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【つの版】度量衡比較・貨幣269

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は伊勢国の続きで、三重郡です。

三重県

◆東◆

◆海◆


三重郡域

 三重郡は、北は海蔵川を境として朝明郡と接し、東は伊勢湾に面し、南は内部うつべ・鈴鹿川派かわまた川を境として河曲郡・鈴鹿郡に接し、西は鈴鹿山脈に及び、三重郡菰野こもの町南部と四日市市の大部分に相当します。いま海蔵川以北の朝日町・川越町や菰野町北部をも三重郡とするのは、明治29年(1896年)に朝明郡が三重郡と合併して消滅したためです。南部には三滝川天白川等が東へ流れ、伊勢湾に注いでいます。『古事記』ではヤマトタケルがこの地を通った時にくたびれ果て、「私の足は三重に曲がったようだ」と嘆いたことから三重と名付けられたといいますが、本来は河川が多く海に接していることから「水辺」の意味だともいいます。

北伊勢の河川

 南北朝時代には南朝方の千種氏が朝明郡・三重郡を支配し、三重郡に禅林寺城・千種城を築いて拠点としています。また三滝川を遡った鈴鹿山中の国見岳には天台宗山門派の三嶽寺があり、数百の僧兵を率いて割拠していました。織田信長の家臣滝川一益によって北伊勢が制圧されると、禅林寺・三嶽寺などは焼き討ちを受けて壊滅します。一益は北伊勢を信長より授かり、三重郡の代官として家臣の南川治郎左衛門を派遣し、三滝川の南の菰野に代官所が設置されました。これが菰野城です。

菰野藩主

土方雄久

 天正11年(1583年)滝川一益が羽柴秀吉・織田信雄に敗れて没落すると、信雄は一益の旧領である北伊勢を領有し、家臣の土方雄久かつひさを菰野城主として三重郡を治めさせました。土方氏は清和源氏のうち大和源氏の宇野七郎親治の後裔を名乗り、大和国土方村(所在地は不明)を本貫とし、雄久の父彦三郎信治の時に織田信長に仕えました。弘治2年(1556年)信長が舅の斎藤道三を支援すべく美濃へ侵攻した際、道三を討った子の利尚(范可/義龍)に迎撃され撤退しましたが、土方彦三郎はこの時に討死しました。

 信治の子は時に数え4歳で、長じると父と同じく彦三郎を名乗りました。永禄12年(1569年)信長が南伊勢の北畠家と和睦し、次男の茶筅丸を北畠家の養嗣子とした際、17歳の彦三郎は茶筅丸の家臣として伊勢に派遣されたようです。茶筅丸は4年後に元服して北畠三介具豊と名乗り、その2年後に家督を継承して信意と改名し、天正8年(1580年)に信勝、天正10年(1582年)信雄と改めますが、この時に土方彦三郎は偏諱を賜って雄良、次いで雄久と名乗り、仮名もいつからか勘兵衛と改めています(もとの諱は不明)。

 雄久は信雄の側近として数々の戦いで功績をあげており、小牧・長久手の戦いの後、天正15年(1587年)には尾張北部の犬山城主に封じられて4万5000石を授かりました。信雄が改易されると秀吉に仕え、越中国新川郡野々市1万石(のち加増され2万4000石)を授かります。

土方雄氏

 長男雄氏かつうじは秀吉の子秀頼の側近として文禄3年(1594年)伊勢国内に3000石を賜り、慶長元年(1596年)14歳にして父の旧領である菰野に封じられ1万石を授かりました。しかし慶長4年(1599年)雄久は「前田利長(利家の子)らと家康暗殺を画策した」として雄氏ともども改易され、常陸国の大名佐竹義宣に預けられました。翌慶長5年(1600年)毛利輝元・石田三成らが挙兵すると、会津征伐の途上だった家康は下野国小山に雄久を呼び出し、前田利長を東軍に勧誘する使者として派遣しています。

 この功績により、関ヶ原の戦いの後に雄久・雄氏は罪を赦されて旧領に復帰し、雄氏には近江国栗太郡内に2000石が加増されて1万2000石となりました。のち雄久の所領は能登に移され、下総国多古に5000石を加増されて陣屋を移し、秀忠の御伽衆として晩年を過ごしました。慶長13年(1608年)雄久は56歳で没し、嫡男雄氏が家督を相続しますが、すでに菰野藩主であるため父の所領は弟で嫡子の雄重が相続しました。雄重の子孫はのち奥州菊多郡窪田に国替えの後改易され、家系は旗本として存続しています。雄氏は大坂の陣で先鋒として活躍しますが加増はされず、寛永12年(1635年)子の雄高かつたかに家督を譲り、3年後に56歳で逝去しました。

土方雄高・雄豊・豊義・雄房・雄端

 雄高は母が織田信雄の娘で、家督を相続した時は24歳でした。彼は菰野陣屋と城下町を整備し、商工業者を招いて新たな町に住まわせ、諸法を制定して藩政の基礎を固めました。また土方家の菩提寺として見性寺を建立し、朝鮮通信使の饗応役をつとめるなど幕府の仕事もつとめています。

 慶安4年(1651年)、雄高は40歳で没し、弟氏久の三男で娘婿の雄豊が養嗣子として跡を継ぎます。彼は53年間藩主の座にあり、宝永2年(1705年)に68歳で没しました。長男豊高は父に先立って没していたため、孫の豊義が跡を継ぎ、叔父久長が1000石を分与されて後見人となります。豊義は在位14年にして31歳で没し、子の彦五郎(雄房)が9歳で跡を継ぎ、引き続き久長が後見しました。雄房は在位31年にして寛延3年(1750年)に隠居し、弟で養子の雄端が跡を継ぎます。しかし在位8年にして48歳で世を去り、子の清太郎(雄年かつなが)が数え8歳で家督を相続しました。

土方雄年・雄貞・義苗

 雄年は成長すると実権を取り戻すため藩政改革を行い、政治を牛耳っていた家老や重臣を追放・隠居させ、長年の放漫経営で破綻していた藩財政の再建に乗り出します。しかし領内には凶作が起こり、幕府からは大坂城や駿府城の警備を命じられて出費が続き、財政は悪化の一途をたどりました。

 そこで実子の義著を廃嫡し、老中田沼意次の六男を養子に迎え、意次の養女と再婚するなどして結びつきを強め、財政援助を得ようとします。しかし幕府に対する出費が増大して逆効果となり、安永9年(1780年)10月には養子の雄貞に家督を譲って隠居します。その後も藩政の実権を掌握し、天明2年(1782年)雄貞が20歳で病没すると、幼い甥の彦吉(義苗)を雄貞の末期養子として家督を継がせ、引き続き実権を握り続けました。さらに義苗の正室に意次の嫡男意知の養女(実父は意次の甥の意致)を迎え、田沼家との繋がりも維持・強化しています。

 ところが天明4年(1784年)に田沼意知が暗殺され、天明6年(1786年)後ろ盾の将軍徳川家治が薨去すると、田沼意次の権勢は急速に衰え、老中を辞任させられます。代わって政権を握った松平定信は田沼派を次々と処罰しますが、菰野藩は処罰を免れました。しかし雄年はたびたび相撲を興行するなど豪奢な生活を送り、藩の借金を9800両(1両10万円として10億円弱)にまで膨らませたといいます。

 寛政7年(1795年)、雄年が45歳で没すると、18歳の義苗は親政を開始して藩政改革に乗り出します。まず財政再建のため質素倹約・経費節減を旨とし、年間に225俵の米を臨時のために積み立て、年1割2分の利率で貸付運用します。これにより捻出した資金を灌漑工事や産業開発にあて、目安箱を設置して民間から意見を募り、学問を奨励して人材育成につとめました。これにより9800両もの借金は12年で1400両にまで削減され、義苗は菰野藩中興の祖として讃えられました。

土方雄久―雄氏―雄高             俊直―義苗
        
氏久―雄豊―豊高―豊義―雄端―雄年…雄貞

雄興以後

 天保6年(1835年)義苗は長男雄興に家督を譲って隠居しますが、3年後に雄興が逝去すると孫の雄嘉に家督を継がせ、自ら後見人となって死ぬまで藩政の実権を握り続けます。雄嘉の子雄永の代に明治維新があり、娘婿で養嗣子(土方氏分家の旗本出身)の雄志の時には廃藩置県となり、子爵に叙せられています。途中で田沼家から養子が入ったりしましたが、藩祖雄氏から廃藩置県に至るまで他家からの養子で断絶することがほぼなかった藩でした。また凶作や放漫経営があったにせよ重税を課すことがなく、江戸時代を通じて百姓一揆が一件もなかったといいます。なお雄志の弟久徴は昭和初期に日銀総裁をつとめ、子の雄武は雄志の養子となって子爵家を継ぎました。

四日市宿

 三重郡の東部、現在の四日市市の中心部は、江戸時代には幕府直轄領(いわゆる天領)でした。奈良・平安時代の東海道は鈴鹿関から鈴鹿川沿いに東へ進んで伊勢国府(現鈴鹿市国府町)に到達し、河曲郡河曲駅で北に曲がり三重郡を北上縦断しますが、朝明郡朝明駅に達するまで駅がありませんでした。やがて千種街道・八風街道を介して三重郡と近江国が繋がると、鎌倉時代から室町時代にかけて寺院が建立されて開発が進められ、新たな市場と港町が形成されていきます。

 三重郡南東部、内部川が鈴鹿川と合流し鈴鹿川・鈴鹿川派川に挟まれた河口部の三角洲地域を「くす」と呼びます。この地名は南北朝時代から記録に現れ、伊勢神宮の神田があり、伊勢湾の海上交通の拠点のひとつでした。のち三角洲の南西端に楠城が築かれ、南朝の北畠顕能の命令により諏訪十郎貞信が初代城主となった後、楠木正成の末裔が4代目から代々城主をつとめ、秀吉に滅ぼされるまで200年あまり存続しています。

 応永年間(1394-1428年)、上野国佐位郡赤堀郷(現群馬県伊勢崎市旧赤堀町地区)の武家で藤原秀郷(田原藤太)の末裔を称した田原景信が三重郡に移住しました。彼は東海道に隣接する鹿化かばけ川(天白川支流)の北岸の栗原に居を構えて赤堀(現四日市市赤堀)と改め、長男の盛宗を海蔵川の北の羽津(現四日市市羽津町)に、次男の秀宗を赤堀に、三男の忠秀を浜田(現四日市市鵜の森)に配して周辺の利権を掌握します。

 文明2年(1470年)、田原忠秀が浜田城を築城した際、北西の芝田を通っていた東海道を付け替え、浜田城の東を通るようにしました。これにより伊勢湾に近くなり、周囲に市場と港町が形成され、毎月「四」のつく日(4日、14日、24日)に市場が開かれました。これが「四日市」の起源です。南の鈴鹿市には三日市という地名があり、全国各地に同様の「〇日市」という地名が残っています。

 常設ではなく定期的に開かれる市場のことを「定期市」と呼びます。同様のものは中世欧州の週市・年市など世界各地にあり、日本では平安後期に石清水八幡宮などで特定の干支のつく日に市場が開かれ、鎌倉時代に月3日、特定の数字のつく日に開かれる三斎市(日市/日切市)が普及しました。地方の中心地では六斎市・九斎市も出現しています。

 北の桑名、南の安濃津の間に生まれた城下町は、赤堀や羽津、楠ともども千種・八風街道を通る商人の活動拠点となって栄え、明応7年(1498年)の大地震では他の伊勢の港町と同じく壊滅的被害を受けたと思われますが、やがて復興しました。のち滝川一益の侵攻を受け、天正3年(1575年)に浜田城・赤堀城が落城し、一益の支配下に入ります。浜田城田原氏の子孫は織田信雄に仕えましたが小牧長久手の戦いで戦死し、後継ぎは絶えています。

 滝川一益が没落した後、四日市は織田信雄、豊臣秀次、氏家行広の支配を経て、関ヶ原の戦いの後徳川家康の直轄領となります。慶長6年(1601年)東海道に伝馬制が定められると四日市宿が設置され、北の桑名宿、南西の石薬師宿(現鈴鹿市石薬師町)の間を結びました。また尾張国愛知郡の宮宿(熱田宿)とは「十里の渡し」という海路で結ばれ、内部川の北の「日永の追分」は東海道と伊勢街道の分岐点(追分)となり、四日市宿は多くの道が交錯する交通の要衝として、ますます繁栄することとなります。

 慶長8年(1603年)には代官の水谷光勝が代官所として四日市陣屋(現四日市市北町)を設立し、北勢地方の幕府行政の中心地となりました。享保9年(1724年)大和郡山藩領となりますが、享和元年(1801年)に再び幕府領となり、近江国甲賀郡の信楽代官である多羅尾氏が統治にあたりました。

 なお明治維新後に廃藩置県が行われると、伊勢国中北部と伊賀国は安濃津県に統合されますが、明治5年(1872年)に県庁が安濃津(現津市)から四日市陣屋に移され、安濃津県は陣屋のある郡名から「三重県」と改名されます。翌年県庁は安濃津に戻りますが、県名は三重県のままとなり、のち南部の度会県と統合されて現在の三重県の領域が確定しました。

◆四日◆

◆市市◆

【続く】

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