グレープフルーツジュース
六月に入り急に暑くなった日に、汗が伝う腕に痺れを感じた。
再雇用先で倒れ、大がかりな手術と三週間の入院を余儀なくされた。大病は隠しようがなくあっさり退職することになった。
仕事を最優先にして真面目に生きてきたのに、早すぎる人生の幕引きに思えた。
退院の二文字が見えてきたある夜、ベッドを区切るカーテンを無数のカニが這い上がっていくのを見た。爪がカーテンに刺さり、布がザザーと裂ける音まで聞こえ始め、私は初めてナースコールを押した。
「カーテンにカニが這い上がっていきます」
そう叫び、目をつむったはずがカニは視界から消えない。さらにカーテンだと思っていたのは石垣だとわかる。堀から立ち上がる石垣を無数のカニがのぼっていく。腕を振り回しカニを追い払っていると、看護師が二人かけつけてきた。
「カーテンじゃなく石垣だ。ほら、そこに穴太積(あのうづみ)の石垣がある」
看護師の一人が担当の梅田さんに「せん妄」、とささやく。
「穴太積といえば金沢城ですかね?それとも彦根?」
「どっちだろう?」と私は石垣をよく見ようと、カニを追い払うのをやめた。
「井上さん、大丈夫ですよ」
名前を呼ばれ、視界にはカーテンが戻る。顔に違和感があったので、点滴とつながっている手で触れてみると水滴を感じた。私は泣いていたのだ。
手術の結果は良好だし後遺症も残らなかったが、体力と気力がひどく落ちていた。退院が嬉しくないわけはないのだが、これからどう生きていけばいいのかわからない。
梅田さんが夜の検温の後、私を寝かせつける。
「お城が好きなんですか?」
私はそれには答えず、考えていたことを声に出してしまう。
「これからはやりたいことをやるんだ」
「どんなことかしら?」
私を落ち着かせるために、寄り添うような言葉がけをしてくれた。梅田さんの対応はありがたかったが、今度もまた具体的な返事ができない。
「恋とか?」
考えもしなかった言葉が私の耳をくすぐった。たしかに私の人生に欠けていたものだ。思わず身体がぶるっと震えた。
「でも、まずは健康ですよ」
退院の日、ぶかぶかになったズボンをベルトで締め上げ、タクシーで一人暮らしのマンションへ戻った。大量の薬と共にもらってきた『食生活見直しブック』を開き、スマートフォンも併用しながら、予後の禁忌事項と推奨事項、買い物リストを手早くまとめる。やりたいことをやるために、まずは健康を取り戻すのだ。
検索して見つけた無農薬野菜を中心に取り扱っているというスーパーに出向いた。
旬の野菜が良いと書いてあったので意識して買い物していると、同じ建物の二階に書店が入っていることを知った。読書も好きだったことを思い出しエスカレーターに向かっていると、降りてきた綺麗な女性に「井上さん」と声をかけられた。
声には覚えがあるが、顔には記憶がなかった。
「お忘れですか?梅田です」
「看護師さん?あんまり美人だったので、わからなかった」
私はつい正直なところを言ってしまう。これでは病院ではブスだと思っていたように聞こえるではないか。この不器用さが恋と縁遠い要因だ。
「お家は五月台でしたよね?私も帰るのでお送りしますよ」
「いや、とんでもない」
「失礼ながらお顔の色も少し」
梅田さんが目を大きく見開いて私を観察する。頭も身体も心までもレントゲンばりに透視されたような気がした。
「予後が大事ですから」
私は梅田さんの車に乗せてもらうことにした。後部座席に置かれたトートバッグに目が行く。二階の書店で買ったと思われる単行本がちらりと見える。表紙には見覚えがあった。
「五月台はシャーロット・カフェの方かしら?もしくはつばめ書店?」
「あー、二丁目バス停を右折して郵便局の手前も右へ…」
問いかけには答えられず、退院の日にタクシーに言った通りの説明をした。自宅療養が日常になるのに、近所にカフェも書店もないのはつまらないと考えていたところに、この情報だった。本当に私を透視したかのような「正解」を梅田さんは渡してくれた。
「いまのスーパーにはいつもバスをご利用ですか?」
「いや、初めてです。今日はバスを使いました」
「ちょっと距離がありますものね。いつも利用しないスーパーへ、今日は何故?」
「体に良い物を食べようと思って」
「食事は毎日のことですから、ぎちぎちに頑張らないで、まずは自分の甘やかし方を変えてみる、くらいに考えると良いかも」
「自分を甘やかす?」
「時間も手間もお仕事ではなく、自分にかけるというのはいかがでしょう。『やりたいことをやる』っておっしゃっていらしたでしょ?そのためにも」
覚えられていたとわかると、耳がくすぐったくなった。バスに揺られて正直しんどくなっていた身体は、梅田さんのなめらかな運転で回復する。
「さっき申し上げたシャーロット・カフェ、お野菜プレートが玄米ご飯つきでいただけますよ。明日ご一緒しませんか」
私は考えるより先にうなずき、十一時半に待ち合わせすることにした。丁寧に礼を言い別れる。
帰宅すると真っ先に本棚を見に行った。『現存十二天守』と書かれた背表紙に指をかけて引き出す。やはり梅田さんが買ったのと同じ本を持っていた。これを片手に十二の城をめぐる旅をしていた時もあったのに、今は埃まみれになっている。自分が何を好きだったかも忘れていた。思い出させてくれた梅田さんに感謝した。
翌日、約束通りシャーロット・カフェを訪ねた。梅田さんはメニューも私のことも見ずにオーダーをした。
「お野菜プレートを二つ、食後にルイボスティを」
私は秘かに耳を赤くした。まさに昨夜『食生活見直しブック』でノンカフェインだというルイボスティを知って、これからは常飲しようと考えていたのだ。
「旅にでも出てみませんか?お供いたしますよ、行きたいところがありますか?」
昨日の『現存十二天守』が頭をよぎり、まだ行っていない城のある県名をあげてみた。
「良いですね。では分担いたしましょう。チケットは私が手配いたしますので、ホテルをお願いできますか?」
急展開についていけず、私はまた口をもぐもぐさせた。
本当は世にも稀な病で、退院後も様子を見るように、梅田さんは冠者(かんじゃ)として送り込まれているのかもしれない。
動揺しているとお野菜プレートが到着した。鮮やかな野菜サラダがたっぷり乗ったプレートで、パプリカのおかか和え、ナスの煮びたし、ニンジンのラべと小鉢もカラフルだ。
「何から召し上がりますか?」と涼やかな声で聞かれた。栄養指導でサラダからと散々言われていたが、私の気持ちは決まっていた。梅田さんは煮びたしを箸でつまみ上げた。頭の中で福引当選のベルが鳴る。私はナスに目がないのだ。
誰かと食事するのは久しぶりだった。苦痛は感じなかった。何を話すわけでもなく、食事に集中しながらお互いの「うまい」と「おいしー」を確認しあった。
帰り際に日程を言い渡された。現役看護師なのだから梅田さんの日程が優先だとは思ったが、私には本当に行くのかさえ半信半疑だ。宿を頼まれたはすだと思い返していると「部屋はいくつ?」と思わず質問が口をついて出た。
「二部屋で」と梅田さんは笑った。
それから私は梅田さんのことばかり考えた。私が「やりたいことをやる」と言った時に「恋」と提案してきたのは梅田さんだった。病院からの冠者説は不都合なので、頭の中から削除した。
そして旅にそなえるために食生活は改善され、部屋は清潔になり、『現存十二天守』は暗記するほど読み込まれた。スーツ以外の服を数年ぶりに新調した。
その空港に着いた時から、日射しの歓迎ぶりに私は圧倒された。
「さあ、早くホテルへ」と梅田さんは大胆に聞こえることを口にしながら、タクシー乗り場へと私を急がせる。
それぞれにチェックインの手続きをして、ロビーと同じ階のカフェで待ち合わせすることになった。私は喉が渇いていたので、荷ほどきをせずにカフェへ降りた。
このホテルの自慢なのかプールに近い席へ案内された。天井までの大きな窓は全開になっていて、水面が風に煽られると日射しが揺れ、反射を受けた私の視界と気持ちを賑やかにした。
真夏の日射しで暑いはずがクーラーの冷気が届いて心地よい。贅沢にすぎる空間を満喫していると、カランと氷が動く音がして、スリムなグラスに入った飲み物が届いた。
「グレープフルーツジュースでございます」
まだオーダーしていないと私は右手を軽く振ってみせた。言葉にするのは野暮のような気がしたからだ。
「お連れ様が『時間がかかりそうなので、お先にどうぞ』と」
「なるほど」とうなずいてみせる。衣装替えか、先にシャワーを浴びるつもりかの二択を想像し口元が緩む。恋の準備という単語を浮かべ一人で耳を赤くした。
同時に初めての梅田さんの「不正解」を見つけた。私の服用薬はグレープフルーツが禁忌なのだ。入院中は薬を管理してくれていたのに、忘れてしまったのだろうか。いや、若く健康な人には想定外のことなのだろう。少し悲しく思いながらも、梅田さんに従いたい私はストローを揺らしてから、一口吸い上げた。
「うまい」
思わず声をあげる。水面に反射するキラキラした日射しを前に飲むべきものは、甘すぎず、それでいて太陽にふさわしいグレープフルーツジュース一択だ。前言を撤回し「最適解」に拍手をおくる。
一気に飲み干した私は待ちきれなくなった。せん妄の続きでもかまわない。恋の「正解」を求めて、梅田さんの部屋へ向かうために席を立った。
エレベーターのボタンをせっかちに三回連打するとドアが開いた。うつむいた私の視界にいかつい運動靴が飛び込んできた。
心臓の音が身体中に響く。耳を赤くしたまま視線をあげると、帽子に長袖長ズボンの梅田さんが現れた。
「お待たせしました、では石垣を見に参りましょう」
