書かれなかった三つの名前――村木厚子さんは何を読者に見せようとしているのか
村木厚子さんの「私の履歴書」(日本経済新聞)の掲載が半ばに差しかかりました。
ここまで読んできて、ちょっとしたミステリーに気づく人もいるでしょう。いわゆる村木事件で、証拠改ざんとその隠蔽により逮捕され、刑事責任を問われた前田恒彦、大坪弘道、佐賀元明の3人の実名を、村木さんが書いていないのです。
もちろん、事件そのものにはきちんと触れています。取り調べの異様さも、フロッピーディスク改ざんの衝撃も、検察組織のゆがみも描かれています。読者が事件の重さを見失うような書き方では決してありません。
にもかかわらず、当事者3人の実名だけは、するりと外されているのです。そこには、やはり書き手の意志があると考えるべきでしょう。
では、その意志とは何でしょうか。ひとつには、いわば「武士の情け」という見方も成り立ちます。あれほどの目に遭いながら、なお相手を名指しでさらし者にしない。その抑制には、村木さんらしい品のよさがにじんでいます。
怒りをそのまま文章に流し込めば、もっと刺々しい連載にすることもできたはずです。しかし、そうはしていません。
ただ、私は情けではないように思います。実名を出せば、読者の視線はどうしても「この3人の悪質さ」に集まります。
ですが、村木さんが本当に書こうとしているのは、個人の逸脱そのものではなく、それを許し、支え、止められなかった組織の病ではないでしょうか。
前田恒彦という名前を大きく掲げれば、話は「特異な検事の暴走」に見えやすくなります。大坪、佐賀の名まで並べれば、なおさら「悪い人たちの事件」として整理されてしまいます。しかし、村木事件の恐ろしさは、そこでは終わらないはずです。
名前を書かないことは、責任を薄めることではありません。むしろ逆です。
個人名に読者を足止めさせず、その背後にある制度の暗がり、組織の空気、そして冤罪を生む仕組みそのものへ目を向けさせる。そのために、あえて名を伏せているのかもしれません。剣を抜かなかったのではありません。
村木さんは切っ先を、人ではなく仕組みに向けているように思えてなりません。
