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『祭祀と供犠』を読む(後編)

この記事は中村生雄先生の『祭祀と供犠』を読んでいて、思いついたことをまとめたものである。


日本人の殺生観

中村生雄先生の『祭祀と供犠』を読んでいると、日本文化の中の儀礼的な肉食と食肉供献について述べられている。その中に少し気になることが書かれている。
収録論文の一つ「供犠の文化/供養の文化」では謡曲『阿漕』を枕に日本仏教の中の殺生観と現実における狩猟・漁労との相克を考察している。その中で、『古今著聞集』などの説話集の中に、僧らが善功のつもりで魚介を購入して海に放してやったところ、夢にその魚介が出てきて「神饌に供されることで救われるはずだったのに」と言って嘆いた話があることを挙げ、仏教が持つ不殺生と実生活との相克があったことを指摘している。むろん、皮相的理解で済まさないよう、文中に予防線は張られているが。
ただ、この論文を読んでいると、短絡的に教義=イデオロギーとするべきではないが、イデオロギーという一種のきれいごとが得てして実生活にダメージを与えることが想起される。その点において、西大寺の叡尊が宇治川の殺生禁断を求めた際、禁制と共に漁師を集め、晒し布を生業にするよう指導した話が意味を持ってくる(この話は『週刊古寺をゆく 西大寺・秋篠寺』で読んだ)。多くの場合、「代わりに何をすべきか」という問いに対する回答が欠けているのである。将来の解脱が約束されても、生きる糧がなければ意味を成さない。

供犠の文化と供養の文化

中村生雄先生の『祭祀と供犠』を読んでいると、人間が他の動物の「命をいただく」ことについてどう考えていたか、2つの傾向が見えるという。先生はこれを「供犠の文化」と「供養の文化」に分けられている。
簡単に言うと、前者は動物の一部を神に捧げることで贖う文化、後者は動物を弔うことで贖う文化となるだろうか。日本は後者に属し、各地に供養塔が建てられている。山口県長門市では、獲ったクジラを供養する際、戒名をつけていたという。こうした供養塔は動物に限らず、置賜地方には草木供養塔があり、近年では道具供養も盛んである(針供養など)。これらの背後には天台本覚思想の影響も見られるようである。
ただ、こうした贖いは「罪悪感を軽減する」役割があるとも言え、心理的負担を和らげる一方で免罪符に転じる可能性があることも指摘されているようである(中牧弘允先生による)。そのことを踏まえ、中村先生も人間中心主義への反論材料として安易に用いることを戒められている。

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親魏倭王(元学芸員:考古学) 現在、経済的な事情もあって、一部記事を有料にしております。 記事購入と併せ、内容が気に入っていただけましたら支援していただけると助かります。