【つの版】度量衡比較・貨幣277
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は伊勢国の続きで、伊勢神宮です。


◆神◆
◆宮◆
多気度会
伊勢国南部の多気郡は、北東は伊勢湾に面し、北は祓川・櫛田川を境として飯野郡と飯高郡に接し、南西は大和国および紀伊国(古くは志摩国英虞郡)との分水嶺を境とし、南は宮川、東は外城田川・大堀川などを境として度会郡と接しています。古くは竹郡と呼ばれ、天智天皇3年(664年)までは飯野郡域も含んでいました。郡内に中央構造線が走り、飯高郡と同じく古くから辰砂(丹、水銀)を産出し、その採掘・加工・流通を抑えて繁栄しました。「たけ」とは「食物(け)が多い」ことに由来するといいますが、多をタと読むのは漢音です。
度会郡は、北は伊勢湾と多気郡に面し、東は志摩国に接し、南は海、南西は紀伊国に接しています。ただし現在の南伊勢町と大紀町錦は古くは志摩国英虞郡に属しており、天正10年(1582年)に英虞郡は解体され、伊勢国度会郡と紀伊国牟婁郡に編入されました。
多気郡・度会郡を囲む分水嶺の中を流れるのが宮川です。中央構造線の南の大台ヶ原を水源地とし、峻険な大杉谷を通って北東へ向かい、大内山川などの支流を合わせながら曲がりくねり、伊勢外宮の西を通り、河口の大湊で伊勢湾に注いでいます。杉などの木材を伊勢神宮と外港へ運ぶ重要な河川ですが、上流部は大雨が降るため毎年のように洪水が起き、明治時代まで下流部には恒久的な橋が架けられていませんでした。この宮川を渡ったところに伊勢神宮があることから、川を渡り神に会う=度会の地名が生じています。
伊勢内宮
伊勢神宮は三種の神器のひとつ八咫鏡を祀り、皇祖神たる天照大神を祭神とする皇室の宗廟です。『日本書紀』によれば天孫降臨の時、天照大神は八咫鏡を自らの形代として天孫・瓊瓊杵尊に授け、地上で斎き祀らせました。神武東征の時これがヤマトに持ち込まれ、宮中で祀られていましたが、崇神天皇5年に疫病が流行したので、託宣によって宮中の外で祀ることとなり、翌年笠縫邑(現奈良県磯城郡田原本町か)に遷されます。この時に鏡を奉斎したのが崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命で、彼女は魏志倭人伝に登場する臺與(台与)の可能性があります。
崇神天皇が崩御して垂仁天皇が即位した後、鏡の祭祀は皇女倭姫命に託され、託宣によって各地を放浪することとなりました。はじめ菟田の篠幡(現宇陀市榛原山之辺の篠畑神社か)に遷り、伊賀から近江に入って美濃を巡り、南下して伊勢に至ったといいます。この地で天照大神は「この神風の伊勢の国は、常世の浪が重なって寄せ、辺境ではあるが美しい国であるから、ここに居ようと思う」と託宣し、垂仁天皇25年3月に鎮座することとなりました。他にも各地に「元伊勢」と呼ばれる滞在場所が伝承されています。
実際に伊勢神宮が創建されたのはもっと遅く、天照大神を祭神としたのは7世紀後半とも考えられ、独身の皇女を伊勢神宮へ送り奉斎させる「斎宮」の制度が確立したのも天武朝からとされています。考古学的調査では5世紀後半から6世紀にかけて伊勢神宮地域に祭祀遺跡が現れ始めるものの、ヤマト王権との繋がりは7世紀頃までは希薄で、それまでは土着勢力の祭祀場だったのでしょう。天照大神が皇祖神とされたのは新しく、7世紀前半の『隋書』倭国伝には「倭王は天を兄とし日を弟とする」とあります。
八咫鏡を祀る本宮を皇大神宮といいます。度会郡南部の神路山を源とする五十鈴川が北の平地に出かかるあたりに建てられ、周囲には宇治という門前町が形成されました。五十鈴川は北東へ流れて伊勢湾近くで勢田川と合流し大湊の東側で海に注いでいます。
豊受大神
皇大神宮は「内宮」とも呼ばれますが、これは北西の豊受大神宮を伊勢の「外宮」と称したことによるものです。外宮の創立経緯に関しては『日本書紀』にも『古事記』にも記録がなく、延暦23年(804年)に編纂された『止由気宮儀式帳』によれば雄略天皇22年7月に天照大神が天皇に託宣を下したことによるといいます。祭神は等由気大神(豊受大神)といい、丹波国の比沼真奈井(現京都府京丹後市峰山町の比沼麻奈為神社)に降臨して鎮座していましたが、天照大神は彼女を「御饌都神」すなわち御食事の世話をする神として自分の近くに遷すよう命じたのです。
この神の名は『日本書紀』には見えませんが、『古事記』には豊宇気毘売神として見え、和久産巣日神の子とされています。和久産巣日神はイザナミが火神カグツチを産んで大火傷を負った際、イザナミの尿から彌都波能売神(水の女神)とともに生まれたといいます。『日本書紀』一書では稚産霊と表記し、イザナミの糞便から生じた土の女神埴山姫とカグツチの子とされ、頭から桑と蚕が、臍から五穀(食物)が生じたとされます。これは『古事記』のオオゲツヒメ、『日本書紀』一書のウケモチに相当し、ケ・ウケはともに食物を意味しています。土と火から生じたというのは焼畑によって大地から豊かに食物が生じるさまをいうのでしょう。
『古事記』の天孫降臨の段では「登由宇気神」が天孫降臨に随行する神々の一柱として現れ、「外宮の度相(度会)の神なり」と記されています。であれば日向へ天下ったはずですが、『丹後国風土記』には丹波郡比治山の真奈井で8人の天女が水浴していた時、老夫婦に羽衣を盗まれた1人の天女がしばらくその家にとどまって富を授けたとの伝説があり、その名を豊宇賀能売命と言ったとあります。一度高天原に戻ったのでしょうか。
雄略天皇は『日本書紀』によれば23年在位したとされますから、在位22年目は最晩年で、西暦478年にあたります。伊勢と伊賀に勢力を張っていた豪族の朝日郎が討伐されたのが雄略天皇18年(474年)8月なので、その後に外宮が創建されたとすれば年代的に辻褄は合います。とはいえ『日本書紀』や『古事記』に記録がない以上は後付けでしょう。
神宮祭祀
天武天皇と持統天皇は律令制度の整備を進め、伊勢神宮もこの時代に皇祖神を祀る宗廟として位置づけられました。初代の斎宮は天武天皇の娘大伯皇女とされ、内宮・外宮の式年遷宮も持統天皇の時に始まっています。現在の社殿の形式や祭祀の諸制度もこの頃に整備され、国家祭祀の場ゆえ天皇以外が神宮に私的に奉幣することは禁止されました。
伊勢神宮の経済基盤は国家が保証し、大和・伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江の7か国に1130戸からなる「神戸」が置かれて神宮への租税を負担するとされ、36町1反の「神田」からの収穫が御饌として献上されました。各地に残る「元伊勢」の伝説は、伊勢神宮の神戸・神田の起源として各地の神社を神宮に結び付けるために生じたものでしょう。また伊勢国のうち度会・多気の両郡は「神郡」とされ、租庸調は伊勢神宮に納められました。この神郡の範囲は平安時代に拡大され、最終的に伊勢12郡のうち8郡までもが神郡となっています。これらの収入をもってしても不足であれば、朝廷が不足分を負担すると規定されています。
神職は内宮・外宮・別宮あわせて86名で、内宮では中臣氏の同族とされる荒木田氏、外宮では伊勢国造の末裔とされる度会氏が禰宜をつとめ、これらの他に馬飼丁18名、神服織50名、神麻積50名が奉仕しました。中央からも大宮司・少宮司・祭主が派遣され、中臣氏が任じられています。
かくも手厚く朝廷から庇護されたのは、伊勢が東国経営の要であるからに他なりません。河内国は瀬戸内海に面していて海路で四国・山陽・九州へ通じ、山城国は琵琶湖が近く北陸・山陰・東山道に通じていますが、東海道を抑えるには海路の要となる伊勢を掌握するのが一番です。安濃津なども伊勢湾に面していますが、天武・持統朝の都が置かれた倭京(飛鳥)からは吉野を経て中央構造線沿いに東に進めば伊勢神宮に着きますし、その間にある丹(辰砂・水銀)の産地も朝廷が抑えることができます。宮川河口の大湊は伊勢湾南部にあって志摩や三河に近く、岸や島伝いに航行すれば伊豆や相模・房総を経て陸奥まで航路が通じています。
かくて大湊は物資の集積地として賑わい、内宮の門前町の宇治、外宮の門前町の山田も繁盛します。人と物が集まるところには情報も集まり、伊勢神宮は全国各地を繋ぐ商業の拠点として繁栄することとなるのです。
◆神◆
◆宮◆
【続く】
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