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あとがきその2:新和はなぜ二次創作に不寛容だったのか?

本当にこれで終わりです。最後にこれだけは言いたかった。
ちなみにアイコン変えましたw


新和についての悪評

悪名高い「株式会社新和」

一連の連載を書き進める中、D&Dの日本語版を最初に販売した株式会社新和についての悪評を多く目にした。この会社については、既報の通り会社沿革も不明で謎だらけであり、今もって不明点が多いが、D&Dに関して聞こえてくるのは良くない話ばかりである。即ち、

  1. 版権管理に対する過剰とも思える対応

  2. 機関誌や大会運営をボランティアゲーマに行わせる

  3. AD&D発売後のパブリッシャーとしての対応の拙さ

に集約されるが、2と3については、同時代、当事者だった方々の、多くの意見や証言もあり私が語る立場になく知識も持ち合わせていないため、1の、同社の版権管理について私見を述べたいと思う。まずは、実際にどのような事件が語られているかを列挙する。

①ビホルダー無断利用

最も有名で、実際に発生したことが明確なのはこれだろう。少年ジャンプ1988年22号に掲載された漫画「BASTARD!! -暗黒の破壊神-」(萩原一至)にビホルダーを名前とイラスト付きで登場させたことである。結果として単行本収録時に別の似たキャラに修正されたのだが、その修正がどこからの指示によるものであったのかが問題の核心である。新和またはTSRからクレームによるものなのか、集英社社内で問題視されて自主的に修正したのか、どうだったのだろう(私は後者だと思っている)。

だだこの件については、該当漫画が他社著作物を無断使用したのは事実であり、もし新和やTSRがクレームを出したとしてもそれは極めて正統なもので、責められるべきは漫画作者と集英社編集部にある。

②「ロードス島リプレイ」出版拒否

コンプティークで1986年9月号より連載していた「D&D誌上ライブ ロードス島戦記」(ロードス島リプレイ)を、1988年に単行本として出版すること認めなかったという事件である。この件は、コンプティーク誌87年6月号に単行本化が予告されたにもかかわらず、単行本化がされないまま88年7月号で「諸般の事情」で連載終了が告げられていること、安田均氏の著作(日本現代卓上遊戯史紀聞P18)や柳田真坂樹氏のNote記事などに、経緯の記載があるため実際にあったものと思われる。

ここで注目したいのが、この否認は新和が行っておりTSRが直接指示や判断をしたわけではないという点である。「新和さん側からTSRはそんなことは認めないと主張されました」と上述の安田均氏の著作にあるし、柳田氏やその他の情報でもそのように書かれている。即ち、新和がTSRの意を汲んで、独自に判断を行っていたという事である。そのことの理由と是非については後述したいと思う。

なお、同時期(1987年)の黒田幸弘「D&Dがよくわかる本」でも、企画から出版までに2年も掛かったという件があるが、こちらについては、同書あとがきに新和の協力が示唆されており、また同書は事実上オフィシャルブックの扱いであった事から著作権法規上も商習慣上も(ちょっと配慮しすぎかたなと思うが)問題はなかったと思う。なお、黒田氏はロードス島リプレイに先立つ86年1月よりコンプティーク誌において「クロちゃんのRPG講座」としてTRPG=ほぼD&Dの解説を連載していた。

③同人つぶし行為

こちらのサイトや、Wikipediaにも書かれていることを信じるならば、未訳モジュールのサークル内頒布、コミケ頒布物への警告、リプレイ同人誌のD&D固有表現の塗り潰し指示、新和が運営するDFC以外のサークルを非公認とするなどの「取り締まり」が、新和により行われたと言われている。ただし、リンクしたサイトにも伝聞だと書かれており、Wikipediaの出典も消えているかリンク切れの状態ゆえ、真偽は不明である。

上記が実際にあったことだとしても、新和の判断が必ずしも間違っていたとは言えない。例えばD&Dのロゴをそのまま同人誌に使っていたならそれを咎めることには当然であり、和訳の頒布について著作権法上の私的利用の範疇を超えるという判断もとれなくはないだろう。

ただし、リプレイや独自シナリオの頒布まで踏み込んでいたとすれば、相当の議論と反感があって然るべきである。新和は、本来ユーザーの拡大に寄与するべきファン活動にまで(自社の権益を守るために)規制していた可能性がある。でなければ、このような情報が訂正されずに残り続けることはないからである。

ただし1980年代の著作権遵守意識が、今よりもはるかに低かったことは確かである。オークションで見かける同時代の同人誌においては、アニメ作品のタイトルロゴをそのまま利用しているようなものも散見される。これらは日本では黙認されても、海外版権が絡む場合は必ずしもそうではないことは留意すべきだろう

新シミュレイター11号(1987年夏)の株式会社新和の広告
ようやく商品ラインナップをテキストで上げるようになってきているが、未だにショップ名だけを表記した広告。この時期まで、TSRからパッケージ写真を広告で利用することを止められていたのか?(勝手に忖度していただけと思うが)

原因はTSRなのか、新和なのか

結論で言うと、このような強権的なライセンス管理を行った張本人は、TSRではなく新和の判断だと思っている。その理由をいくつか述べる。

①TSRの米国内におけるライセンス管理

TSRは1982年までは、副次創作物について比較的寛容な立場だったように見える(ゲイリー・ガイギャックスが社内で一定の力を維持していたからかも知れない)。だが、ガイギャックスが一時的に去り、1983年に”Role Aids”というD&Dサプリメントを出版していたMayfair Gamesへ訴訟を起こしたあたりから、徐々に方針が変わっていったようだ。但しメイフェアとの係争においてTSRが完全な勝訴とならなかったこともあり、その後はコピー品や商標の無断利用、公認表記による優位誤認に対する厳しい対応は継続したものの、それ以外のサークルレベルの副次創作に対する規制は行った形跡がない。

流れが変わったのは、1994年に、D&Dの利用規約として一切の副次創作の頒布を禁止、許可制とすると表明したことである。これは当然ながらユーザーの強い反発を買い翌年撤回、TSR衰退の原因ともなったが、本件は新和とのライセンス契約終了後の話であり、新和の行動に影響を与えたとは思えない。

即ち、新和と契約をしていた期間、TSRは米国内でも、比較的穏当な対応しか行っていなかったという事である。

②日本以外へのTSRの対応

例えばフランスにおいては、1982年よりTransecomという会社が仏語に翻訳しD&Dの販売を行っていた。このライセンスは、1989年7月に(TSR側の販売戦略の変更により)終了するが、その前後で同社は、独自のシナリオやサプリメントを製作しフランス国内で販売しており、それに対しTSRがクレームなり訴訟を起こしたという話は全くない。Transecomと新和の各々が締結した契約に差があったのかも知れないが、少なくともTSRが、副次創作に対してそこまでガチガチの対応を行うつもりがなかった証左ではないだろうか?

③メディアワークス移管後の対応

1993年に、国内のライセンスがメディアワークスに移管したのち、同社は新和がやってこなかったようなことを次々と実施する。出版物の体裁を変更し、イラストを差し替え、積極的にリプレイを掲載し出版するなど、とても同じ会社との契約によるものとは思えない変わりっぷりである。そして、メディアワークスが、先に述べたような過剰なライセンス管理を行ったという情報は全く聞こえてこない。

これは、契約時に日本側の主張を飲ませたからかも知れないし(同社は元が映画事業も行っていた角川なので、新和と違い法務部門が海外ライセンス契約に慣れていた可能性がある)、TSR本社の方針変更(上記の1994年の発表はあまりに反発が大きく95年には取り下げている)によるものかもしれないが、そもそも、TSR自体が、新和が行ったような過剰な統制を期待していなかったと考えるのが正しいと思う。

1988年後の新和の広告(シミュレイター誌より)
この頃になるとパッケージ写真や商品ラインナップを掲載するようになるが、内容や、価格。、フルナインナップ、遊び方などがぱっと見でわからない。知っている人だけが買えばいいよということなのだろうが、インターネットのない時代にどうやって調べれば良かったのだろうか?
(日本で個人がインターネットを使えるようになりサービスプロバイダが出来たのは1993年)

管理重視会社の失敗

一般論としての海外ライセンス契約

海外製品(この場合はTSRのD&D)をライセンス生産する場合において、ライセンシー(新和)に非常に強い(不利な)契約を求められることは往々にある。ライセンサー(TSR)からすれば、万が一ライセンシーが勝手にオリジナル製品に自社ブランドを付けて販売し始めたり、勝手にサブライセンスを始めたりされることを最も恐れるので、契約書文面は非常に厳しいものとなりやすい。新和は中小の輸入代理店であり、このようなライセンス契約についてはほとんど経験がなかったのだろう。TSRが出してきた極めて厳しい契約書を丸呑みし、それを厳密に守ろうとしたことは想像に難くない。

営業軽視、管理重視の会社の末路

安田氏の著作中に、新和の上層部との商談が決裂した後、D&Dの翻訳者である大貫昌幸氏から謝罪されたというエピソードがある。これを見る限り、新和という会社は日本の中小企業にありがちな、管理部門(経理や法務)の力が非常に強い会社であり、営業やマーケティングは下位に置かれていた会社のように見える。通常はそのような会社でも、カリスマ的な社長がうまく調整し会社全体の最適解を導き出そうとするのだが、その機能がこの会社ではうまく働いていなかったのかも知れない。

なお、日米の文化的な違いとして、日本の場合訴訟を極端に避けようとする風潮がある。米国の場合、「訴訟上等、法廷で決着を付けてやるぜ」というスタンスであり、そのあたりも影響していたのかも知れない。

ユーザー層醸成の限界

新和は、D&D発売後に各地でプレイ大会を開いたり、プレイヤーやマスターの登録制度、オフィシャル誌の展開などを行った。だが、パブリッシャーだけの力では限界があり、プレイヤー独自のグループが自発的に活動してくれることが普及の原動力となるはずである。しかし新和は(言われていることが正しいとすれば)それらの芽を自ら摘むような行為を行っている。

これが、RPGが世間一般に普及した状況なのであれば、プレイヤーの囲い込みや自社運営による利益最大化は効果的だったかも知れない。だが、何度もいうとおり、1985年という時期は、ようやくRPGについて認知が定着した程度の時期であった。ゲームマスターが何をすればいいのか、上手いゲームマスターとはどういうものなのかも分からず我流でプレイすることは、(うまいプレイヤーと同様)RPGの魅力を半減しユーザーの離反を招いてしまう。欧米のように100年ちかいミニチュアウォーゲムの土壌がある所とは全く違うことを、新和は気付いていなかった。

新和は輸入代理店であり流通業者にすぎなかった。それは企業風土として文化を醸成することを目指していたホビージャパンのような会社や、幾多の出版社とは根本的に異なったのである。

株式会社新和の失敗

世界で最も売れており、将来性も高いと思われていたD&Dの国内ライセンスを取得できた新和は、これを手放すことは絶対に避けたかった。だからTSRとの契約を過剰なまでに順守し、他者にもそれを強要する。経験がある会社であれば、そのあたりの阿吽の呼吸を読むことが出来るしライセンサーと交渉も出来るが、今まで代理店同士の輸入業務しか行ったことのなかった新和には荷が重すぎ、TSRに”忖度”することしかできなかった。

結局、こういった経緯で陥った硬直したマーケティングと、プレイヤーの期待を裏切るような様々な行為によって、新和の販売戦略は時を経るにつれ失速し、結果として他のTRPGとの競争に太刀打ちできなかった。それ以外の要素(大貫氏の急逝など)のほうが大きいのかも知れないが新和が成功できなかった原因のひとつではあったと思う。

「ザ・ゲームカタログ」(1987年12月 白夜書房:日本アダルトゲーム協会監修)とその新和の広告
D&D以やTSR以外のゲームも掲載した珍しいタイプのもの。D&Dがもしだめでもゲーム輸入業者として生き残ることを模索していたようだが残念ながら成功しなかったようだ
なお、同書の筆者にはカデークラブの越田一郎氏やゲーム研究家の草場純氏らが名を連ねている隠れた名著である


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