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「相関主義の突破」という擬似問題の解消 ― 部分全体論による認識論と存在論の再定位

以前、思いついて記事にした「実は可知は不可知なので、相関主義を突破した・相関の外側について何事か語ることが出来るというあらゆる主張は成立しない」という話を元に、論理構成を再構築し、査読通りそうな程度に詰めて論文にしてみた。

実際には、本論の主題は反相関主義にはなく、不可知と可知の真の関係を明らかにするものである。

相関外への突破や到達や一致を主張する反相関主義は可知と不可知の関係を正しく捉え直す過程で自然に消滅する一つの誤設定にすぎなかった。

論文1 「相関主義の突破」という問いの無効化―認識論と存在論の峻別に基づく整理と生命論的転回

マークダウンだと崩れるので総合図解はこちらにおいておく

大体、どういうことかというと、以下にAIの要約を置いとく

生きものはみんな、自分だけの「感じかた」で世界とつながっています。

最近の学者は「自分の感じかたを飛び出して、感じられない世界そのものを直接見よう!」と挑戦していますが、そもそも生きものは、何も分からない世界の中で生きるために、自分にとって扱える「分かる領域」を少しずつ作り、広げてきたのです。

細胞の小さな反応から、人間の感覚、言葉、科学まで、その営みはつながっています。生命とは、分からない世界のただ中で、分かる世界を作りながら生き続けてきた存在なのです。

以下はもう少し詳しい本稿の解説である。

「相関主義の突破」はなぜ不可能?

哲学の世界では近年、クエンティン・メイヤスーらを筆頭とする「思弁的実在論」や「反相関主義」が大きな議論を呼んできました。

彼らは「人間の思考と離れて独立に存在する世界(=外部)には到達できない」とする相関主義を突破し、思考から独立した実在へ到達しようと試みています。

しかし、本当に私たちは「相関の壁」を突き破って外部へ脱出することができるのでしょうか?

本稿では、部分全体論(Mereology)の道具立てを用いながら、「相関主義の突破」というプロジェクトが抱える原理的な矛盾を解体し、それに代わる新たな認識と実在のモデルを提示します。


核心となる主張:K(F) ⊑ U

本論の核心となる結論は、以下の関係性に集約されます。

K(F) ⊑ U
(認識論的可知の現実 K(F) は、存在論的不可知の地平 U の部分である)

科学的探究や日常の認識がいかに進歩し、新しい発見がなされたとしても、それは認識論的には「未知から可知への移行」です。しかし存在論的に見れば、それはどこまで行っても「不可知から不可知への移行」に過ぎません。

ここでいう「不可知から不可知への移行」とは、対象そのものが何らかの不可知な状態から可知な状態へと変質するということではありません。

存在論的な対象について生命が新たな認識を得たとしても、対象が「外部」から可知領域の「内部」へと移動したり、存在論的に可知なものへ変化するわけではないのです。

変化しているのはあくまで生命側の認識形式 F であり、それに基づく可知の事物P_F(x)、それらによって構成される可知領域 K(F) の境界が生命の営みに応じて浮動して拡大したり縮減したりしているだけなのです。


反相関主義に潜む「第二の人間中心主義」

実在論的転回や反相関主義の潮流は、しばしば「人間中心主義からの脱却」を自らの正当化根拠として掲げてきました。

しかし、検証条件を原理的に欠いた「相関外部」へと飛躍しようとする態度は、かえって「自分たちは相関の外部に到達できた」という独断的な宣言に陥ってしまいます。これは形を変えた別形態の人間中心主義の再生産にすぎません。

「相関外部に出さえすれば人間中心主義から脱却できる」と考えること自体が、不可知な世界の中で生命が可知領域を生成し拡張してきた歴史を矮小化してしまう態度なのです。

本論が無効化するのは、まさにこの「いかにして相関を突破するか」という問いの立て方そのものです。


牢獄からの脱出から生命の営みへの回帰

相関から脱せるかどうかは問題ではありませんでした。

生命は相関の牢獄に閉じ込められているのではありません。生命は最初からほぼ何もわからない世界のただ中にあり、その内部で自らの身体・感覚・他者との相互作用・言語・道具・科学を通じて、扱うことのできる範囲を局所的に形成し続けています。

ユクスキュルの「環世界」、ベルクソンの生命論、ヴァイヒンガーの「かのようにの哲学」、マトゥラーナ&ヴァレラの「オートポイエーシス」が示唆するように、生命の営みとは、不可知な世界の真っ只中に置かれた生命がただ「生きる」ための実践として可知領域 K(F) を仮構し、拡張し、共有していくプロセスそのものであり、人間の理性的科学的な営みもその先に位置するものなのです。

「相関主義の突破」を「これまで扱えなかった差異を、可知なものとして扱えるようにしていく営み」と捉え直すならば、それは人類を含めた全ての生命がずっと当たり前に続けてきた実践そのものなのです。

よって、「問い」は以下のように転回しなければなりません。

「不可知的な世界の内部で、生命はいかにして可知領域を形成し、拡張し続けるのか」

相関主義論争の帰結とは、認識の外部へ飛び出すことではなく、認識が世界の内部でどのように立ち現れ、確かさを増していくのかを問うことにあるのです。


主要参考文献

  • Kant, I. Critique of Pure Reason. 1781/1787.

  • Wittgenstein, L. Tractatus Logico-Philosophicus. 1922.

  • Meillassoux, Q. Après la finitude. 2006.

  • Stroud, B. "Transcendental Arguments." 1968.

  • Uexküll, J. v. A Stroll Through the Worlds of Animals and Men. 1934.

  • Bergson, H. L'Évolution créatrice. 1907.

  • Vaihinger, H. Die Philosophie des Als Ob. 1911.

  • Maturana, H. R., & Varela, F. J. Autopoiesis and Cognition. 1980.

  • Lewis, D. Parts of Classes. 1991.


論文1 「相関主義の突破」という問いの無効化―認識論と存在論の峻別に基づく整理と生命論的転回


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