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【つの版】度量衡比較・貨幣271

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は伊勢国の続きで、北伊勢南部の河曲郡と奄芸郡です。

◆東◆

◆海◆


河曲郡域

 河曲かわわは鈴鹿郡の東、奄芸あんげ郡の北に位置し、北は内部川・鈴鹿川・鈴鹿川派川を挟んで三重郡と接し、東は伊勢湾に面しています。鈴鹿川の河口部が屈曲するあたりにあることからその名があり、東西・南北は各7kmほどしかありません。郡内には東海道や伊勢街道が通り、郡の南西部に中心地となる神戸かんべがあります。現在の鈴鹿市役所も神戸にあり、文字通りに行政・経済の中心地です。

北伊勢の河川

伊勢神戸氏と織田信孝

 南朝の正平22年(1367年)、伊勢平氏の末裔を称し鈴鹿郡・河曲郡を領した関盛政は領地を5人の子らに分与しましたが、長男の盛澄は河曲郡神戸郷を授かり神戸氏の祖となりました。3代為盛は伊勢国司北畠家から妻を迎えていましたが跡継ぎに恵まれず、北畠家から養嗣子の具盛を迎えて4代目とします。彼は天文年間(1532-55年)に神戸城を築いて拠点とし、三重郡の楠氏や赤堀氏にも娘を嫁がせて勢力を広げ、神戸氏は関氏や長野工藤氏に匹敵する北伊勢の有力国人として台頭しました。

 しかし関氏は近江の守護大名六角氏と手を結んで対抗したため、神戸氏7代目の当主具盛(友盛)は関氏・六角氏と友好関係を結び、六角氏の重臣・蒲生氏の娘を娶ります。のち織田信長に敗れて降伏し、信長の三男三七(信孝)を婿養子とさせられ、最終的に織田家に乗っ取られて滅びました。江戸時代に具盛の末子で近江高島氏へ養子に入っていた政房が神戸氏を再興し、その子良政は紀州徳川家に仕えて『勢州軍記』を著しています。

滝川雄利

 織田信孝が滅んだ後、神戸城は織田信雄の所領となり、重臣滝川三郎兵衛雄利が城主となります。信雄改易後も雄利は残って2万石余を領し、関ヶ原の戦いの後に改易されますが、2年後に常陸国片野2万石を授かり大名に復帰します。子の正利は生来病弱で政務に耐えず、所領の大部分を返上して旗本となり、婿養子の利貞が跡を継いで幕末まで家督を遺しました。

一柳直盛

 慶長6年(1601年)、徳川家康は一柳直盛を伊勢神戸城主に封じて5万石を授けました。一柳氏は美濃国厚見郡(現岐阜市)の豪族で、直盛は兄直末とともに秀吉に仕え、小田原征伐の時に兄が戦死すると家督を相続し、尾張国黒田城3万石(のち3万5000石)を授かりました。会津征伐の時に家康に従っていたため関ヶ原の戦いでは東軍に属し、下野国小山から急ぎ尾張に帰国、美濃攻めで功績を挙げています。神戸への国替えと加増はその褒美であり、所領5万石は神戸城主だった時の信孝と同じ石高です。

 直盛は信孝以来の城下町を拡張し、家康・秀忠・家光の三代に仕え、大坂の陣でも活躍しています。神戸宿は東海道ではなく伊勢街道の宿場ですが、領内には東海道が通り、元和2年(1616年)には四日市宿に続く石薬師宿、寛永元年(1624)には伊勢亀山藩との境に庄野宿が設置されました。寛永13年(1636年)直盛は加増を受けて伊予国西条藩6万8000石に国替えされますが、任地に赴く途中の大坂で73歳にして没し、伊予西条の遺領は3人の息子らに分割相続されています。また幕府は神戸藩領を幕府領とし、四日市陣屋の代官に統治させ、神戸城を破却しました。

石川三代

 15年後の慶安4年(1651年)、石川総長ふさながが父忠総の遺領のうち河曲郡・鈴鹿郡1万石を授かり、神戸藩が復活します。忠総は家康譜代の重臣大久保忠隣の子で、外祖父石川家成(数正の叔父)の養子となって家督を継ぎ、各地の藩主をつとめた後、晩年近江国膳所藩主となっていました。万治3年(1660年)総長は大坂定番に任じられ、河内国石川郡・古市郡内で1万石を授かり2万石となります。翌年総長が没すると子の総良が跡を継ぎ、24年間在位して、子の総茂が跡を継ぎました。

 総茂は藩主となった時15歳で、弟の大久保忠明に3000石を分与し、石高は1万7000石となりました。小藩主ながら有能篤実で長年善政を敷き、領民から大いに慕われ、幕府でも寺社奉行・若年寄と昇進を重ね、徳川綱吉以後5代の将軍に仕えています。しかし享保17年(1732年)3月、常陸国下館2万石への国替えを命じられ、領民の嘆願もあったものの神戸を去りました。

本多七代

 代わって神戸藩主となったのは本多忠統です。彼は家康の重臣本多康俊の玄孫にあたり、近江膳所藩の分家として河内・近江に1万石を食み、徳川吉宗が将軍になると大番頭・奏者番・寺社奉行を経て若年寄・勝手掛に任じられ、享保の改革を推進しました。伊勢へ国替えされると享保の大飢饉の救済や復興にあたり、延享2年(1745年)には5000石加増され、神戸城の再建を許可されています。彼は荻生徂徠の門人たる文人大名として知られ、また茶人でもありました。長男忠邦(康桓)と九男康政は宗家膳所藩を継ぎ、次男信胤は越前勝山藩小笠原家へ養子に出され、三男忠篤が世子とされましたが延享4年(1747年)に没したため、五男忠永が跡継ぎとなります。

 寛延3年(1750年)忠統は60歳で家督を忠永に譲り隠居しました。忠永は宝暦6年(1760年)36歳で隠居し、忠篤の長男忠興に家督を譲りますが、忠興は在位6年で没し、忠永の次男忠奝が養子となって跡を継ぎました。忠統は彼らを後見した後、天明4年(1784年)に剃髪して随翁と号し、以後は藩政に関わらず、和歌・俳諧・茶の湯に親しんで、94歳まで長生きしました。忠奝が享和3年(1803年)に没すると、膳所藩主本多康桓の孫の忠升が養子として跡を継ぎ、子の忠寛、その養子の忠貫まで7代140年続いて廃藩置県を迎えました。明治以後は旧小藩知事として子爵に列せられています。

本多忠統―康桓―忠薫―忠升―忠寛…忠貫
     忠篤―忠興
     忠永―忠奝

奄芸郡域

 奄芸郡は河曲郡と鈴鹿郡の南にあり、南は志登茂川を境として安濃郡に接しています。志登茂川・中ノ川流域とその間の丘陵地帯を含み、現在の鈴鹿市・津市・亀山市のそれぞれ一部に相当します。郡名は古くは「あんき」、のち「あんげ」と読み、語源は定かでありません。明治29年(1896年)河曲郡と合併されて河芸郡となり、昭和31年(1956年)安濃郡と合併されて安芸郡となり、最終的に津市と亀山市に吸収されて消滅しました。現津市濃町・河町に名残りがあります。

長野工藤氏

 鎌倉時代には長野工藤氏が安濃・奄芸両郡を治め、南北朝時代には北朝に与して南朝の北畠家と争い、安濃郡北部に分家の雲林院氏を置いて奄芸郡を任せました。しかし北伊勢を制した近江守護六角氏と伊勢国司北畠家の間で勢力を弱め、永禄元年(1558年)北畠家から長野工藤氏に養嗣子が入って家督を継承します。その10年後に織田信長が滝川一益らを遣わして北伊勢を制圧させると、長野工藤氏は信長に降り、信長の弟信包が一時養嗣子に入ってその領国を相続しました。

林城主:織田信重

 文禄3年(1594年)信包は改易されましたが、子の信重は奄芸郡林城(現津市芸濃町林)1万石を保ち、関ヶ原の戦い後も所領を安堵されます。信包は秀吉より丹波柏原に3万6000石を授かっていましたが、慶長19年(1614年)7月に72歳で没し、遺言により三男の信則が家督と柏原の所領を相続しました。信重はこれに異論を唱えますが、幕府により父の遺言に従うべしと裁定され、所領を没収されました。その後の信重については定かでありませんが、子孫は肥後熊本藩主の細川家に仕えたといいます。

上野城主:分部光嘉・光信

 また信包の家臣で奄芸郡上野城(現津市河芸町上野)の城主をつとめていた分部光嘉も、信包改易後に独立した領主として存続しました。関ヶ原の戦いでは前述のように東軍に属して奮戦し、戦後に2万石を授かっています。しかし光嘉は戦傷がもとで翌年逝去し、養嗣子の光信が跡を継ぎました。

 光信は長野工藤氏の一族である長野次右衛門正勝の子で、分部光嘉は母方の祖父にあたります。光嘉の子光勝は父に先立って逝去していたため、幼くして光嘉の養嗣子となり、11歳で家督を継ぎました。江戸幕府に仕える大名のひとりとして二条城・駿府城・大坂城・佐和山城・知恩院・延暦寺などの普請造営に携わり、大坂の陣でも活躍しますが、元和5年(1619年)8月に近江国高島郡・野洲郡内へ国替えされ、大溝藩2万石を授かりました。上野藩領は紀州藩と津藩に分割され、白子湊はこの時に紀州藩領となります。

白子湊

 郡の東部に白子しろこという港町があります(現鈴鹿市白子地区)。奈良時代に藤原不比等が聖武天皇の勅願を受けて観音寺を建立したとされ、平安時代後期には摂関家の藤原忠実の荘園「栗真荘」が同郡全域を覆っており、白子はその外港として栄えていました。もとの名は古市といい、白子とはこの地を治めた伊勢平氏の水軍「白児党」にちなむともいいます。

 紀州藩は白子湊を重視し、紀州侯別邸や白子代官所などを置き、白子から出港する千石船には紀州徳川家の旗印を掲げて江戸に入港することを許しました。このため各地から商人が集まって物流の拠点とし、伊勢・尾張・三河の木綿輸送を確保統制するため江戸で大伝馬町組と白子組を結成、積荷問屋や廻船問屋を支配しました。白子湊は遠浅であまり良港ではありませんでしたが、紀州藩や伊勢商人の財力で整備・維持され、伊勢参宮街道の宿場町としても機能しています。天明2年(1782年)江戸へ向けて白子から出港した大黒屋光太夫の船は嵐に巻き込まれ、ロシア領アリューシャン列島まで流されました。伊勢商人については、また記事を改めて特集しましょう。

◆大◆

◆黒◆

【続く】

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