鷗外さんの小倉日記㊵ 久留米・高山彦九郎Ⅱ
十月一日。午前衛戍病院を視る。院に飰す。午後二時半御井町なる醫師森一の家を訪ふ。一ははじめと訓す。別號は三樹。祖父を嘉善といふ。櫛原村に住めりき。嘉善一たび宮川氏を冒し、後本氏に復す。
高山正之の薩摩より返るや、一たび嘉善を訪ひて、辞して小倉に至り、又歸りて宿らんことを請ふ。嘉善これを許す。既にして嘉善正之の板縁に坐し、多く文書を出して水盤中に潰し、更にこれを寸裂するを見る。その故を問へば嫌疑を避くといふ。嘉善その爲す所の刧りて嫌疑を招くに足るべきを言ひて諫止す。翌旦四點鐘の比正之の刃を腹に剚したるを認め、介抱して官に訴ふ。夜半を過ぎて絶息すと云ふ。

10月1日。(久留米)衛戍病院を視察。院内で食事をとった。飰(はん)す、とはご飯を食べる意。飰は飯の異体字です。衛戍病院は国分町の元国立久留米病院、今の久留米大学医療センターです。
午後2時半、御井町の医師、森一を訪ねた。一ははじめと読みます。別の名を三樹。祖父は嘉善(嘉膳とも)といい、櫛原村に住んでいた。
嘉善は(養子に行き)一度は宮川氏を名乗っていたが、のちに元の氏に戻った。
高山正之(彦九郎)は薩摩より帰ると、いったん嘉善を訪ねた。そこを辞して小倉に行き、また戻って泊めてほしいと頼んだ。やがて嘉善は、正之が板縁に座り多くの文書を取り出して水盤に漬け、さらに小さく裂いているのを見た。
わけを聞くと、嫌疑を避けるためだという。嘉善はそのようなことをすると、かえって嫌疑を受けるといさめた。
翌日、四點鐘(午後2時ごろ)のころ、正之が刀を腹に刺したのを見つけ、介抱して役所に届けた。夜半、息絶えたという。
※四點(点)鐘とは。船乗りの言葉で、かつて船では(時鐘)を鳴らしていましたが、鐘が1つで一点鐘と言い、0時30分は一点鐘、1時は二点鐘と続き2時は四点鐘、4時の八点鐘で一巡です。
高山正之屠腹(自刃)について、久留米市史は次のように記述しています。
久留米市史 高山正之屠腹の地
寛政三奇士の一人たる高山彦九郎が西遊の途二たび三度久留米に来りて、櫛原村なる森嘉善の宅(現今櫛原町より南薫町に通する道路の北側 道より約一町の所にあり、東櫛原町字中通)に寓し其志成らざるを慨き寛政五年六月廿七日終に自刃翌朝絶命(時に四十七)せしことは世人の周く知る所なるが其遺骸は二十九日嘉善の邸内に假埋葬を爲し、後殘留品は彼の郷里に送還し、同年十一月十一日遺族の請に応じ、高山家と同宗旨な城内眞言宗祇園寺の末寺たる寺町遍照院内に改葬せり。
王政維新後森氏の後裔は東京に轉居し、其邸宅は井上種次郎といへる者の所有に歸し、家屋は他に移され其址は桑田と化し、終焉の地も将に湮滅せんとせしかば、明治の中葉同村天満宮の祠官守山夏樹之を慨し、其宅址約一坪の地を清浄にし此に檜樹を植ゑ、中央に「贈正四位高山彦九郎正之大人之碑」と題せる標木を樹てゝ之を表せり。
※高山彦九郎が自刃した家は移転し桑畑になっていて忘れられていたのを、明治の中頃、櫛原天満宮の宮司、守山夏樹がこれを嘆き、その場所一坪を清めヒノキを植えて中央に「贈正四位高山彦九郎正之大人之碑」の標柱を建てわかりやすくした、とあります。

一の父某高良内村に徙る。一に至りて今の處に住む。主人予に正之の書を潰す所の石水盤と書畫古文書數種とを示す。正之自書の歌幅あり。歌に云く。波懸の岸打つおとも靜なる御代のためしときくそ楽しき。狩野三雄獄中畫く所の正之書を水盤中に潰す圖あり。一の姊壻若山殘夢年七十六の時これに詩を題して曰く。一生慷慨事尊王。海内共傳彦九郎。寸裂密書雖滅跡。石盤之水駐奇香。古文書中觀る可きものは、先づ指を高山彦九郎一件公儀取遣控と題したる一卷に屈す。取遣は取扱の誤ならん歟。當時官廨と徃復せし書類皆此中に載す。書を官に呈するには皆森兵治の名を以てす。兵治は嘉善の兄なり。巻中又正之の遺品の目録及正之の遺族の名簿あり。後者に據るに、正之に四子あり。長女せいは上野國上の宮の郷士德江宦吉に嫁す。寛政六甲寅十八歳なりき。二女さと十五歳。三男儀助。四女りよ十歳是なり。
一(はじめ)の父某は高良内村に移ったが、一になって今のところに住んだ。現在住んでいる主は正之の書を水につけた石の水盤と書画、古文書数種を見せた。中には正之自筆の歌の掛け軸があった。
その歌は
「波懸の岸打つおとも靜なる御代のためしときくそ楽しき」
となっている。
狩野三雄が獄中で描いた、正之が書類などを水盤に漬けて図もあった。
狩野三雄(1834~1880)は幕末~明治時代の久留米藩の画家で国学、和歌にも優れ尊攘派として活動。
また、尊攘(そんじょう)派として久留米藩の重臣水野正名(まさな)らとともに活動した。47歳。筑後出身。
一の姉婿、若山残夢も76歳の時、これに「一生慷慨事尊王。海内共傳彦九郎。寸裂密書雖滅跡。石盤之水駐奇香」という詩を付けた。
古文書の中で見るべきものは、まず「高山彦九郎一件公儀取遣控」と題したる一巻である。取遣は取扱の誤りだろう。
当時、官廨(かんげ=やくしょ)と徃復(わうふく=往復)した書類などはみなこの中に載っている。
手紙を役所に出すには皆、森兵治の名をで行っている。兵治は嘉善の兄である。その書類の中には正之の遺品目録および遺族の名簿があった。
名簿によると、正之には4人の子があり長女せいは上野国上の宮の郷士、徳江宦𠮷に嫁いでいる。寛政六甲寅(1794)18歳、二女さと15歳、三男儀助、四女りよ10歳となっている。
儀助と正之の伯父劔持長藏とは來りて正之の墓を吊しきといふ。古文書中又高山先生紀事一卷あり。正之臨終の顛末を叙す。芝野慶次郎といふものゝ國字文なり。予主人に質すに墓の事を以てす。主人の友権堂某傍より告げて曰。墓石に故墓を持ちゐることは或いは有らん。墓の所在は舊に依る。唯ゝ前に南面したるものゝ、今西面したるを異なりとなすのみ。これに反して寺門は其所を變ぜりと。
正之の三男、儀助と伯父剣持長蔵は久留米に来て、正之の墓を建てた。
残された文書の中に「高山先生紀事」一巻があり、臨終の顛末を述べている。芝野慶次郎が書いた国字文である。主に墓の事を確かめると、主の友人、権堂某がかたわらより言うには、墓石に古い墓を使うことはありうることだ。墓の所在地は昔のままですが、南面していたものを今、西面しているのが違っているだけです。
これに反してお寺は変えていないという。
※「国字」とは、「漢字の要素や作り方を真似して日本で作られた和製漢字」のことです。
現在学校で習う「常用漢字表」には2136字の漢字がありますが、その中に国字は、小学校で習う「働」「畑」、
中学校で習う「込」「峠」「枠」「匂」「栃」「塀」「腺」の9字だけです。(「働」は音読みが存在する数少ない国字の一つ)。身近な例を挙げれば、寿しやさんの湯のみに書いてある魚の名前などがありますね。
この鷗外さんの記述の「国字文」とはどのようなものでしょうか、詳しくはわかりません。

※参考 高山彦九郎記念館 くるめ歴史散歩 高山彦九郎先生史蹟顕彰会 久留米市HP 久留米市史
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