見出し画像

短編小説 捨てられないもの

 駅前の喫茶店でモーニングを食べていると、窓際の席から男が手を振った。

「久しぶり、硯坂茉白すずりざか ましろ

 呼ばれた私は、思わず笑ってしまう。

「十年ぶりでフルネーム呼び?」

 相手は槙島理久まきしま りく。大学時代、文芸サークルで一緒だった男だ。三十三歳になった彼は出版社の編集者になり、私は細々と脚本を書く仕事をしている。

「今度、短編のコンテストを担当することになってさ。審査員には人気女優も入る。茉白も応募しない?」

 私は曖昧に頷いた。

 大学時代、私は彼に告白して振られている。その記憶だけは、時間が経っても色褪せることがなかった。

 帰宅して机の引き出しを整理していると、一冊の大学ノートが出てきた。

 表紙には「二〇一四年 二月」とある。
 嫌な予感しかしない。
 開いて数秒で、ノートを閉じた。

 恋愛詩、恋愛小説、恋愛妄想。
 しかもページの最後には、「来年のバレンタインこそ想いを伝える」と赤ペンで大書してある。

 間違いない。
 これは、人生でも指折りの黒歴史だった。

 あまりの恥ずかしさに捨てようとしたが、不思議と手が止まる。書き殴られた拙い文章の一つひとつが、当時の自分の「体温」をまだ残しているように思えたからだ。

 翌日、気分転換に大学近くの市民プールに併設されたカフェへと向かった。そこで、当時のサークル仲間だった雨代玻音あましろ はのんと偶然再会した。

「茉白、まだ槙島くんのこと引きずってる?」
「そんなわけないじゃない!」

 口から出た言葉は、自分でもわかるくらいだった。玻音は「訳知りの笑顔」を浮かべ、バッグから古びた銀色のライターを取り出した。

「これ、覚えてる?」

 私は息をのむ。
 大学祭の日、槙島が落としたライターだ。
 私はずっと、自分が拾ったまま返せなかったのだと思い込んでいた。

「違うよ」

 玻音は苦笑した。

「拾ったのは私。あんたが持ってると思わせたままにした」
「どうして?」
「二人とも不器用だったから。変に背中を押したら、ほどよい距離が壊れそうで」

 その一言で、胸の奥に十年以上沈殿していた怨念のような感情が、音もなく崩れていく。

 その夜、私はノートを読み返した。

 幼稚で、恥ずかしくて、読み返すたびに悶絶する文章ばかり。
 それでも、誰かを全力で好きだった証拠でもある。大人になった今の私は、あの頃ほど真っすぐに誰かを想えただろうか。

 そう考えると、黒歴史とは消し去るばかりものではなく、自分が確かに生きてきた証なのだとも思えてきた。

 締切前夜、私は一編の短編を書き上げた。

 題名は『おとしもの』。

 ライターをきっかけに、過去の思い込みを拾い直す女性の物語だ。応募を終えて帰る夜道、細いが街の屋根の向こうに浮かんでいた。

 スマートフォンが震える。
 槙島からだった。

「応募した?」
「うん。やっと昔を片づけられた」

 送信すると、すぐ返信が返ってきた。

「実は、あの頃は嬉しかった。ただ、自分に自信がなくて逃げた。それだけなんだ」

 私は立ち止まる。十年前なら、その一言だけで世界が変わっただろう。
 でも今は違う。

「教えてくれてありがとう」

 そう返して画面を閉じる。

 鞄の中には、あの黒歴史ノートが入っている。捨てようと思っていたのに、結局持ち帰ってしまった。

 人は失くしたものばかり探して生きている。
 けれど、本当に拾い直すべきなのは、誰かではなく、昔の自分なのかもしれない。

 黒歴史は消したい過去ではなく、未来へ進むための助走だったのだ。夜空のは静かに笑うように光り、私は少しだけ胸を張って家路についた。


本文1,471文字(ルビ含む)



こちら、【チャレがや杯2026】への参加作品となります。


#チャレがや杯2026

いいなと思ったら応援しよう!

八神 夜宵 記事が「いいな」と思っていただけたら「心付け」よろしくお願いします! 犬や猫などの動物保護活動に使わせていただいております! ¥300でノミダニ忌避薬が1か月分買えます!