K256|痴――無明を単なる「自分の射が分からない」にしない
無明を考える
三毒早気論では、自分の射で起きていることが見えなくなる方向を、痴との関係から考える。
なぜ離れたのか分からない。
目通り後に何が起きたのか覚えていない。
もっと引こうと思っていたのに、すでに離れていた。
射後には「持てなかった」としか説明できない。
指導者から指摘されても、自分の感覚と一致しない。
早気では、このような経験が起こることがある。
しかし、自分の射が分からないことを、直ちに痴・無明と呼んではならない。
知らないこと。
気づかなかったこと。
覚えていないこと。
原因がまだ確定していないこと。
誤った説明を信じていること。
これらは同じではない。
痴とは単なる無知ではない
仏教における痴は、無明である。
これは、単に知識が少ないことや、物事を知らないことではない。
弓道の技術を知らない。
正しい狙いを学んでいない。
自分の射を言葉で説明できない。
離れの瞬間を思い出せない。
こうした状態を、それだけで痴とは呼べない。
三毒早気論では、無明が対象を明らかに理解できなくする性質を手掛かりとして、「見えなくなる方向」という表現を用いる。
「分からない」には複数の意味がある
射手が「なぜ離れたのか分からない」と言うとき、少なくとも次の可能性を分ける必要がある。
技術を知らない
目通り後に、どのように引分けを続けるのか分からない。
頬付け、詰合い、伸合いが何を意味するのか理解していない。
これは技術的な知識や経験の不足である。
変化に気づかなかった
馬手が離れの支度へ入ったことや、引分けが止まったことに、その場では気づかなかった。
これは注意や観察の問題かもしれない。
覚えていない
離れまでの出来事が速く、射後に順序を思い出せない。
これは記憶の問題である可能性がある。
原因が確定していない
何が起きたかは分かっても、それがなぜ起きたのか判断できない。
これは、証拠が不足している状態である。
誤った説明を採用している
「気合が足りなかった」
「精神力が弱かった」
「中て気が強かった」
という説明を、十分に確かめず原因としている。
これは観察した事実と推測を混同している可能性がある。
これらをすべて「痴」とまとめると、何を改善すればよいのかが見えなくなる。
自分の射が見えないのは珍しくない
射を行っている本人が、自分の全身を外から見ることはできない。
しかも早気では、目通りから離れまでが短時間で進む。
射手はその瞬間に、
狙い
弓力
身体感覚
中りや外れの予測
「離してはいけない」という命令
周囲からの評価
など、複数の対象に注意を向けていることがある。
すべてを同時に観察し、正確に記憶することは難しい。
したがって、自分の射が見えないことは、直ちに人格的な愚かさを示すものではない。
自分では引いているつもりでも、映像では目通りからほとんど動いていないことがある。
頬付けがついたと思っていても、実際には矢が頬へ触れる前に離れていることもある。
本人の感覚と、外から観察される動作が一致しないことはあり得る。
必要なのは、それを恥じることではなく、観察方法を増やすことである。
的中が射を見えにくくすることもある
中った射は、正しかったように感じやすい。
外れた射は、失敗したように感じやすい。
しかし、早く離れた矢が中ることもある。
反対に、目通り後の引分けが前の射より続き、頬付けに近づいた矢が外れることもある。
それにもかかわらず、「中ったから、この射でよい」「外れたから、今の試みは間違いだった」と判断すると、結果によって射の過程が見えなくなる。
的中は重要な結果である。
だが、一射の的中だけで、その射の過程や原因のすべてを評価することはできない。
的中を記録すると同時に、
どこまで引けたか。
頬付けは成立したか。
引分けは続いたか。
詰合いと伸合いへ進めたか。
という過程も分けて見る必要がある。
自己否定も正しい認識とは限らない
早気が出ると、「自分は駄目だ」「何年引いても直らない」「精神的に弱いから仕方がない」と思うことがある。
自分を厳しく評価しているため、現実を直視しているように感じるかもしれない。
しかし、自己否定と正確な観察は同じではない。
「自分は駄目だ」という言葉からは、
どこで引分けが止まったのか。
何が心の対象になっていたのか。
身体がいつ離れの支度へ入ったのか。
どの条件で反応が変わるのか。
という具体的な情報は得られない。
自分を責めることは、射を理解することの代わりにはならない。
否定的な説明もまた、事実を一つの言葉で覆い隠すことがある。
分からないのに原因を決める
人は原因が分からない状態を不快に感じる。
そのため、射後に早く説明を作りたくなる。
緊張したから。
欲が出たから。
会を持つ覚悟がなかったから。
今日は調子が悪かったから。
こうした説明が間違っているとは限らない。
しかし、観察した事実や比較材料がなければ、まだ仮説にすぎない。
仮説を事実として扱うと、次の射もその説明に従ってしまう。
「中て気が原因だ」と決めれば、中てたい心を消そうとする。
「我慢不足が原因だ」と決めれば、身体を固めて会の秒数を延ばそうとする。
「緊張が原因だ」と決めれば、緊張しないように自分を監視する。
原因の誤認は、対処の誤りにつながる。
だから、分からないことを急いで埋めない。
「現時点では原因が分からない」と認めることは、痴ではない。
むしろ、観察と推測を分けるために必要な態度である。
自分に都合のよい説明だけが痴ではない
痴を、「自分に都合のよい言い訳をすること」だけに限定するのも適切ではない。
人は自分を守るために原因を外へ求めることもあれば、必要以上に自分を責めることもある。
道具が悪かった。
指導が悪かった。
周囲が気になった。
自分の精神力が弱かった。
才能がない。
どちらの方向であっても、それが事実に基づいているとは限らない。
自己弁護も自己攻撃も、射の具体的な過程を見えにくくすることがある。
大切なのは、その説明が自分に都合よいか厳しいかではない。
何を観察し、どの根拠からその説明を導いたかである。
心の問題と射技の問題を混同しない
自分の射が分からなくなると、原因を心へ求めやすい。
しかし、実際には、
目通り後の引分けを継続する方法が定まっていない
矢を唇の高さまで下ろせていない
頬付けへ収まる経路が不安定である
馬手が狙いを探し始めている
左右の張り合いが途中で止まっている
特定の位置を離れの合図として反復している
という射技や運動習慣の問題かもしれない。
これらを「心が弱い」「無明に覆われている」と説明しても、射技は変わらない。
反対に、心の反応が強く関係している射を、技術だけで直そうとしても十分でない場合がある。
心、身体、射技、運動習慣、条件を分ける。
分けたうえで、どの関係を次の一本で確かめるかを考える。
見るための方法を増やす
自分の感覚だけで分からないなら、観察の手段を増やせばよい。
動画を撮る
指導者や稽古仲間の観察を聞く
会の秒数だけでなく、頬付けの成立を記録する
目通り後も引分けが続いたかを確認する
距離や矢を変えて反応を比較する
引き戻しを行い、どの位置まで自由に戻せるかを見る
一射ごとに事実と推測を分けて記録する
ここで注意したいのは、他人の言葉も絶対ではないということである。
指導者の説明も、動画から得た印象も、一つの情報である。
複数の観察を重ね、同じ条件で同じことが起きるかを確かめる。
一度の観察だけで原因を確定しない。
「見る」とは、強い確信を持つことではなく、確かめられる材料を増やすことである。
痴を点検するための問い
射後に「なぜ離れたのか分からない」と感じたときは、次のように問い直す。
私が実際に観察できた事実は何か
どこからが記憶で、どこからが推測なのか
技術を知らないのか、その場で気づかなかったのか、覚えていないのか
原因が分からないのに、急いで一つの説明を選んでいないか
中ったか外れたかによって、射の記憶を変えていないか
自己弁護や自己否定で、具体的な事実を覆っていないか
心の問題と射技・身体・運動習慣を混同していないか
他者の観察や動画と、自分の感覚は一致しているか
次の一本で確かめられる仮説は何か
これは、自分の中から痴を探し出して責めるための問いではない。
分かっていること、分からないこと、推測していることを分けるための問いである。
まとめ
痴・無明は、単に自分の射が分からないことではない。
技術を知らないこと、変化に気づかないこと、離れの瞬間を覚えていないこと、原因がまだ確定していないことも、それだけで痴とは言えない。
三毒早気論では、無明が対象を明らかに理解できなくする性質を手掛かりとして、「見えなくなる方向」を観察する。
ただし、これは弓道への応用的な表現であり、無明の正式な定義ではない。
「なぜ離れたか分からない」と認めることは、失敗ではない。
分からないものを分かったことにしないことで、観察を始められる。
射の事実と解釈を分ける。
心と身体、射技と運動習慣を分ける。
一射の結果だけで原因を決めず、動画、記録、他者の観察、条件の比較によって確かめる。
痴を点検するとは、自分を愚かだと裁くことではない。
何が見え、何が見えず、何を根拠なく決めているのかを、丁寧に分けることである。
