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中世において、造形によって描き出しえたこと、言葉によって表しえたこと。ホイジンガ『中世の秋』を読む(7)第19-21章。


前置き。

ホイジンガの『中世の秋』(中公文庫版)、いよいよ最終盤。今回、参加メンバーで申し合わせてたのは第19章「美の感覚」、第20章「絵と言葉」までだったんですが、どうしても第21章「言葉と絵」も併せて読んでおきたい気分になって、先走ってそこまで書きます。

摘 読。

美の感覚|第19章

中世において、人々は芸術美という概念をまだ持たなかった。人々は、芸術から受ける印象や、そこから生じる感情を語る際にも、至福の感情や生の喜びといった漠然とした言葉でしかあらわしえなかった。ドニ・ル・シャルトルーが『この世の愛らしさと神の美しさについて』で詳細かつ壮大に書き著している地上の美についても、結果的には表層的な記述にとどまっている。トマス・アクィナスが『神学大全』において述べるように、中世当時において美は完全であること、至当の釣合であること、光り輝いて(そういう色彩をもって)いること、この3点に集約される。ドニもまた、それを地上の美を言いあらわすのに応用しようとした。しかし、そのたびごとに未知の美、天使界・天上界の美に筆が滑ってしまっている。音楽について表現するときもまた同じであった。

つまり、この当時においては、美の概念の分析は不十分であり、感動の表現は表面を流れてしまっていた。ただただ、光り輝いていることの賛美に、言葉は尽くされていた。それゆえにか、色についての記述は細緻をきわめる。とはいえ、その色彩感覚の変遷は、時代精神の移り変わりをも映し出している。15世紀ごろまでは、それぞれの色に感じとられていた〈意味〉を細を穿つように記述していたのが、16世紀にはいると色の調和の感覚を重視するようになっていった。

言葉と絵|第20章

中世とルネサンスを截然とわけようとすると、その境界線はいつも朧気になってしまう。それは、ルネサンスのなかに「中世的なるもの」がたくさん含まれているからである。そうなると、時代区分としてルネサンスという言葉を用いるのではなく、別の観点から捉える必要がある。綿密きわまるリアリズム、すべてを可能なかぎり具象のイメージに描き尽くそうとする姿勢をようやくふりすてることができた16世紀のイタリアにおいて、ルネサンスが台頭しはじめたのである。

15世紀のフランスやブルゴーニュ侯国領での造形美術や文学においても、新しい美は求められていた。しかし、そこにあったのはじっくりと考えぬかれた観念体系を、欠けることなくイメージに描き出し、それに装飾を施すことだけであった。

これを表現としてあらわしだすとき、この時代の文学、とりわけ詩は絶望的なまでに皮相に聞こえるものとなってしまっていた。もちろん、リズムやアクセントが、いまだかつて歌われたことのないほどの新しい美を、詩のなかに持ち込むことはありうる。しかし、それらはまことにかぼそい。やはり、詩に歌い籠められた何らかの思想それ自体が聴くものの関心を惹きつけることのできるあいだだけ、詩は詩としての生命を保ちうる。その思想が廃れるとき、詩は形式によってのみ、そのはたらきを維持する。15世紀の詩には、もちろん新しい形式のものもあった。しかし、大半は思想も形式も古いままで、さんざん歌いふるされてきたことを繰り返すばかりであった。

これに対して、絵画の場合はそうではなかった。ファン・アイクの肖像画にみられるように、個性の不思議が底の底まで探りを入れられて、画布に定着されている。ファン・アイクの絵画においては、「奔放な細密仕上げ」とともに、全体の統一と調和が失われることなく、作品として仕上げられている。

当時、絵画においてテーマの表現に関しては、厳格な約束があった。そこには構図上の規則があって、そこから逸脱することは許されなかった。けれども、その創作意欲を充たしうる自由な領域も有していた。衣装や装飾品、背景などは、画家たる者のなすべきことを遂行することができた。

一方、詩においては、テーマに関してある程度の自由はあった。能力が許すならば、新しい思想を詩に託すこともできた。逆に、詩の細部、主テーマの背景のほうが厳しく約束に縛られていた。あらゆる細部に関して、表現の規則があらかじめ決められていたのである。その型紙を捨て去ることには、たいへんな抵抗があった。それにいくぶんの磨きをかけたり、色を添えたりすることはできたけれども、その形態を新しくつくり直すことはできなかったのである。

その点で、美術との深い関連性を示しているのは、散文である。ホイジンガがとりあげるのは、ジョルジュ・シャトラン Georges Chastellain という『年代記』という書物を著したフランドル出身の人物である。悲劇調で「大言壮語」、飾り立てた文体が目立つ彼の散文のなかにも、事件を叙述する段になると、力強い造形力をみせる。対話的な表現や生気あふれる自然主義ナチュラリズムが、作品のあちらこちらにみられる。シャトランは、その目で子細に観察したことを簡潔かつ含蓄ある言葉で記述しているのである。

こういった「とらわれぬ観察」は、散文による叙事表現においてはあらわれつつあったが、自然の情景の描述には通用しなかった。装飾としての機能しか持たなかったのである。詩における自然の表現は約束事であった。宮廷-愛欲の文化は、その大がかりな社交遊戯の一要素として、自然を愛好したのである。

その点で、散文にまぎれこんだ自然描述のほうが、より暗示に富んだ効果を発揮していた。そして、絵画において、より精細な観察が表現となっていたのである。画家の場合、あるはっきりと限定された空間に、諸要素の複合体コンプレックスに目を向ける必要があった。詩人も目に見えるものを列挙し、耳に聞こえるものをも言葉にあらわしたが、画家にはそれ以上に統一と制限と脈絡を与える必要があった。

視覚優先のヨーロッパ中世において、文学表現は絵画表現に対して劣位にならざるを得なくなった。それまでの韻文も陳腐化していた。にもかかわらず、それらがまだ一般的だったのは朗読とその聴取というコミュニケーション形態に依存していたからである。それゆえに、詩に代わって散文が前面に出てくるようになったのである。ここに、声の文化から文字の文化への移行のきっかけを見いだすことができる。ただ、そこには修辞学が欠けていた。

では、この時代の詩に見るべきものはまったくなかったのか。そこまでではない。15世紀の詩歌が自らのベストを発揮しているのは、「何か重要な思想を表現しようとはしていないとき」である。つまり、ロンドーやバラッドといった、抒情詩である。それらは、歌謡として歌われる側面もあった。クリスティーヌ・ド・ピザン(女性蔑視的な視線のある『薔薇物語』に対して、『薔薇のことば』という書物を著した)が示した「ひとめみた光景に創造のインスピレーションを汲むたぐいの音楽」は、当時の詩が提示しえた一つの成果だった。ただ、ホイジンガはこれらの詩も「修辞に力なく、表現は腰砕けになる」と厳しい。

つまり、ホイジンガによれば、この時代における視覚的イメージの表現において、詩は絵画に比べて出遅れてしまっていたということなのである。

絵と言葉|第21章

では、絵画はあらゆる角度から見て、文学にまさる表現能力をもっていたのかというと、そうではない。

その第一は、嘲弄といったテーマを扱う喜劇コミックの領域である。たとえば、デシャンがフィームの居城で病の床についている自分自身の姿を風俗画ふうにバラッドとして描き出すとき、その細密な表現はかえって話の単調さを破る。こういった微に入り細を穿つような文学表現は、後代のゾラやユイスマンス、アナトール・フランスなどが描き出した豪勢な食事は、かえって滑稽さをも醸し出す。その原型は中世にあった。絵画表現も戯画的な表現をもたなかったわけではない。ただ、デシャンのバラッドに描かれたねずみを比喩とした表現や、シャトランの文章に出てくるブルゴーニュ侯を自分の陋屋に迎えた一農夫を描く表現など、滑稽さをともなうような新鮮さもある自然主義へと、文学は歩を進めつつもあった。

たとえば、乞食(←ホイジンガの本文にあるので、そのまま用いている)を描き出すとき、造形美術は描写するに値する魅力ある形態を見いだしていたが、文学は乞食の意味、つまり同情を寄せられるべきであるとか、ほめたたえられるべきであるとか、呪うべきであるとか、そういったところに囚われていた。実際、文学にあらわれる貧困描写のリアリズムは、この呪詛というところに原型を持っていた。

そういった「描写」ということに限って言えば、造形美術が文学に劣ることはなかったのだが、哄笑や嘲笑を引き起こすようなアイロニーは、文学になお優れたところがあった。シャルル・ドルレアンなどは、まじめと揶揄のあわいをいくような誇張した表現を示している。ただ、そこに繊細な情感もあった。かすかに哀愁のひびきをただよわせる恋歌に、さらに瀆聖の要素が付け加えられることで、鋭く舌をさすような味わいを人々は感じていた。それを支える「もじり」の表現のような、洗練されたムードが15世紀の恋愛文学には備わりはじめていた。そこに、思想というのはそれほど強くはあらわれてはいなかった。

こういったある種の軽薄さや感傷性は、15世紀の絵画芸術にはまだ浸透していなかった。もちろん、貞潔や卑猥を描き出すことは知っていた。しかし、ほとんど官能の魅力を描き出そうとはしていなかった。これは、つつましさを装おうとしてのことではなかった。むしろ、驚異的な放恣自在と極度の羞恥心とが奇異な対照を見せつつ、同時に存在していたのが後期中世であった。

さて、絵画芸術が文学に比べて優位に立っていたのは、人々の心にすべてを目で見ようとする傾きが強かったからである。ところが、そのようなもののみかたが次第に退潮していくにつれて、自然の姿をそのままに写す、鋭く正確なヴィジョン以上の何かが要求されるようになると、絵画芸術の優位性は失われていく。時禱書の飾り絵であれば、直接目に映じたものをそのまま克明に写せばよかった。ところが、たくさんの重要な人物の登場する、動きの多い場面を構成するには、何よりもまずリズムと統一の感覚が必要であった。15世紀の絵画の本質は多様性であった。その多様性がそのまま単一性を感じさせるに至っているときのみ、高度な調和の効果が生じていた。その意味で、ファン・アイクの絵に感じられる調和は動的ダイナミックなそれではなく、静的スタティックなそれであった。そうしようとするかどうかが、一つの分かれ目になっていたのである。

ここには、アレゴリーになじんだ想像力が空想を袋小路に追い込んでいたということがある。15世紀、絵とは思想を十全に説明すべきものに他ならなかった。文学作品においても、同じようなことであった。美のインスピレーションというより、知性の遊びであった。そして、諧謔だけがアレゴリーの枯野に新鮮な草花を咲かせていた。アレゴリカルなイメージはユーモアの領分に投影されると、その効果を発揮しえたのである。具象のイメージの連想を楽しむというのが中世の特徴の一つだった。それが退化し、衰退しつつあるとき、ルネサンスの新風も吹きはじめていた。

私 見。

この3つの章は、ホイジンガによる中世の「美学」の文化史的な考察として位置づけられるように感じた。実際、ウンベルト・エーコ『中世美学史:《バラの名前》の歴史的・思想的背景』(谷口伊兵衛訳、而立書房、2001年); 『中世の美学:トマス・アクィナスの美の思想』(和田忠彦監訳、慶應義塾大学出版会、2022年)も本書を参照している。

いつも錯綜しているホイジンガの議論だが、今回の3つの章も例に漏れない(笑)

ただ、基本的な論旨として、中世においては完全さ、調和、光り輝きの3点が美の条件として認識されていたこと、そしてそのまったき姿は聖なる状態として静的なものとして描き出されていたこと、その視覚的認識が重視されていたこと、ここらあたりはこの3つの章を通じて、一貫して描き出されていたように思う。そして、それが中世後期になるにつれて、詩的表現の陳腐化が顕著になり、時を同じくして絵画表現の開拓も進んでいったことが、特に第20章で描かれている。ただ、同時に第20章だけでなく、第21章でも描き出されたように、散文を通じた表現の変容がヨーロッパにおける文芸作品の新しい局面の展開を促していったさまも、読み取ることができるように思われる。

このあたりの広義での“美”の感覚をめぐる表現の展開、そして、そこから人々が何に美を感じるかということの変容の叙述は、相変わらず脇道に逸れることの多いホイジンガではあるが、おもしろいところである。

その意味で、今回出てきたクリスティーヌ・ド・ピザンの詩や、買ったまままだ読んでいないペトラルカの『カンツォニーレ:俗事詩片』(池田廉訳、名古屋大学出版会、1992=2022年)なども、また機会を見つけて読んでみたい。

最近になって、ようやく私もヨーロッパ絵画にちょっと関心が出てきた。遅いのだが(笑)しかし、歴史的な観点からいろんな作品を見てみたいなと思うようになりつつある。ホイジンガのおかげである。


日本の詩歌史をみても、和歌が表現として極致にいたったのは、新古今和歌集のころであったといってよい。もちろん、その後もいろんな試みはあった。たとえば、玉葉和歌集や風雅和歌集などの京極派などは、その一例である。しかし、藤原定家の後継者である藤原為家は制詞など、保守的な方向を示したともいわれる(京極派の中心人物である京極為兼は、為家の孫)。実際には、新撰六帖題和歌など、逸脱的な試みもしていたわけだが。いずれにしても、和歌は藤原定家以降、定家への“敬遠”的な姿勢も含めて、新しい美の世界や表現の探究は衰退していく。そして、ある程度定まった枠のなかでの表現の繰り返しになっていく。

そのようななかで、平家物語を大きな転機とする軍記物語や、能のような演劇(世阿弥と金春禅竹によって詩劇にまで昇華される)など、別のジャンルが生まれてくる。さらに、韻文でも連歌という共同的な文芸が生まれてきたりもした。日本文芸史のなかで、やはり軍記物語というのは、大きな転機であったと言えそうだし、そもそも武士が文芸に参加してくるということ自体が画期的だったと言えそうに思う。これは、文芸だけでなく、絵画や演劇などにとっても、大きな影響を及ぼしているはず。

かつて、『日本の美学』という雑誌があって、けっこう購入していた。こういうジャンル横断的な雑誌というのは意外と少なくて、なかなか一つのジャンルのことしか見えなくなってしまう。けれども、その時代においては、文芸も絵画も音楽も演劇も、それぞれに影響はしあっていたわけだ。その点で、ホイジンガの『中世の秋』は、このあたりの視座を得るために ——読むのには、本当に骨が折れるのだが—— ひじょうに有益だなと、あらためて思う。

そういえば、『中世の秋』では当時の演劇などのパフォーマンスについてはほとんど言及がない。

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