油羽牟益郎の独り言 「作家は経験したことしか書けない」のだろうか?
やあ、皆さんこんにちは。私は油羽牟益郎という者だ。自らを「精神世界の探究者」と称しているが、その多くは聞くに堪えないたわごとの類であり、世間から見れば「少々変わった人間」と映るのだろう。
さて今日は、創作をする人間なら一度くらいは耳にしたことがあるであろう、ある奇妙な言葉について考えてみたい。
「作家は経験したことしか書けない」
という言葉である。
この言葉は2023年頃から日本の、主にWeb創作界隈で散見されるようになり、現在まで折に触れて議論されている話題でもある。
その頃から「いつか八神君からも質問が来ることだろう」と考えていたが、どうやらいよいよ八神君の身近でもこうした言葉が聞かれるようになり、興味が湧いたらしい。
創作大賞が「待ち」に入ったせいもあるのか、このところ私の出番が多いことには少々面食らっているが、まあ、それはあえて八神君には言うまい。
今回は少々饒舌に過ぎてしまったようだから、目次をつけておくことにしようと思う。
「作家は経験したことしか書けない」のか?
さて、初めてこの言葉を聞いたとき、私は思った。
――それは本当なのだろうか、と。
もし文字通りの意味なら、なかなか恐ろしい話である。
殺人事件を書く作家は、殺人事件に遭遇せねばならない。宇宙を舞台にする作家は、ロケットに乗らなければならない。異世界ファンタジーを書く作家は、まず異世界へ転生しなければならない。恋愛小説を書くには恋愛経験が必要で、戦争小説を書くには戦場経験が必要。
老人を書きたければ老人にならなければならず、女性を書くには女性にならなければならない、そんなことを言い始めたら、小説家あるいは作家という職業は成立しない。
もちろん、実際にはそんなことはない。殺人経験のない作家が殺人事件を書き、宇宙へ行ったことのない作家が宇宙を描き、魔王を見たことのない作家が魔王を登場させる。
では、なぜこの言葉には「妙な説得力」があるのだろう?
これだけ情報が速くなった世界で、3年の間、議論され続けているのは、単に「答えが出ていない」という理由からばかりではないはずだ。
ここで重要になるのが、「経験」という言葉である。
たとえば、会社で上司から理不尽な叱責を受けた経験。
好きな人から返信が来なくて、スマートフォンを何度も確認した経験。
病院の待合室で、時計の針だけが異様に大きく聞こえた経験。
こうしたものは、単なる知識とは違う。身体感覚がある。匂いがある。温度がある。音がある。そして何より、「そのとき自分が何をどう感じたのか」という内側からの情報がある。
だから、経験は創作において強力な材料になる。
しかし……。
ここから、話が少々面倒になる。
そもそも「経験」とは、肉体で直接経験したものだけなのだろうか。私は、どうもそうではないと思っている。むしろ、この問題を突き詰めていくと、認知科学や哲学、さらには「人間」そのものにまで話がつながってしまう。
つまり、「作家は経験したことしか書けない」という一見単純な創作論は、実は人間が世界をどのように認識し、記憶し、想像しているのかという、かなり高度な問題なのである。そして、だからこそここからが面白い。
そもそも「経験」とは何なのか?
記憶は「記録」ではない
私たちは、自分の過去を「記録」しているような気になっている。昨日の夕飯を覚えている。子供の頃の夏休みを覚えている。昔、誰かに言われた一言を覚えている。
しかし、認知科学の世界では、記憶は単純な記録装置とは考えられていない。過去の出来事を思い出すという行為そのものが、記憶の断片を組み合わせて再構成する作業だと考えられている。
実際、脳が過去を思い出すことと、未来の出来事を想像することには共通する「構築」の仕組みが関わっているとする研究がある。
過去の経験を思い出すときも、未来を想像するときも、脳は保存された映像をそのまま再生しているというより、手持ちの情報を組み合わせて一つの場面を構築しているのである。
これは、創作者にとってかなり重要な話だ。なぜなら、「経験したことを書く」という行為そのものが、すでに純粋な「経験の再現」ではないからだ。
たとえば、あなたが十年前に海へ行ったとする。その海を思い出してみる。波の音。潮の匂い。照りつける太陽。砂浜の熱。隣にいた誰かの声。
だが、あなたが実際に思い出しているものは、十年前の海そのものではない。十年前の海について、現在のあなたの脳が再構成した「記憶としての海」なのだ。
そして作家は、その再構成された記憶をさらに言葉へ変換する。
つまり、現実 → 記憶 → 想起 → 言語化 → 物語 という変換が起きている。
この時点で、創作はすでに「経験のコピー」ではなくなっている。言い換えれば、経験とは「創作の原材料」なのである。
読書も経験になる
では、自分が直接体験していないことについてはどうだろう。たとえば私は戦争を経験していない。しかし、戦争について書かれた本を読めば、戦争というものについて一定の知識を得ることができる。
戦争経験者の手記を読めば、その人が何を恐れ、何を失い、何を考えたのかを想像することもできる。もちろん、それを「実際に戦場へ行った経験」と同一視することはできない。しかし、だからといって「何も経験していない」と言うのも奇妙ではないか。
小説を読んで泣いたことがある人なら分かるだろう。自分ではない人物の人生に触れ、自分ではない人物の悲しみに胸を締めつけられる。これは現実の体験ではない。しかし、心の中では確かに何かが起きている。
哲学における「想像」の研究でも、想像は単なる頭の中の絵ではなく、他者の視点を想定したり、現実とは異なる可能性を考えたり、芸術作品に関わったり、知識を得たりする認知活動として広く論じられている。
つまり、人間の「経験」というものを肉体的(あるいは実質的)な体験だけに限定すると、あまりにもその範囲が狭すぎる。
読書、会話、観察、記憶、想像、共感……。
これらもまた、人間が世界について何かを獲得するための重要な経路なのである。だから私は、「作家は経験したことしか書けない」という言葉を聞いたら、「経験とは何を指していますか?」と聞き返したくなる。
そして、おそらくここから先が「話の本題」なのだ。
作家の仕事は「嘘を本当にする」こと
想像力は現実逃避ではない
「想像力」という言葉は、どうも軽く扱われがちである。「そんなのは想像にすぎない」などと言う。しかし、これはかなり不思議な言い方だ。人間にとって想像とは、現実とは無関係な遊びではないからだ。
たとえば、家を建てる前には設計図を描く。まだ存在しない家を、まず頭の中や図面の上に存在させる。飛行機が存在しなかった時代には、「空を飛ぶ機械」というものを人間が想像した。月へ行くことも、最初は現実ではなく、人間の頭の中に存在した。
つまり、現実に存在しないものを思い描く能力は、現実を変えるための前段階にもなる。
「想像力」は、そのまま「創造力」へと繋がっているのだ。
もちろん、頭の中で思い描いたものがすべて現実になるわけではない。「明日、突然、1+1=3となる」と考えたところで、そうはならない。
しかし、現実に存在しないものを、人間が考えること自体には意味がある。そして創作家は、その能力を極端なまでに使用する職業なのである。
哲学では、想像力について「現実とは異なる可能性を表象する能力」という側面が論じられている。想像は、現在目の前にあるものだけでなく、「もしこうだったら」という可能世界や、他人の立場、未来の状況などを扱うことができる。
これは作家が毎日やっていることそのものではないか?
「もし、この人が嘘をついていたら?」
「もし、この世界に魔法が存在したら?」
「もし、あの日、電話に出ていたら?」
こうした「もし」を積み重ねて、物語はできていく。
無から有を生み出しているわけではない
ただし、ここで一つ注意しなければならない。作家は「完全な無」から世界を生み出しているわけではない。
ドラゴンを考えてみればいい。ドラゴンは現実には存在しない。
しかし、完全な無から出てきたわけでもない。
爬虫類、鳥、翼、牙、炎、巨大な生物であり、恐怖と畏怖の対象。
そうした「既知の要素」が組み合わされ、未知の存在へ変換されている。創造とは、既知の材料を新しい関係へ組み替えることでもある。
創造性研究で著名なマーガレット・ボーデンは、創造性を「組み合わせ型」「探索型」「変換型」という三つの観点から捉えている。特に組み合わせ型創造性は、既知のものをこれまでとは異なる仕方で組み合わせることだと説明される。
これは小説を書くときにも、そのまま当てはまる。
「会社員」という経験。
「孤独」という感情。
「宇宙」という知識。
「昔読んだSF」という記憶。
「昨日見た猫」という観察。
これらを組み合わせて、「宇宙船の中で一人きりの会社員が、故郷の猫を思い出す」という物語を作る。
経験そのものは新しくない。しかし、経験同士の組み合わせは新しくできる。だから作家は、経験したことのない人生を書くことができる。経験したことのない世界を書くこともできる。経験したことのない感情でさえ、自分の中に存在する別の感情を材料にして推測することができる。
ここまで来ると、冒頭の言葉はかなり形を変えてしまう。「作家は経験したことしか書けない」ではない。むしろ、「作家は経験したことを材料にして、経験したことのないものも書く」ものなのではないか。
「本物らしさ」はどこから生まれるのか?
経験が強い理由
では、経験には意味がないのか。もちろん、そんなことはない。むしろ経験は非常に強力だ。
たとえば、「悲しい」と書くことは簡単である。しかし、本当に読者へ悲しみを伝えようと思えば、コップを持つ手が妙に重い。テレビがついているのに内容が頭へ入ってこない、スマートフォンを開いて、何も通知がないことを確認する。冷蔵庫を開けたまま、何を取り出そうとしたのか分からなくなる。
そうした細部を書いたほうが、「悲しい」と一言書くよりも、ずっと悲しみが伝わる場合がある。なぜか。そこには身体感覚や生活感覚があるからだ。経験というものは、単なる「出来事」ではない。その出来事に伴っていた無数の感覚の束である。だから経験者は、細部に強い。
しかし、ここにも落とし穴がある。経験したからといって、必ずしも上手く書けるわけではない。むしろ、自分の経験に近すぎるために、何が他人に伝わり、何が伝わりのか分からなくなることすらある。
経験は材料であって、完成品ではない。料理人が高級な食材を持っているからといって、必ず美味しい料理を作れるわけではないのと同じである。
「他人の心」を想像するという恐ろしく高度な作業
そして、小説を書くという行為には、もう一つ奇妙なことが起きている。作家は、自分ではない人物の心を作らなければならない。
「この人物なら、ここで何を考えるだろう?」
「この人物は、なぜ怒ったのだろう?」
「この人物にとって、これは嬉しいことなのか、それとも屈辱なのか?」
つまり作家は、自分の頭の中に「他人の心」を仮設する。
これは、認知科学的に見れば相当に高度な作業である。他人の行動から、その人の信念や欲求や感情を推測する。そして、その仮説を使って次の行動を予測する。
小説家は、これを登場人物の数だけ繰り返している。主人公。ヒロイン。悪役。老人。子供。通りすがりの店員。全員について、「この人間なら何をするか」を考える。
しかも作家自身とは違う価値観を持つ人物まで作る。自分なら絶対に選ばない選択を、その人物には選ばせる。これは単なる「妄想」と呼んでしまうには、少々高度すぎる。
想像力は、芸術だけのものでもない。哲学では、他者の心を理解すること、創造すること、科学的な思考実験を行うこと、未来を想定することなど、多くの認知活動に想像が関わると考えられている。
さらに創造についても、現在の研究では「なぜ人間が新しく価値のあるものを生み出せるのか」という問題そのものが、いまだ完全には解明されていない。ボーデンも、組み合わせ型だけでなく、既存の概念空間を探索する創造性や、そもそものルールや概念空間を変えてしまう変換型創造性について論じている。
つまり、「作家は経験したことしか書けない」という話は、実は「創作のコツ」程度の話ではない。
これは、人間は世界をどう認識しているのか。記憶とは何なのか。想像とは何なのか。他人の心をどう理解しているのか。そもそも、人間はどうやって新しいものを生み出すのか。という、哲学・心理学・認知科学にまたがる巨大な問題なのである。
だから私は、この言葉を単純に「正しい」「間違っている」で片付けるのは、少々もったいないと思う。
間違っている部分もある。しかし、その言葉が長く生き残るだけの理由もある。
「経験」という言葉の中に、記憶、感情、観察、知識、想像、共感、身体感覚といったものがごちゃごちゃに詰め込まれているからだ。
そして「作家」とは、そのごちゃごちゃしたものを材料にして、別の人間の人生を作る人なのである。
だから、私は今日もたわごとを語る
経験が足りない、と悩む人へ
もし、あなたが創作をしていて、「自分には人生経験が足りない」と思っているのなら、私はそれほど心配しなくていいと思う。
海外旅行へ行ったことがなくてもいい。大恋愛をしたことがなくてもいい。大企業で働いた経験がなくてもいい。戦場へ行ったことがなくても、宇宙船に乗ったことがなくてもいいのだ。
もちろん、経験できることなら経験したほうがいい。知らない世界を知るために本を読んでもいい。人の話を聞いてもいい。街を歩いてもいい。映画を見てもいい。知らない職業について調べてもいい。そうして集めたものは、確実に創作の材料になる。
ただし、それ以上に重要なのは、自分がすでに持っている経験を、どれだけ深く観察できるかではないかと思う。
スーパーへ卵を買いに行った。ついでに牛乳を買った。家へ帰ってから、牛乳を買ったことを思い出して、「卵を買いに行ったのに、なぜ牛乳まで買ったのだろう」と自分で不思議に思った。そんな程度の出来事でもいい。その日の空気。レジに並んでいた老人。袋の中で卵がぶつからないように慎重に歩いたこと。帰り道で見かけた猫。信号待ちの間に考えていたこと。そういうものを覚えておく。
すると、何年か後になって、それが物語のどこかに突然現れる。「あのときの牛乳」が、誰かの人生を救うかもしれない。「あのとき見た猫」が、異世界の神になるかもしれない。「あの日感じた寂しさ」が、主人公の最後の台詞になるかもしれない。創作とは、おそらくそういうものなのだ。
「作家は経験したことしか書けない」――それは、半分だけ正しい。
しかしそれは、自身で作家と認識していない、誰についてもそうなのだ。
より正確に言うのなら、「作家は経験したものを材料にして、経験していないものを想像し、物語を創造する」が近いのではないだろうか。
そして、その想像を言葉(物語)にすることで、今度は他人の頭の中に存在させる。作者の頭の中にしか存在しなかった人物が、読者の頭の中で歩き始める。作者の頭の中にしかなかった世界が、読者の脳内に広がっていく。作者が経験していない人生を、読者が「自分のことのように」感じる。
これは考えてみれば、ずいぶん奇妙な現象ではないか。紙や画面に並んだ小さな文字が、人間の頭の中で人間や街や宇宙へ変換される。私はこれを、ちょっとした精神世界の奇跡だと思っている。
……おっと。今、「精神世界」という言葉が出たところで、私の本業に戻ってしまった。
私は最初にも申し上げた通り、自称「精神世界の探究者」である。世間から見れば、少々変わった人間だ。
人間の意識とは何なのか。魂とは何なのか。想像とは何なのか。なぜ人間は、存在しないものを頭の中に生み出せるのか。そして、なぜ頭の中に生まれたものを、文章や絵や音楽にして、他人の心へ送り込むことができるのか。そんなことばかりを考えている。
もちろん、私の考えていることの大半は、最初に申し上げた通り、聞くに堪えないたわごとである。学者先生からすれば、鼻で笑われるような話も多いだろう。それでも私は、こういうことを考えるのが好きなのだ。
考えてみれば、作家という人種ほど「精神世界」というものを毎日覗き込んでいる人間も、そうはいないのではないか。
存在しない人物を作る。存在しない世界を作る。存在しない出来事を起こす。そして、それを存在しているかのように他人へ見せる。
これは一体何なのだろう?
ただの嘘なのか。想像なのか。芸術なのか。
それとも、人間の意識が持っている、何かもっと奇妙な能力なのか。
私はまだ答えを知らない。だから今日も考えている。そして、こうして八神君に呼び出されては、あれこれとたわごとを並べている。
結論などというものは、たぶん必要ないのだろう。
だが、経験したことを材料にして、経験したことのない世界を書くことはできる。その世界が誰かの頭の中で現実になることもある。それだけ分かっていれば、私は十分だと思っている。
では、今日はこの辺で。
次に八神君から呼び出されるまで、私はまた精神世界のどこかをふらふらと彷徨うことにしよう。
ひょっとすると、そこで宇宙人にでも出会うかもしれない。
……まあ、出会ったとしても、八神君には言わないがね。
どうせ、「先生、それ本当に経験したんですか?」と聞かれるに決まっているからね。
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