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【つの版】度量衡比較・貨幣250

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は近江国の続きです。

滋賀県

◆井◆

◆伊◆


戦後処理

 関ヶ原の戦いの後、徳川家康は近江の旧勢力を再編します。朽木元綱は高島郡における蔵入地の代官職を召し上げられますが、本領の9500石は安堵されました。また近江国小河(現東近江市小川町)に7000石を領していた佐久間安政は高島郡8000石を加増されて大名に列します(近江高島藩)。彼は柴田勝家に仕えた佐久間盛政の弟で、勝家が敗死すると紀州や関東へ逃れて秀吉と戦い続け、のち秀吉に許されて蒲生氏郷に仕えました。氏郷没後は秀吉に仕えましたが、秀吉没後は家康に仕えて東軍に属しています。

 大津城主の京極高次は、戦後家康より功績を讃えられ、若狭国小浜城8万2000石に加増転封されます。代わって大津城主とされたのは家康譜代の家臣戸田一西かずあきです。しかし家康は大津の南の膳所ぜぜ(現大津市本丸町)に新たな城(膳所城)を築かせて彼を移し、大津城を破却させて直轄地とし大津奉行を置きました。これより廃藩置県まで存続する膳所藩の始まりです。縄張りは藤堂高虎が行い、家康が諸大名に号令をかける「天下普請」によって急ピッチで築城されました。

 膳所とはこの地で漁獲された魚介類を朝廷の食膳に供給したことからの地名で、東は琵琶湖に面し、南は瀬田の唐橋、西は逢坂関、北西は園城寺や大津に通じる要衝です。大津ともども古くから物資の集積地で、信長や秀吉もここを抑えました。家康は駿河、秀忠は江戸にいて東国を抑えているのですから、毛利輝元を防長2国に大減封して封じ込めたとはいえ、またぞろ畿内や西国の大名が秀頼を担いで挙兵すれば大変です。しかし膳所藩は3万石しかなく、畿内や西国の大名たちを抑えるには格が足りません。

 石田三成の居城であった佐和山城には、同じく家康の譜代の家臣井伊直政が入ります。彼は遠州井伊谷の出身で桶狭間の戦いの翌年に生まれ、家康に従って数々の戦いで活躍しました。関ヶ原の戦いでは撤退する島津軍を追撃し、鉄砲による反撃で脚を負傷しますが、毛利輝元との和平交渉など戦後処理をつとめあげ、畿内近国と西国への抑えとして近江東部に15万石を授かったのです(佐和山藩、上野国安中3万石を併せて18万石)。直政は居城を移そうと計画しますが、傷が癒えぬまま慶長7年(1602年)2月に没し、子の万千代が12歳で跡を継ぎました。

井伊直継

 万千代は元服して直継なおつぐと名乗り、若年ゆえ家老の木俣守勝鈴木重好が輔佐をつとめます。彼らは家康と相談し、慶長8年(1603年)より佐和山城から2km西の彦根山に新たな城を築くことになります。すなわち彦根城です。

 築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張・越前など7国12大名が手伝いを命じられ、慶長11年(1606年)に天守が完成して直継が入城します。佐和山城ほか近江国内に残っていた他の多くの城は破却され、彦根城の用材とされました。城は三重の堀に囲まれており、芹川を南に移してその北に城下町が築かれ、佐和山城跡を隔てて東に東山道(中山道)が通り、鳥居本宿が置かれます。さらに南には多賀大社・高宮宿・犬上川があり、西には琵琶湖、東には鈴鹿山脈が迫り、天然の関所をなしています。天下普請により膳所城に加えて彦根城を築いたことで、家康は近江の物流を制し、京都の朝廷や大坂城の豊臣秀頼、西国の諸大名に対して睨みを利かせることとなりました。これより廃藩置県まで続く井伊家彦根藩の始まりです。

 慶長10年(1605年)、病気がちの木俣守勝に代わって鈴木重好と子の重辰が政務を担うようになると、同輩の椋原正直・西郷重員らは鈴木父子が不正を行っている旨を家康に訴えました。家康は表向きには訴えを取り上げませんでしたが、家中の混乱を穏便に鎮めるため重好を隠居させ、家督を重辰に譲らせた上で所領のある上野国に帰らせ、椋原・西郷らと重辰らに和解の起請文を書かせて事態を収束させています。

 慶長15年(1610年)に木俣守勝が病没すると、家督は養嗣子守安が相続しますが、家老には鈴木重辰と椋原正直が任じられます。守安と重辰はほぼ同年であるため、これは井伊家中の対立を収めるための家康の意向でした。また家中をまとめ切れない直継の器量を危ぶみ、慶長19年(1614年)からの大坂の陣においては直継を江戸に留め置いて安中の関所の警備を命じ、直継の弟で伏見城番役の直孝なおたかを井伊家の大将に任じています。

井伊直孝

 直孝は直継の異母弟にあたり、生まれた年も月も同じでした。直継の母は家康の養女で、実父は三河松平氏の宗家であった松平康親(松井忠次)ですが、直孝の母は彼女の侍女であったため、幼少時は安中の北野寺で養育されました。父直政と対面したのは11歳の時で、翌年父が没すると江戸にあって秀忠に仕え、慶長15年(1610年)には上野国白井に1万石を賜り大番頭に任じられています。

 直孝は大坂冬の陣で手柄を立てようと先走り、真田信繁(幸村)に迎撃されて大きな被害を出しますが、家康と秀忠は彼をかばい、正式に井伊家の家督を継がせました。直継は上野安中3万石を分知されて直勝と改名し、井伊谷以来の家臣団を授けられ、直孝は近江彦根15万石および甲斐武田氏の遺臣などを授かります。井伊直政は武田の遺臣を「赤備え」という精鋭として率いており、直孝にさらに武功を立てさせたいとの思惑からでしょう。果たして翌年の大坂夏の陣で直孝率いる井伊家は大きな手柄を立て、戦後は5万石を加増されています。家康没後の元和3年(1617年)に再び5万石を加増され25万石となりました。以後は直孝の子孫が藩主となったため、彦根藩では初代藩主を直孝としており、直継/直勝は藩主としてカウントされていません。

 寛永9年(1632年)正月、52歳の大御所・徳川秀忠は臨終に際して井伊直孝と松平忠明(大和国郡山藩主、家康の外孫)を枕元に呼び、将軍家光の後見役(大政参与/執事職)に任じて老中と幕政を協議するよう遺言しました。家光は元和9年(1623年)に征夷大将軍宣下を受け、この時すでに28歳でしたが世継ぎがおらず、大御所との二元政治ができなくなったことによる混乱を収めるため、このような措置をとったものと思われます。要は大御所の代わりで、直孝は43歳、忠明は50歳と年齢に不足もありません。

 翌寛永10年(1633年)に直孝は5万石を加増されて30万石となり、さらに幕府領の城付米預かりとして5万俵(5万石)を付与され、35万石の格式を持つ大大名となりました。これは譜代大名として最高位です。寛永13年(1636年)以後の朝鮮通信使の応接では幕閣筆頭として対応し、正保2年(1645年)4月に家光の嫡男家綱が数え5歳で元服する時は加冠役(烏帽子親)をつとめ、宮参りの帰りには井伊邸に迎え入れています。これらと日光東照宮へ将軍名代として参詣する御用は、以降先例として井伊家御用となりました。

 松平忠明は寛永21年(1644年)3月に没し、井伊直孝と堀田正盛が大政参与をつとめましたが、正盛は後の大老に通じる「元老」として政務を司り、「執事職」の直孝は儀式や祭礼も司っています。慶安4年(1651年)4月に家光が没すると正盛は殉死し、家光の異母弟である保科正之が執事職/大政参与に任じられ、家光の子家綱を直孝とともに輔佐しました。正之は40歳、直孝は還暦過ぎですから、大政参与もそろそろ世代交代になります。そして直孝の晩年は次の世代、跡継ぎを巡っての騒動に悩まされました。

 直孝の嫡男直滋なおしげは江戸城下で何不自由なく育ち、秀忠や家光の寵愛を受けたため驕慢で、直勝の娘を娶ったせいか父と対立することが多い人物でした。万治元年(1658年)直滋は突如出奔して近江国百済寺に遁世し、廃嫡されます。次男・三男は早世していたため四男直縄なおつなが世継ぎとなりますが、彼も同年没し、翌万治2年(1659年)4月に末子直澄なおすみが跡継ぎと定められます。ただ直縄には幼い男子がいたため、直孝は直澄に彼を養子として跡を継がせよと遺言し、同年6月に70歳で世を去りました。直滋は2年後の寛文元年(1661年)に50歳で没し、直勝は子の直好に家督を譲った後、寛文2年(1662年)に73歳で世を去っています。

井伊直政―直継/直勝
     直孝―直滋
        直縄
        直澄

 直孝が葬られたのは、江戸世田谷の曹洞宗の寺院・豪徳寺です。この地は応永年間(1394-1426年)より領主吉良氏の居館があり、のち世田谷城として整備されますが、小田原征伐の後に廃城とされ、吉良氏が城内に祀っていた弘徳院という庵が残されました。その後は荒廃していましたが、寛永10年(1633年)に井伊直孝により江戸における菩提寺として再建されたのです(彦根には清涼寺、遠州井伊谷には龍潭寺)。豪徳寺の名は直孝の戒名にちなみ、それまでは弘徳院と呼ばれていました。

 伝説によると、直孝はこのあたりに所領を持っており、ある日の鷹狩りの帰りに弘徳院の前を通りかかりました。すると住職の飼い猫が門の前で手招きするような仕草をしていたため、直孝らは寺に立ち寄り休息します。すると一転にわかにかき曇り雷雨が降って来たため、喜んだ直孝はこの寺に多額の寄進をして菩提寺と定めたといいます。猫は気圧や湿度の変化をヒゲで敏感に感じ取り、雨が近づくと毛づくろいを始めることが多いので、この伝説はそれに由来するのでしょう。いわゆる「招き猫」の発祥については諸説ありますが、豪徳寺の招き猫伝説はその有力なひとつで、彦根市のマスコットキャラクター「ひこにゃん」のモチーフともなっています。

井伊直澄

 34歳で家督を継いだ直澄は、父の遺言通り正室を迎えず、兄直縄の子吉十郎を養嗣子としました。彼は寛文8年(1668年)43歳で大政参与となり、翌年保科正之が隠居したため、延宝4年(1676年)52歳で没するまでは酒井忠清(大老/元老)とともに大政参与(執事職/大老)をつとめました。

 直澄は穏和で機知に富み、その聡明さを示す逸話がいくつか伝わっています。将軍家綱の茶会に徳川光圀とともに出席した際、不慣れな家綱は分量を見誤り、一人で飲みきれないほどの茶を光圀に出してしまいました。直澄はそれを見て「上様のお点てになった御茶を頂く機会は滅多にござらぬ。お飲み残しがあれば是非拙者に」と申し出て、その場を収めたといいます。

 また、江戸で浪人が大名屋敷の門前で「切腹するから玄関先をお借り願いたい」と脅して仕官の口や金品をねだる事件が多発した際、直澄は平然と奥に招き入れて食事をさせ、彼の願い通りに切腹させました。これを聞いた浪人たちは大名屋敷に脅しをかけるのをやめ、騒動は鎮まったといいます。昭和33年(1958年)に作家の滝口康彦がこれを題材として短編小説『異聞浪人記』を著し、のちに映画化されていますが、時代は直澄の父直孝の頃に変更され、この事件の後に別の浪人が井伊家を訪ねる筋書きとなっています。

 直澄が大政参与となった寛文8年(1668年)3月、下野国宇都宮藩主奥平家の法要の席で重臣同士の刃傷事件が起きます。法要に遅刻した奥平内蔵允が奥平隼人に罵倒されて口論となったためで、内蔵允は刀を抜いて斬りつけますが迎撃されて倒れ、恥辱のあまりその夜に切腹しました。家中では喧嘩両成敗として隼人も切腹すべきだと議論が巻き起こりますが、半年後に隼人は改易のうえ追放、内蔵允の子の源八らも家禄没収のうえ追放と決まります。

 家中には不公平だと源八への同情論が高まり、40数名もの藩士が自ら浪人となり、4年後に隼人を襲撃して討ち取りました。彼らは自害せずに出頭して幕府に裁きを求めたため、直澄は源八に死一等を免じて伊豆大島への流罪としました。6年後に源八が恩赦されると、直孝は仇討を行った浪人ともども井伊家に召し抱えています。30年後に赤穂浪士が吉良邸に討ち入りを行った際にこれを参考にしましたが、彼らは許されず切腹を命じられています。

◆彦◆

◆根◆

【続く】

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