セイレーンは「悪になった」のではない【映画『ちいかわ』考察】
『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』
この作品の魅力は、目に見える舞台設定やキャラクター配置だけではない。目には見えない「非言語」まで含めて、ひとつの世界として描かれていることにある。とくに唸らされるのは、私たちの実社会ではしばしば切り離して考えているものを、本来のシームレスな姿で浮かび上がらせている点だ。「明と暗」「善と悪」「個と群」「光と闇」「罪と赦し」「表層と深層」「安心と不安」「つながりと断絶」。なかでも、胸を締めつけられるのが「愛」と「憎しみ」の関係だ。
セイレーンは、類まれな「歌唄い」である。その歌声は、その場の空気を一変させるほどのエネルギーに満ち、作物の成長を促し、島に豊かさをもたらしていた。島民たちは、巨大なセイレーンを恐れながらも、その歌声がもたらす豊かな恵みに感謝していた。恐怖と感謝が表裏一体となった、奇妙だけれど確かな共存関係がそこにはあった。とりわけセイレーンにとって、共に暮らしていた人魚たちは、かけがえのない存在だった。
ところが、ある日、理不尽な喪失が訪れる。セイレーンの失意は、想像を絶するものだったに違いない。そして彼女は、深い悲しみの中で、怒りの火をたぎらせ、復讐の道へと踏み込んでいく。これまで島に豊かさをもたらしていた歌声が、誰かを傷つける力へと変わっていく。歌に、そんな使い方があったことを、おそらくセイレーン自身も初めて知ったのではないか。比類なき才能を、誰かを幸せにするためではなく、復讐のために使わなければならない……そこに、セイレーンの「悲しみ」の深さがある。
けれど、セイレーンだって、歌声を牙にしたかったわけではないだろう。ただ、牙にするしかなかったのだ。もちろん、だからといって、彼女の行為が許されるわけではない。怒りのままに何人もの島人を誘拐し、傷つけたことは、決して正当化できない。島人から見れば、彼女は不条理の象徴のようなものだ。それでも、思う。なぜ、彼女はそこまでの行動に至ったのか、と。
セイレーンは「悪になった」のではない。深く愛していたからこそ、深く傷つき、深く憎んだのだ。私たちはしばしば「愛」と「憎しみ」を正反対の感情として捉えがちだ。しかし本当にそうだろうか。「憎しみ」は、「愛」という土壌から芽生える――『映画ちいかわ』は、そのことを私たちに突きつけてくる。
私たちが「善」を感じるとき、その隣には「悪」がいる。私たちが「光」を見るとき、その隣には「闇」がいる。私たちが「愛」を持つとき、その隣には「憎しみ」がいる。相反して見えるもの同士が互いを内包しながら、ひとつの世界をつくっている。作者・ナガノさんの、世の中を深く鋭く見る眼力と、それを物語世界に汲み込む才腕に、ただ脱帽するばかりだ。
