に関わる重要な区別をしておきたい。
それは、評価と観察の違いである。
評価は、
良かった。
悪かった。
弱かった。
駄目だった。
と判定する。
観察は、
目通りを過ぎてから引分けが狭くなった。
頬付けの直前で息が止まった。
狙いが定まると同時に離れを考えた。
前の矢を外した後、次の一本を早く決めたくなった。
と、起きたことを見る。
評価は早い。
一本が終わると同時に結論を出せる。
観察には、少し時間がかかる。
すぐに意味を決めず、身体、心、射法、状況を分けて見なければならないからである。
評価がすべて悪いわけではない。
稽古では、何ができ、何ができなかったかを判断する必要もある。
しかし、観察を飛ばして評価だけを下すと、修正すべき場所が分からなくなる。
また早気だった。
今日も駄目だった。
自分は何も変わっていない。
これでは、結果を言い換えただけである。
次の一射を変えるための情報にはなっていない。
正見とは、評価を完全に捨てることではない。
評価の前に、観察を置くことである。
観察とは、心だけを見ることではない
三毒早気論は心の働きを扱う。
しかし、正見によって見る対象を、心だけに限定してはならない。
早気には、射法上の問題、身体的条件、心理的反応、稽古環境などが複合している。
たとえば、目通りを過ぎてから引分けが続かないとき、
会を恐れているからだ
と心の問題だけで説明してしまえば、身体の使い方を見落とす。
肩が詰まっているのかもしれない。
肘の方向が失われているのかもしれない。
胴造りが崩れているのかもしれない。
大三から会までの力の通り道が切れているのかもしれない。
弓力や疲労の影響があるのかもしれない。
反対に、
技術だけ直せばよい
として、的前で生じる焦りや不安を無視しても、現象の全体は見えない。
正見とは、何でも心の問題にすることではない。
何でも射法だけの問題にすることでもない。
射法
身体
心の反応
稽古条件
結果への意識
を混同せず、必要に応じて関係を考えることである。
三毒は、その中の「心の反応」を見るための枠組みであり、早気の原因すべてを説明する万能理論ではない。
正見は、原因を即断しない
一本崩れると、人はすぐ原因を決めたくなる。
今日は疲れていたからだ。
審査を意識したからだ。
中て気が出たからだ。
息が止まったからだ。
指導されたことを考えすぎたからだ。
その説明が正しいこともある。
しかし、一度の射だけでは判断できないことも多い。
正見とは、何でもただちに言い当てる能力ではない。
分からないものを、分からないまま保留することも正見に含まれる。
一射だけで決めず、条件を変えて見る。
巻藁ではどうか。
近距離ではどうか。
的前ではどうか。
一人の稽古ではどうか。
審査形式ではどうか。
疲れの少ない日はどうか。
条件を比較すると、崩れが起こる場所や、反応を強める縁が見えてくる。
「原因はこれだ」と早く決めることも、結果を早く確定したがる貪の一つになり得る。
正見とは、早く答えを得ることではない。
見えていないものを、見えているつもりにならないことである。
稽古で正見を使う
正見を稽古へ応用するとき、難しい分析を毎射行う必要はない。
むしろ、一本の中で同時に多くの項目を監視すれば、射へ余計な介入が増える。
射の最中は、射を行う。
観察と整理は、原則として射の前後に置く。
まず射の前に、その日の観点を一つ決める。
今日は、目通り以後も引分けが続いたかを見る。
今日は、頬付け前に馬手が収まりを探し始めないかを見る。
今日は、狙いが定まった瞬間に結果へ心が動かないかを見る。
今日は、会の秒数ではなく、伸合いが途切れた場所を見る。
次に射後、すぐに良否を決めず、事実を一つ残す。
頬付け前に息が止まった。
狙いが定まった直後に離れを意識した。
離れたい反応はあったが、引分けは前回より続いた。
会は短かったが、伸びる方向は失わなかった。
記録するなら、的中や会の秒数だけでなく、崩れの入口と条件を残す。そして、一射だけで結論を出さない。
同じ傾向が何度現れたかを見る。
正見とは、射の中で自分を細かく監視することではない。
射後に自分を責めることでもない。
次の一射で、どこへ手を入れるべきか判断できるように、現象を見分けることである。
正見だけでは射は変わらない
正見によって見誤りが減っても、それだけで早気が直るわけではない。
早気が人格の弱さではないと分かっても、的前では離れてしまうことがある。
会の秒数が本質ではないと理解しても、次の一本で秒数を数えたくなることがある。
崩れの入口が見えても、身体が同じ反応を繰り返すこともある。
だから八正道は、正見だけで終わらない。
何を目指して射へ入るのか。
何を避け、何を成り立たせるのか。
見方の次には、射の向きを定める必要がある。
それが正思惟である。
正見は、早気を直接止める技術ではない。
誤った見方に基づく努力を減らし、必要な稽古へ進むための最初の足場である。
まとめ――最初に直すのは、会の秒数ではない
早気を前にしたとき、多くの射手は頑張り方を探す。
もっと我慢する。
もっと集中する。
もっと強く離れを止める。
もっと長く会を保つ。
しかし、見方を誤ったまま努力を強くすれば、その努力によって早気を深めることがある。
最初に必要なのは、努力の量を増やすことではない。
何を見誤っているかを知ることである。
早気を人格の欠陥と見ない。
会を秒数だけで見ない。
離れの瞬間だけを見ない。
的中だけで射を判断しない。
三毒を性格分類にしない。
心だけ、射法だけで説明しない。
観察する前に原因を決めない。
そして、その一本で実際に何が起きていたかを見る。
何を欲したのか。
何を嫌ったのか。
何が見えなくなったのか。
射のどこで流れが変わったのか。
早気を、隠す対象から読む対象へ。
人格への判決から、条件によって起こる現象へ。
その見方が立って初めて、射手は自分を責めることから離れ、次の一射を変えるための手掛かりを得る。
これが、三毒早気論における正見である。
※本稿は、八正道の伝統的教義と弓道の射法を同一視するものではありません。正見の考え方を、早気を観察し、稽古を再構成するための補助線として参照する試論です。
