【つの版】度量衡比較・貨幣204
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は伊豆編の続きです。

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伊豆水軍
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、これに乗じて越後の長尾景虎(上杉謙信)が関東管領上杉氏を奉じ、南下を開始します。長尾・上杉軍は関東の諸将を集めて大軍となり、北条軍を打ち破って小田原城を包囲します。幸い堅牢無比な小田原城は陥落せず、武田信玄の軍事介入もあって長尾/上杉勢は引き上げますが、北条氏の領国にもたらされた混乱は大きく、駿河今川氏への救援どころではなくなります。
やがて駿府から小田原へ戻った氏規は、永禄10年(1567年)に23歳で相模国三浦郡の三崎城主となり、三浦衆を指揮下に置いてその水軍を統括し、房総方面に対する軍事行動を担当するようになります。しかし武田信玄は今川氏・北条氏との同盟を破棄し、今川家中に調略を行った後、翌年末に駿河侵攻を開始しました。今川氏真は遠江掛川へ逃げ、信玄はたちまち駿府を掌握します。これに対し北条氏政は駿河東部および伊豆へ出兵し、三島に陣を敷いて武田勢を威圧しました。氏規は伊豆韮山城に派遣され、駿府で交友関係のあった今川勢や徳川家康との交渉も担っています。
永禄12年(1569年)氏政と家康の和睦が成立し、氏真は小田原城へ引き取られ、氏政の嫡男・国王丸(氏直)に家督を譲って隠居させられます。信玄は駿河制圧のために北条軍と戦い、元亀元年(1570年)8月には韮山城にも攻め寄せますが、氏規に撃退されます。翌年氏康が没すると氏政は信玄と和睦し、駿河の大部分は武田勢に掌握されました。氏規は韮山城を離れて三浦に戻り、安房里見氏の平定に尽力しています。
この頃に武田信玄が没し、北条氏は武田勝頼と同盟を続けますが、天正6年(1578年)上杉謙信が没すると破綻します。信玄の駿河侵攻の際、氏政は信玄を牽制するため謙信と同盟し、弟の三郎を人質に送りましたが、彼は謙信に気に入られて養子とされ、上杉景虎と名乗りました。ところが謙信と同じ長尾氏出身の上杉景勝はこれと対立し、北信濃の上杉領割譲を条件として武田勝頼に支援を要請します。勝頼はこれに応じ、追い詰められた景虎は自害に追い込まれたのです。北条氏と武田氏の関係は緊張し、氏規は再び韮山城主となって防衛にあたりました。
内陸の甲斐・信濃を拠点とする武田軍ですが、駿河を掌握したことで今川氏の水軍も接収しており、駿河湾を渡って伊豆を攻撃し始めます。これに対して北条氏は伊豆北西部の長浜城(現沼津市内浦長浜)と獅子浜城(現沼津市獅子浜)を整備し、紀州熊野から招いた海賊・梶原景宗らに伊豆水軍を率いさせます。彼らは巨大な戦艦「安宅船」10隻に大砲を積み、駿河湾を舞台として武田水軍と海戦を行っています。また湯河原・熱海・伊東・下田などにも水軍の港が置かれ、三浦・小田原と伊豆を繋ぎました。伊豆は山が海に迫り農地に乏しいため、古くから海船を用いた漁業や交易が盛んであり、房総半島から熊野・土佐・日向に至る広大な海域で活動していたのです。
信長の甲州征伐および天正壬午の乱の際は氏規も伊豆から駿河へ出兵し、家康の軍と衝突しますが、和睦して撤退しました。その後は三崎城や小田原城にとどまりつつ上野国館林城主を兼ね(家臣を城代とする)、氏政の代理として家康や秀吉との交渉にあたります。天正18年(1590年)の秀吉の侵攻に対してはまたも韮山城主として最前線を守り、4か月の間寡兵をもってよく守りましたが、家康と黒田官兵衛の説得で降伏しました。戦後は秀吉に許されて河内国狭山城主となり、子孫は狭山藩主(1万石)として明治維新まで存続しています。
韮山代官
北条氏が滅亡した後、その領国は秀吉によって全て徳川家康に授けられ、家康は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5か国から関八州に転封されます。この時、北条氏の領国であった伊豆も家康の所領となり、家康の異母弟にあたる重臣の内藤信成が韮山城主として1万石を授かりました。ただし太閤検地による伊豆国の石高は7万石ですから、残りは家康の直轄地とされ、これを治める三島代官には関東代官頭の伊奈忠次が任じられています。
しかし伊奈忠次は関東全域の家康領も管轄していて忙しく、慶長元年(1596年)には韮山に伊豆代官が設置され、江川英長が任命されています。江川氏は鎌倉時代から続く韮山の在地武家で、戦国時代には後北条氏に仕えるとともに酒造業を営み、諸大名や京都への贈答品として珍重されました。小田原征伐の時に江川英長は家康に投降し、韮山城に籠った父の英吉の説得にあたり、戦後はともに旧領を安堵されて伊豆代官に任じられています。当初の所領は5000石未満でした。関ヶ原の戦いの後、内藤信成は駿府4万石に加増転封され、伊豆一国は三島代官らが管轄する幕府直轄領となります。
また大坂の陣の後の元和2年(1616年)には、伊豆南部に下田奉行が設置されます。これは伊豆下田港の警備や海上を往来する船舶と積荷の検査を職掌とし、老中支配下にあって役高は1000石、役料は1000俵とされました。上方(畿内)から伊勢を出て江戸へ向かう船舶はこの下田を寄港地としていたため責任は重大です。のち奥羽の米を江戸へ運ぶ東廻海運が開かれると、下田はその寄港地のひとつともなりました。享保5年(1720年)末には下田から相州浦賀に代官所が移転し浦賀奉行となりますが、下田港の重要性は変わらず、幕末には下田奉行が再設置されています。
享保8年(1723年)、伊豆代官の江川英勝は不正により罷免され、その管轄地は勘定奉行の支配下に置かれます。しかし寛延3年(1750年)には英彰が代官職に復帰し、次の英征の時の宝暦9年(1759年)に三島代官所を吸収合併し、伊豆の幕府領を一円支配する代官となります。さらに甲斐・駿河・相模・武蔵の幕府領の一部も管轄することとなり、各地に陣屋(出先機関)が置かれました。幕末の韮山代官・江川英龍(坦庵)は民政や軍備、殖産興業に力を尽くした開明的な人物で、領民から敬慕されています。
伊豆金山
火山の多い伊豆半島には多数の鉱脈があり、戦国時代後期から江戸時代初期にかけては金山が栄えました。1370‐80年頃に室町幕府の金山奉行が伊豆西部の土肥(現伊豆市土肥)を支配し、盛んに金を堀ったのが始まりと伝えられますが、天正5年(1577年)に北条氏の家臣である富永政直の手代・市川喜三郎が、土肥金山で本格的な採掘を開始したとされます。
小田原征伐後に徳川家康が伊豆を領国とすると積極的な採掘が行われ、慶長6年(1601年)には彦坂元正、慶長11年(1606年)には大久保長安が金山奉行に任じられます。長安は佐渡金山の技術を導入して採掘量を飛躍的に伸ばし、莫大な富をもたらしました。慶長18年(1613年)に長安は病没し、市川助右衛門が伊豆金山奉行を継ぎますが、元和6年(1620年)に市川が病没すると衰退し、寛永2年(1625年)休山となります。貞享2年(1685年)に再び開坑したものの、元禄年間(1688-1704年)には採掘が停止しました。明治から昭和にかけては近代技術が導入されて再び栄えています。
伊豆の名産のひとつが、火山岩由来の「伊豆石」です。堅く緻密な安山岩と、柔らかく加工しやすい凝灰岩の二種類があり、後者は古墳時代から利用され、伊豆の外へも輸出されています。中世にも伊豆の石材は盛んに輸出されており、江戸城や駿府城にも用いられました。明治時代には伊豆の凝灰岩が西洋風建築に利用され最盛期を迎えますが、コンクリートの普及によって需要が減少し、現在は採掘されていません。
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【続く】
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