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寄進帳に名前を見つけた日

祖先調査をしていると、探していたものとは違う方向から、突然資料が現れることがある。

今回もそうだった。

きっかけは、国立国会図書館デジタルコレクション。
何気なく検索を掛けていたところ、これまで見かけなかった寺誌がヒットした。

寺の名前は見性寺。
場所は静岡市清水区八木間。港のある興津から少し山に入った場所にある。

最初は、ただの寺誌だと思っていた。

ところが、読み進めていくうちに。
寺の歴史とは別に、寄進帳などの記録資料がまとめられていることに気が付いた。

そして、その巻末資料の中に
明治12年の「大般若経志納者芳名帳」があった。

そこに、全文検索でヒットした「荒田浅五郎」という名前があった。

私は以前から、この浅五郎という人物に引っかかっている。

父方の先祖調査の中で見えてきた人物であり。
高祖父の母である『はつ』の父として戸籍に現れる人だ。

ただ、この人物には少し厄介な問題がある。

明治19年式戸籍では、父に「亡」の記載が無い。
一方で、次の戸籍では補足が入り、両親の名前が記載されるようになる。

つまり。

  • 明治19年時点では死亡扱いではない

  • 後年になって父母情報が追加される

  • しかし、明治19年式あるあるの番地記載が無い

以前、市役所へ問い合わせた際には。
「荒田浅五郎という人物は村内に存在するが、娘との年齢差が少し不自然である」という理由から、同一人物と断定できないと言われた。

私自身も、その感覚は理解できる。

もし、文政7年生まれの娘の父が役所が見つけた浅五郎であり。
さらに明治期の記録に継続して現れる人物だとすると。

かなりの高齢になる。出生日がどれだけ若く見積もっても、享和~寛政ラインに乗る方ということだろう。

ただ、今回見つけた寄進帳は明治12年のもの。しかも、場所は小河内(本籍地)ではなく八木間。

八木間までは、川沿いの谷間を徒歩ルートで10〜15kmくらい歩くと到着するという距離感。もしかすると、古い時代には峠越えルートで近いけれど、険しい道だったかも知れない。

この地域の離れ方が、妙に引っかかる。小河内と八木間は、同じ生活圏内にはならない。小河内は山側、八木間は港寄り。

現代の感覚だと、平坦でも無い上に山の間を縫う様な道を移動するので・・・決して近いとは言えない距離。

けれど、祖母は終戦直後に、興津の港から小河内まで歩いたと言っていた。八木間の親戚宅に、しばらく住み込んでいたからだ。今のように「徒歩では無理」と切り捨てる距離感ではなかったのだと思う。

さらに、小河内には商店街のような場所は無かったはずだ。個人商店がぽつりぽつりと存在する程度。少し変わったものを手に入れるには、港町である興津まで出る必要があったのではないかと思う。ちなみに、興津には商店街がある。

そう考えると。八木間の寺に、荒田浅五郎という名前があること自体は、絶対に不自然とも言い切れない気がしてくる。

しかも、浅五郎という名前がデジコレででてくるのは寄進帳だけではない。

元々、小島地域(小河内含む)は駿河和紙という三つ叉という植物から作る和紙の名産地であった。江戸期からの話だ。

  • 東海農区五県聯合共進会事務報告書 第5回(明治34年)

  • 関西府県聯合共進会事務報告書 第8回(明治36年)

  • 第五回内国勧業博覧会受賞名鑑(明治36年)

などにも、小河内(小島地域)の荒田浅五郎の名前が現れる。

こちらはすべて半紙(和紙)出品者として記録されている。

小河内周辺は、土地が痩せていた地域であり。決められた年貢が納められず、和紙を作り年貢の足しとして収めていた地域。当然といえば、当然の流れだろう。

つまり、浅五郎という人物は。単なる戸籍上の名前ではなく。紙を作り、地域の中で活動していた人として、私の中でいつしか存在感を増してきたのだ。

ただ。ここまで資料が増えても、答えはむしろ遠くなる。
この寄進帳の浅五郎は、和紙作りをしていた浅五郎は果たして・・・。

  • はつの父本人なのか

  • 同じ名前を継いだ息子なのか

  • 「亡」が付かなかっただけなのか

  • かなり若い年齢で娘を持った父なのか

正直、今の段階では分からない。そして、考えれば考えるほど。どれも否定し切れない。肯定も出来ない。

少し笑ってしまったのは、その後だった。寺誌をまとめた僧侶の記録を追っていくと、どうやら前住職が私の高校で教師をしていたらしい。

さらに後年、寺の本堂を建て替える際に相談した相手として増田亮雄という名前が出てくる。坊主である。

この増田増田亮雄は、わが母校の在学時の校長だった。突然、歴史資料が「遠い昔」ではなく、自分の生活圏に戻ってきた感じがして。少し笑ってしまった。

まあ、余談はこのくらいにしておいて・・・。

今回、寄進帳を見つけたことで。浅五郎が誰なのか、答えが出た訳ではない。むしろ逆だ。資料が増えるほど、答えは遠ざかる感覚になった。

ただその代わり、これから何を調べればいいのかは、少し見えてきた気がする。

方法としては、寺に問い合わせてみるという手がある。

寄進帳がどの範囲の人を記録したものなのか。檀家のみなのか、地域外の人も含まれていたのか。

あるいは、小河内の荒田姓の家へ手紙を書いてみるか。ただ、江戸期の人など余程先祖を知っている家でなければ答えは貰えないだろう。

答えを急ぐより、この資料をどう使うか。そこから考えてみたいと思っている。

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やまゆき 大変光栄です!ありがとうございます❤️