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【つの版】度量衡比較・貨幣257

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は近江の南隣、伊賀国です。

三重県

◆忍◆

◆卵◆


伊賀概説

気象庁の三重県の区分

 まず、現在の三重県を見てみましょう。東海地方と近畿地方の両方に属するこの県は、南北に長く東西に狭く、令制国のうち伊賀・伊勢・志摩・紀伊の四国にまたがっています。このうち伊賀国は北西部の伊賀市と名張市で、面積は688km2と三重県全体(5774.48km2)の8分の1ほどしかなく、人口は15万2283人と、三重県全人口(168万4868人)の11分の1しかありません。

 伊賀地方は四方を山に囲まれた内陸の盆地(上野盆地)からなります。北からは河合川、北東からは柘植川、東からは服部川や久米川、南東からは木津川、南からは名張川が集まり、伊賀盆地北西部で合流して木津川となり、西へ流出しています。これは奈良の北で流れを北西に変え、石清水八幡宮のあたりで宇治川・桂川と合流し、淀川となって南西へ流れを変え、大阪湾へ向かっています。従って淀川水系の流域の一部をなし、伊勢湾方面へ流れる河川の流域とは分水嶺によって分かれています。

 伊賀国は東海道に属し、北は近江国甲賀郡、東は鈴鹿山脈を経て伊勢国、南と西は大和国宇陀郡および山辺郡、北西は山城国相楽郡に面しています。律令制以前は伊賀国造(垂仁天皇の皇子息速別命の末裔)が治める領域で、木津川上流部の阿保あお(現伊賀市阿保)に拠点を置いたことから阿保君の姓氏を賜っています。なぜここに拠点があったのでしょうか。

 垂仁天皇の宮は纒向珠城宮/師木玉垣宮といい、現在の奈良県桜井市穴師にあったと推定されています。ここは三輪山の北西麓にあり、西には纏向遺跡箸墓古墳があって、卑弥呼の時代の邪馬台国=ヤマト(山麓)国の中心地であったようです。垂仁天皇の父の崇神天皇は磯城瑞籬宮(現桜井市金屋)に宮居しましたが、これは三輪山の南西麓で南を大和川が西へ流れ、東の宇陀盆地と奈良盆地を繋ぐ要地です。ヤマト王権は宇陀・名張・阿保を経て鈴鹿山脈を越え伊勢へ向かう道を抑えており、纏向遺跡からは東海地方の土器も多く出土します。要は当時の幹線道路を抑える場所だったわけですね。

 律令制下では伊賀国は当初は伊勢国に含まれましたが、天武天皇9年(680年)分立されて令制国として成立します。奈良時代には当初の2郡から4郡に増え、北から阿拝山田伊賀名張の4郡18郷が置かれました。『新撰姓氏録』によると、崇神天皇の時に高志国(北陸道)を平定した大彦命の子孫に阿閇あべ臣、伊賀臣、名張臣らがいます。現伊賀市にある敢國あえくに神社は阿閇氏が氏神を祀ったものとも、阿拝郡の国津神ともいいます。時代的には阿保から阿拝に遷ったものかも知れません。

 伊賀国府は阿拝郡にあり、現伊賀市大字坂之下字国庁から遺跡が発掘されています。ここは阿保から18km北、柘植川の北で上野盆地の北端にあり、平城京の北の山城国相楽郡から木津川沿いに遡って伊賀に入り、服部川・柘植川の北を通る旧東海道(大和街道)に面し、東に進めば加太越えで鈴鹿山脈を越えて伊勢国の鈴鹿関に達します。都が飛鳥から奈良へ北上したため、伊勢へ抜ける道も北へ動き、伊賀の中心地も北へ動いたのです。平安時代に都が山城国に遷ると、東海道は近江国甲賀郡から鈴鹿峠を越えて鈴鹿関へ向かうようになり、伊賀はメインルートから外れました。しかし大和国と伊勢国の間にあることから交通の要衝ではあり続けます。

伊賀越奈良道

中世伊賀

 10世紀末に伊賀国庁は廃絶しますが、大和国の東大寺や興福寺、伊勢国の伊勢神宮は伊賀に荘園を置き、伊勢と大和を繋ぐ諸街道を抑えていました。商売敵の比叡山延暦寺は近江の物流を掌握しており、両者はしばしば争っていましたから、荷物を輸送する業者たちは武装して盗賊などの襲撃から身を護る必要がありました。こうした護衛を担ったのが武士たちです。

 平安時代中期、平維衡が伊勢守に任官され、伊勢平氏の祖となります。その所領は伊勢から伊賀に及び、維衡の曾孫正盛は承徳元年(1097年)に所領の伊賀国山田村と鞆田村を白河法皇の娘を弔う御堂に寄進したことで重用されるようになりました。彼の孫で清盛の異母弟の経盛は平治の乱の勲功により伊賀守に任官されています。

 寿永3年(1184年)3月、源頼朝は新羅三郎義光の曾孫である平賀惟義を伊賀国守護(惣追捕使)に任じました。彼は同国の九条家領大内荘の地頭を兼務したため大内冠者と呼ばれるようになります。伊賀は伊勢平氏の基盤のひとつですから、それを抑える役割を授かったのですが、同年7月には平田家継大掾信兼伊藤忠清が伊勢・伊賀で反乱を起こしました。

 惟義は襲撃されて多くの家人を失い、一時国外へ逃亡します。反乱軍は勢いに乗じて近江国甲賀郡に攻め入り、佐々木秀義を討死させるなど畿内近国を揺るがしました。事態を重く見た頼朝は弟の義経、伊勢守護の山内首藤経俊らに鎮圧を命じます。惟義も取って返して反乱鎮圧に加わり手柄をあげますが、当初の反乱を鎮圧できなかったとして恩賞は受けられず、伊賀守護も山内首藤経俊が兼任することとなります。

 その20年後、平氏の残党が再び伊賀・伊勢で挙兵し、経俊は打ち破られて国外に逃亡します。鎌倉幕府は京都守護の平賀朝雅に命じて鎮圧させ、経俊は伊賀・伊勢の守護職を解任されて朝雅が兼任することとなります。後鳥羽上皇は朝雅を伊賀知行国主とし、朝雅は里見義成を推挙して伊賀守としました。後鳥羽院の信頼篤く、幕府の実権を握る北条時政の娘婿でもある朝雅は畿内近国において大きな権力を得ます。しかし翌元久2年(1205年)、時政が朝雅を新たな鎌倉殿に擁立しようとしたとして北条義時と政子らに討伐を命じられ、自害に追い込まれました(牧氏事件)。

 義時は朝雅・義成から伊勢と伊賀を没収し、惟義の嫡男惟信を両国の守護に任じました。しかし彼は承久の乱で後鳥羽院方についたため失脚します。その後の伊賀は執権北条氏が治め、宝治元年(1247年)には千葉亀若丸(頼胤)が名目的に下総と伊賀の守護に任じられます(幼いため叔父の泰胤らが任務を代行)。子の胤宗、孫の貞胤が家督と守護職を相続し、貞胤は新田義貞に従って足利尊氏と争ったものの、のち足利方に降伏して下総・伊賀の守護職を安堵されました。しかし貞胤の子氏胤の後は伊賀守護職を失い、仁木につきなどが同職を継ぎます。

 この頃、名張郡の黒田荘では荘園主である東大寺の支配に逆らう「悪党」たちが割拠しています。奈良時代から続くこの荘園は、11世紀には東大寺の支援を受けて周辺の公田(国衙領)を耕作し、天喜元年(1053年)から3年に及ぶ国司との争いの末、宇陀川と名張川より西の地域に限定されます。しかし鎌倉時代には荘園代官の大江氏が御家人と結んで年貢抑留を図り、弘安元年(1278年)から90年近くにわたって東大寺と争うこととなります。

伊賀仁木

 仁木氏は河内源氏足利氏の傍流にあたり、承久の乱の後に足利義氏が三河守護に任ぜられた時、同国額田郡仁木郷(現愛知郡岡崎市仁木町)に移住した源実国を祖とします。実国の弟義季は隣の細川郷を領して細川氏の祖となり、ともに足利宗家に仕える家臣となりました。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、仁木頼章・義長の兄弟は足利尊氏の側近として活躍し、侍所頭人や諸国守護に任じられ、兄は丹波・丹後・武蔵・下野、弟は伊勢・伊賀・志摩・三河・遠江の守護職を歴任します。しかし尊氏・頼章が相次いで没すると義長は諸将に嫌われて失脚し、勢力は衰えました。

 足利義満の頃には伊勢・和泉の守護職を授けられるなどある程度復権し、丹波・伊勢・伊賀の三家に分かれました。このうち伊賀仁木氏は伊賀守護職を世襲して北部の2郡(阿拝・山田)で勢力を保ちますが、南部2郡(伊賀・名張)には国人衆が割拠していて権威を及ぼせず、北部2郡でも有力国人衆の服部氏や百地氏が勢力を持っていました。応仁の乱では東西両軍に分かれて争い、戦国時代初期には近江国甲賀郡信楽の近衛家領の代官職を授かっています。しかし北部には近江守護の六角氏、南部には伊勢国司の北畠家が勢力を伸ばし、伊賀は大きく3つの勢力に分かれました。

戦国時代の伊賀国

 戦国時代後期、伊賀守護は仁木四郎長政が世襲していましたが、その支配力は弱く、事実上は甲賀郡と同じく国人・地侍たちが連合した「惣国一揆」によって統治されていました。日常の政務は10名ないし12名の奉行が行い、防衛などの重要事項は全員の会合で決定され、団結して外敵にあたることなどが掟書きとして残されています。掟書きの制定年代は不明ですが天文21年(1552年)から永禄10年(1567年)の間と推測され、大和国宇陀郡の国人衆らの侵入に対する自衛のために成立したと思われます。これら国人の数は48とも66とも言われ、砦や館、土塁の数は600以上に及びました。

 後世の忍術書やエンタメ作品では、甲賀郡の国人・地侍ともども、彼らを「忍びの者」すなわち忍者としています。実際伊賀・甲賀の人々は他国にも傭兵として雇われ、情報収集や破壊工作に従事したりしたともいいますが、彼らの自認はあくまで武士であり、忍び働きをしたのは彼らの手下の百姓や下人たちです。徳川家康に仕え「伊賀者・甲賀者」を率いた服部半蔵も伊賀の出自(阿拝郡服部郷)とされますが、父はともかく彼は三河生まれで、武将として槍働きで活躍しています。

 それでも長政は一定の権威を保持し、細川氏や三好氏など畿内の政権と結託して六角氏や北畠氏に対抗しました。永禄8年(1565年)には興福寺から脱出した覚慶(足利義昭)を阿拝郡土橋で饗応し、甲賀郡和田へ逃がしていますし、彼を支援するため丹波と伊賀の間を往来していたようです。六角氏が織田信長に敗れて甲賀郡へ逃れると、長政は甲賀郡に出自を持つ滝川一益を介して信長に従属し、その後は弟の友梅(義視)が跡を継ぎました。

伊賀之乱

 伊勢国は南北朝時代より北畠家が国司を名乗り割拠していましたが、尾張の織田信長に侵攻されて屈服し、北畠家当主の具教は信長の子・茶筅丸を養嗣子として受け入れ出家しました。しかし茶筅丸が幼いことから実権を譲ろうとはせず、天正元年(1573年)茶筅丸が元服して北畠具豊(のち信意)となった2年後に家督を譲りましたが、伊賀国伊賀郡丸山(現伊賀市枅川ひじきがわ)に隠居のためと称して城を築き始め、周辺の国人を呼び集めたため、信長の不興を買います。

 翌天正4年(1576年)、北畠信意は具教ら北畠一族を暗殺して伊勢国を掌握し、伊賀の領国化も狙い始めました。天正6年(1578年)2月、伊賀国名張郡の日奈知城(現名張市下比奈知)の主である下山甲斐守平兵衛が信意を訪れ、伊賀への手引きを申し出ます。また3月には家老の滝川三郎兵衛(北畠家庶流木造家出身)に命じて丸山城を修築させますが、これを知った伊賀国郷士衆は驚き、密偵を放って様子をうかがわせました。その規模は壮大なもので、完成すれば伊賀国を統治する拠点となることは疑いありません。

 北畠家残党など反織田派の策動もあり、丸山城周辺の伊賀衆は寺で密談した末に襲撃を決め、10月25日に700名の伊賀衆が丸山城を攻撃します。不意を突かれた守備兵や人夫らは混乱して伊勢へ逃げ込み、滝川三郎兵衛も命からがら逃げ延びました。翌天正7年(1579年)9月、信意は父信長に相談もせず伊賀へ出兵し、三つの道から同時に侵攻して制圧せんとします。しかし夜襲や奇襲、攪乱作戦によって数日のうちに多くの兵を失い、しんがりをつとめた重臣の柘植三郎左衛門保重が討死する大敗を喫しました。信長は激怒しますが、石山本願寺との抗争が激化していたことから伊賀平定は後回しにせざるを得ず、まずは調略を行って手懐けることとします。

 天正9年(1581年)4月、上柘植の福地伊予守宗隆、河合村の耳須弥次郎具明の2人が安土城を訪れ、伊賀攻略の道案内をすると信長に申し出ました。信長は信意を総大将として諸将に伊賀攻めを命じ、9月に伊勢・甲賀・大和など6方面から計5万の大軍が攻め込みました。織田軍は寺や村を焼き払い、僧侶や女子供も殺戮したため、伊賀衆は伊賀国北西の比自山城(現伊賀市長田)に非戦闘員を含む1万人が逃げ込み、東の平楽寺にも1500人が籠城して抵抗します。この平楽寺は、伊賀守護であった仁木氏の館があった場所で、上野盆地のほぼ中央の台地上にあり、西に木津川、南に久米川、北に服部川と柘植川が流れる要衝の地です。

 彼らは野営していた蒲生氏郷隊と筒井順慶隊に夜襲を掛け、氏郷隊を打ち破り、順慶隊の1000人を討ち取る損害を与えました。怒った氏郷は平楽寺を攻めますが退けられ、滝川一益の援軍を得て陥落させます。比自山城は丹羽長秀らが包囲しますが落とせず、総攻撃の前日に城内の伊賀衆は山道を南へ逃げ、名張郡の柏原城へ撤退しました。

 やがて柏原城は助命を条件に和睦を乞い開城し、9月中には伊賀国は制圧されましたが、9万人の人口のうち3万余が殺戮されました。10月には信長が伊賀を視察に訪れ、伊賀4郡のうち山田郡を弟の織田信兼(信包)に与え、他の3郡を信意に授けています。信意は家老の滝川三郎兵衛に伊賀3郡の統治を委ね、三郎兵衛は丸山城を居城とし、また平楽寺跡に砦を構えて仁木友梅に任せました。後ここには上野城が築かれ、再び伊賀の中心地となります。

◆忍◆

◆殺◆

【続く】

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