「俺の全てを見よ」空想旅行案内人 ジャン=ミッシェル・フォロン展 感想
ありがたいことに招待券をいただいたので、よく晴れた土曜日にジャン=ミッシェル・フォロン展に出かけた。
どこかで見たことがあるような、かわいらしく素朴な絵というのがフォロンの絵の第一印象だった。その、どこかで見たことのあるような男、「リトルハットマン」という帽子をかぶった無口で無表情な男に導かれながら空想旅行へ進んで行くことになる。
彫刻や飾られた絵画、ポスター達を眺めながら感じたことは、「リトルハットマン」は私たち観客自体でもあると感じさせてくれる、そしてそれ自体が空想旅行であるということである。
私が特にそんな気持ちになったものをいくつか紹介したい。
一つ目はタイトルは忘れてしまった(無題がとにかく多かったが……)のだが、たくさんの矢印が自分に向けられた絵。この絵を目にしたとき、なんとも言えない居心地の悪さを感じた。例えば、思春期に何か教室で失敗したときに教室中から視線を向けられているときとか、常連客しかいない喫茶店に入ってしまったときの客と店員の視線とか、エレベーターの中でおならをしてしまったときに同乗している人たちから向けられる非難の心情とか、そうときに感じるなんとも言えない居心地の悪さや、今すぐここから立ち去りたいという気持ちがむくむくとわいてきた。
二つ目は最後の部屋にあった「秘密」と題された彫刻。リトルハットマンがコートパカッと開いて立つ。コートだけじゃなく頭から又まで全てを開いて見せているような作品である。最初の部屋から最後の部屋までいろいろな作品をリトルハットマンと供に歩んできたが、最後のこの立ち姿を見て、「ああ、たぶんフォロンという人はこうやって『俺の全てを見てくれ』と主張していたんだな」とふと思った。考えや感情を絵やポスターや彫刻に託して外に出し続けてきたのだと。俺を見てくれここにいるぞ、こんなことを考えて、こんなことを感じている俺が、と。
私も生きづらくなったときによく思う。誰か私の心の扉を無理矢理開いて私自身を引っ張り出してくれないか。私の全部をさらけ出させてくれ。そう都合よく引っ張り出してくれる誰かはいない。だから作品を作り、空想の旅に出た。
今回の旅の最後は長い階段をのぼるリトルハットマン。彼はどこに行くのか、のぼっていく先にゴールはあったのだろうか。
