【小説】蒼き肉球(第2話)
小説「蒼き肉球」の続きです。次男の肉球発言から、勢いで書いている小説です。めでたく短編でなく普通に小説になりました。いつまで続くか分かりませんが、よろしくお願いします。
第1話あらすじ
この世界では、生まれつきの肉球の色と形で身分が決まる。平民のリンは掌の中心だけが青く染まるという珍しい肉球を持って育つが、母サチは気に病んでいた。ある日、王子による「肉球狩り」が町に来る。検分の際、リンの青い肉球を見た王子は動揺し、その場では放免するが、その夜密かに使者を送りリンを城へ招く。二人きりになった王子は演技をやめ、自分は青い肉球にまつわる伝承を探し続けていたと明かし、リンにその由来を語り始める。
第2話 肉球、燃ゆ
その夜、城の使いの者がリンの家に入っていくのを、何人かの町人が目にしていた。噂はまたたく間に広がった。
「リンは、もう帰ってこないんじゃないか」
誰かがそう囁けば、それはすぐに事実であるかのように町中を駆け巡った。サチは、王子に丁重に招かれたのだと、誰にも――たとえ親しい隣人であっても――口にすることを禁じられていた。だから彼女はただ、何も語らずに戸を閉め、灯りを落とした部屋の中で、朝が来るのをじっと待つしかなかった。
しかし、朝になってもリンは帰らなかった。
案じないわけがなかった。サチは何度も戸口に立ち、通りの向こうを見つめては、肩を落として引っ込んだ。そんな彼女のもとに、隣に住む老人が心配げに訪ねてきた。
「サチさんや、リンはどうしたんだね。まさか、あの肉球狩りで……」
老人の声には、隠しきれない不安が滲んでいた。サチは唇を噛み、目を伏せた。何も言えない。それに、実のところ彼女自身、息子が城の中で今どうしているのか、何も知らされてはいないのだった。
「……大丈夫です。きっと、そのうち帰ってきますから」
それだけを言うのが、精一杯だった。老人は釈然としない顔のまま、それでも深くは追及せず、とぼとぼと帰っていった。
一方その頃、当のリンは、朝食の席で呑気に匙を動かしていた。
城に招かれたのだから、さぞかし豪奢な食事が出てくるものと思っていたのだが、目の前に並んだのは、意外なほど質素なものだった。堅焼きのパンと、豆と根菜を煮込んだ汁物、それに薄く切った塩漬け肉が少し。城下の宿屋で出てくるものと、そう変わらない。リンは少しがっかりしたが、それでも黙々と平らげた。
あてがわれたのは、こぢんまりとした部屋だった。窓からは城下町が見下ろせて、まだ眠たげな朝の中で、人々がもぞもぞと一日の営みを始めているのが見えた。白い鳩の群れが窓の外を横切り、屋根の連なりの向こうへと消えていく。さらに遠くには、朝の光を弾いて海がきらきらと輝いていた。
昨夜は、王子とずいぶん長く話し込んだ。
正直なところ、その大半はリンには難しすぎて、まるで自分とは関係のない、遠い国の物語を聞かされているようだった。それでも、王子の顔だけはよく覚えている。あの、噂に聞く「バカ息子」とはまるで対極にあるような、真剣そのものの顔。言葉の中身をすべて理解することはできなかったけれど、この青い肉球というものが、王子にとって何か途方もなく重大な意味を持っていること、そして王子が自分に危害を加えるつもりなど毛頭ないということだけは、はっきりと分かった。
やがて、部屋の扉が控えめに叩かれた。王子の配下の者が、迎えに来たのだという。今日もまた、話の続きがあるらしい。
連れて行かれた先で、リンを待っていたのは――昨夜とはまるで違う、いつもの「バカ息子」の顔をした王子だった。
「ふん、青いだけの肉球など、しょせん半端者の証だろう」
周りに控える取り巻きたちが、その言葉にへらへらとした追従の笑いを浮かべる。リンは面食らったが、すぐに思い出した。昨夜、別れ際に王子が耳打ちしていたことを。
「――昼間は、またバカのふりをする。頼むから、調子を合わせてくれ」
なるほど、これがそれかと、リンは内心で得心した。
それにしても、と、リンは王子の掌にちらりと目をやる。あの、燃えるような鮮やかな紅。城のどんな宝石よりも深く、どんな夕焼けよりも鮮烈な色だった。昨夜、初めてその肉球を間近で見た時、リンはしばらく言葉を失って見入ってしまったほどだった。
そうして、また一日が過ぎた。
夜になり、リンは再び王子の部屋へと呼ばれた。今度の部屋には、見たこともないほど体格の良い男が控えていた。全身を鋼鉄の甲冑で固め、傍らには人の背丈ほどもある大槌を立てかけている。
「ガイだ。腕は確かだ」
王子は短くそう紹介すると、それまでの軽薄な調子を捨て、静かな声で続けた。
「リン。よく聞いてくれ。お前はいずれ、この国のために犠牲にされる。そして、恐ろしいことが始まる。王は、ずっと前からお前のその肉球を探していた。だから私は、王よりも先にお前を見つける必要があったんだ」
リンは息を呑んだ。
「私と一緒に、この国を出よう。私は、こんな国にはもういたくない。……大丈夫だ、ガイと、それに」
王子が視線を暗がりへ向けると、そこから音もなく、闇そのものを纏ったかのような女が姿を現した。目の奥に、氷のような冷たい光が灯っている。
「スイがいれば、安心していい。それに――私のこの深紅の肉球も、捨てたものじゃない」
王子はそう言って、ふっと笑った。それは、昼間の卑屈な笑いとも、これまでの傲慢な笑いとも違う、初めてリンが見る、腹の据わった笑みだった。
その真夜中、一行は城に古くから伝わるという秘密の通路をたどり、闇に紛れて城を抜け出そうとした。
だが、通路の出口――堀の向こうにたどり着いたその時、待ち構えていたのは、王子に日頃からへつらっていた近衛副隊長、ドスだった。彼の背後には、槍や剣を構えた兵が何十人と並んでいる。リンの顔から、さっと血の気が引いた。
しかし、これもすべて、王子の思惑通りだった。
王子は今夜、秘密の通路を通って城を抜け出すという情報を、あえてドスひとりにだけ漏らしていたのだ。出世に目がくらんだこの男が、必ず食いつき、しかも他の誰にも告げずに独り占めしようとするであろうことも、王子はすべて見抜いていた。
ドスは日頃から、王子のことを快く思っていなかった。かつて廃嫡となった王子の兄――こちらは正真正銘、救いようのない愚か者だった――に取り入り、出世の道を探っていたのだが、その兄は好き放題に愚行を重ねた挙句、勝手に兵を動かして隣国へ攻め入ろうとし、事を荒立てたくない王の逆鱗に触れて、遠い山中に幽閉されてしまっていた。もし今の王子が行方知れずのまま二度と戻らなければ、あの兄が再び王位継承者の座に返り咲き、ドスにもまた出世の目が巡ってくる――そういう算段だった。
「王子。おとなしく縛につかれよ」
そう声をかけながらも、ドスの目に情けの色は微塵もなかった。彼は兵たちに、王子が連れ出そうとしているあの少年――リンだけは生け捕りにし、王子をはじめ、ガイやスイら供の者は一人残らず斬り捨てるようにと命じていた。王子さえこの場でいなくなれば、あとはどうとでもなる。そう腹の中で見積もっていたのだろう。
剣と槍を構えた兵たちが、夜気を裂くような雄叫びとともに、一斉に襲いかかった。
だが、それを最初に迎え撃ったのは、ガイのひと振りだった。彼は誰よりも先に前へ出ると、地面を踏みしめ、人の背丈ほどもある大槌を軽々と担ぎ上げた。振り下ろされたその一撃は、まともに受けた兵の盾ごと胴を叩き潰し、鈍い音とともに男の体を数メートルも吹き飛ばした。ガイは止まらなかった。横薙ぎに払えば二人、三人とまとめて薙ぎ倒され、突き出された槍の穂先は虚しく彼の甲冑を弾くばかりだった。屈強なはずの兵士たちが、まるで木の葉のように宙を舞い、地に転がっては、二度と立ち上がらなかった。
その傍らで、スイが静かに掌を掲げた。
夜の闇の中、彼女の指先から放たれたのは、青白い光の帯だった。それが空気を裂いて走ったかと思うと、先頭にいた兵の足元から瞬く間に霜が這い上がり、次の瞬間には全身が氷像のように凍りついて、そのままばたりと横倒しに崩れた。かと思えば、別の方向へ向けた指先からは、目にも留まらぬ光の筋がほとばしり、稲妻のように数人の兵を貫いた。撃たれた者たちは声にならない悲鳴を上げ、痙攣しながらその場に崩れ落ちる。焦げたような臭いが、夜風に混じって漂った。
スイの表情は、終始変わらなかった。まるでこの惨劇の中に、彼女だけがいないかのように、ただ淡々と、次の的へと視線を移していく。その静けさが、かえって恐ろしかった。
リンは、剣も槍も持たず、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。怒号と悲鳴、金属がぶつかり合う甲高い音、地を踏み鳴らす無数の足音。それらすべてが渦を巻くようにリンの周りを取り囲み、頭の芯が痺れていく。逃げなければ、と思う一方で、足がまるで根を張ったように動かなかった。
兵たちも、決して弱くはなかった。統率の取れた動きで幾人かがガイの死角へと回り込み、盾で連携を組みながら間合いを詰めていく。一人がガイの足元を槍で払い、体勢を崩させたところへ、もう一人が斬りかかる――そんな連携が幾度となく繰り返された。それでもガイはびくともせず、むしろ苛立ったように唸り声を上げると、大槌を地面に叩きつけた。轟音とともに地面が揺れ、しがみついていた兵たちが将棋倒しのように吹き飛ばされていく。
そうして戦況は、みるみるうちにガイとスイの側へと傾いていった。
だが、混乱の中、一人の兵だけが誰にも気づかれぬまま、闇に紛れて王子の背後へと回り込んでいた。足音を殺し、身をかがめ、剣を逆手に構え直す。狙いは、ただ一撃。王子の首筋めがけて、その刃が振り下ろされようとした――その刹那。
王子の掌の、あの深紅の肉球が、まるで内側から燃え立つように輝いた。
次の瞬間、剣を振り上げていたはずの兵の姿は、業火に包まれていた。悲鳴を上げる暇すらなかったのかもしれない。炎はひとりでに渦を巻き、瞬く間にその兵を包み込むと、崩れ落ちるように地に沈んでいった。王子はこちらを振り向きもせず、それが起きたことにすら気づいていないかのように、ただ静かに立っていた。
その光景を目にして、残っていた兵たちの足がぴたりと止まった。誰も、次に前へ出ようとしなかった。
瞬く間に、兵たちは一人残らず倒れ伏した。残ったのはドスひとりだけだった。彼は震えながら地面に膝をつき、額をこすりつけるようにして命乞いを始めた。
「お、お許しを……! 私はただ、命じられるままに……!」
王子はしばらく無言でドスを見下ろしていたが、やがて静かに言った。
「今回だけは、見逃してやる。だが二度と、私たちの前に姿を見せるな」
ドスは大袈裟なほど何度も礼を口にしながら、逃げるようにその場を後にした。だがその去り際、彼の目は一瞬だけ、リンの掌に留まっていた。
夜の闇を突っ切って走り去るドスの背中を見送りながら、一行は追手をすべて片付けたことを確かめると、再び闇の中へと足を踏み出した。町の灯りが、次第に遠ざかっていく。
その時になって、リンは初めて気がついた。
自分の掌の、あの深い青の中心が――ほんのわずかに、しかし確かに、淡く光を放っていることに。
つづく。
