かつての大恩ある上司の菅徹夫氏の葬儀に参列(前編)
かつての大恩ある上司であった菅徹夫氏の葬儀に参列した。一部予定はキャンセルして、通夜も告別式も参加させて頂いた。
自分の人生は日販の2人の社長で決定づけられたと言っても過言ではない(これは自分だけではないが)。一人は第6代社長の菅徹夫氏、もう一人は第7代社長の鶴田尚正氏。仕事のやり方や性格は全く違う二人だったが、だからこそ二人はお互いに補完し合って、良きコンビだった。時代を予知する天才肌の鶴田尚正氏、コツコツ努力される秀才タイプの菅徹夫氏だった。お二人が社長の時代は、会社全体がのびのびしていた。まだ出版業界が好景気にあったこともあって、仕事が自由で前向きだった。菅徹夫氏は物流部門出身で、設備投資やシステム開発に熱心だった。日販の主要なインフラは、菅徹夫氏が作り育てたと言っていい。出版業界にlSBNが普及したのも、旧書籍コード時代からの積年の執念であった。鶴田尚正氏は日販ポニーなど取次本流以外の道を歩んできて、本以外を扱う商品開発部を設立したので、ビデオレンタルや映画投資など新しい事業開発に手腕を奮った。お二人とも部下や知人の面倒をよく見る親分肌の方だった。
菅徹夫氏は身体が小さいのに、声が大きい方だった。菅徹夫氏を象徴するのが「バカ野郎!」という怒鳴り声で、遠くにいても聞こえてくる叱責だった。手抜きの仕事に対しては、紙の資料を破り捨てて投げつけるなど叱り方も劇的だった(もちろん自分もやられた)。それでいてお互いに根に持つこともなく、褒める時は菅徹夫氏➡︎別の人➡︎褒める人みたいな人使いの妙も心得た方だった。われわれは「スカッと、爽やか、バカ野郎」などと評していた。社長になられたのは、ご本人にとってはとんだハプニングだったと思うが(日販にもすごい事件があった)、なられてからもワイシャツ姿で職場を回る現場主義だった。昔のスタッフとしての技術もキチンとしていて、自分はフローチャート、進行パート、ワークサンプリング、KJ法など調査と整理の技法を叩き込まれた。今のスタッフはこういう基礎がない。
自分が菅徹夫氏の下で担当した仕事で最も大きなプロジェクトは、雑誌の発送センターである「ねりま流通センター」開設で、150億円もの投資の実質的な責任者を務めさせて頂いた。しかし作業システムがうまく作動せずに、深夜残業どころか所員が日夜連泊の事態となった。これは危機的な状況で、責任者である菅徹夫氏は常務会という取締役会で周囲の役員から責められ続けていて、自分は悔しさに臍を噛んでいた。遂にある日に出荷用の仕分け機が壊れて、三多摩地区300軒の雑誌が遅配することになった。雑誌は発売日に着いて当たり前。商品の発送事故は書店にとっての売上損失を意味する。直ぐに菅徹夫社長に連絡が行って、奥さまが運転する車で自宅から駆けつけて下さった。われわれ管理職は1列に並んで、来所された菅徹夫社長に深々と頭を下げて謝罪した。その時に私は『聖橋から飛び降りて、死んでお詫びしよう』と思った。しかし菅徹夫社長の口から出た言葉は「大丈夫だ、そのうち何とかなるよ」だった。多大なる叱責を覚悟していた管理職一同、どんなにこの言葉に救われたことか。事実、作業員の慣れと共に「ねりま流通センター」は次第に安定稼働していった。この夜のことは一生忘れない。
自分が日販で後半生を捧げた「復刊ドットコム」の仕事も、菅徹夫氏から与えてもらった天命だった。書籍注文品の調達に時間がかかっていた原因の一つに「書籍の品切れ重版未定」があった。出版社は在庫を恐れて重版には踏み切れないが、かと言って著者の非難を恐れて「絶版」とも言えない立場にあった。そんな事態の打開に、菅徹夫氏は日本IBMに勧められた「オンデマンド出版」を志した。在庫を持たずに、本をスキャンしたデータからデジタルプリントした本を流通させるという、受注生産の仕組みだった。アメリカでは「イングラム」という取次の成功事例があった。30社ほどの出版社の出資を募って「ブッキング」というオンデマンド出版の会社を設立した。実際には経営戦略室の若手が起業したが、自分が新会社の責任者に任命された。日販の物流センターには「王子祭」などのイベントがあったが、ねりま流通センターでは「ねりま祭」が開催されていた。「ねりま祭」に来てくれた菅徹夫社長に呼び出されて、ブッキングの責任者への着任を打診された。安定稼働し始めたねりま流通センターの社長賞受賞にこだわっていた自分は逡巡した。その時に菅徹夫社長は「このまま一生現場に埋もれて過ごすつもりか?」と強く背中を押してくれた。業績としてはともかく、自分のライフワークとなった「復刊ドットコム」事業は、この時に自分の中で始まった。
割りとサッサと社長も引退されて、地位にこだわることもなかった(これは日販の良き伝統となった)。引退されてからも、社長時代の特権は全て放棄されて、市井の個人に徹した。元同僚や部下の葬儀などにも車ではなく、電車で参列されていた。こういうところで、人品というのは出るもので、社用車やゴルフ場会員権などに固執する元経営者が多いのとは正反対だった。引退後の生活は農業で、120坪の畑をトラクターで耕されていた。農地見学の際に、野菜の栽培研究ノートを見せて頂いたが、農学部の教授と呼びたいくらいの詳細な研究と図解だった。ノートを見ると「茄子🍆と南瓜🎃は同類で相性が悪いので、混栽してはいけない」などの知見がギッシリと書き込まれていた。今思うと書籍化してもいい高レベルの内容だったので、自分の懈怠が悔やまれる。
いくら書いてもまだ書き足りない。またの機会に続編を。


