SPIは”いつ”消滅したのか?
日本でウォーゲームブームがまだ高潮だった1982年初頭、SPIは10年の短い生涯を終えた。そのことは、当時の日本では”巧みに隠蔽”されていたのかも知れない。タクテクス誌(SPIゲームの国内輸入を手掛けていたホビージャパンのウォーゲーム雑誌)では、不思議なことに、翌1983年9月発売の11号にまで、SPIゲームの記事や広告が掲載されつづけていたのである。これはどういうことなのだろうか?
今のようにインターネットで世界中の情報はすぐに分かる時代ではなく、なにがしかのメディア報道がなければアメリカの中小企業(=SPI)の状況など分かりようがなかった頃の話を、当時の資料や関係者の証言から再構築していく。
SPI社の最期
SPI消滅の要因
SPIのデザイナー、レドモンド・サイモンセンのインタビュー記事によると、環境要因として70年代末のスタグフレーションとウォーゲーム市場の収縮と共に、SPIが通販メインから店舗販売へシフトしたことを最大の要因に挙げている。
ホビーショップでパッケージ販売するのであれば、販売戦略としても流通時の破損を防ぐためにも高コストなボックス封入は必須であり、かつ小売店や問屋の中間マージンも確保せねばならず、さらに在庫リスクも抱えることとなる。SPIのゲーム価格は総じてアバロンヒルより安価に設定されていたため利益率が低かったこともあり、ボックスセットの販売比率が増えるにつれSPIの利益率は急落した。
創業当初より店舗流通を志向しており、親会社が印刷会社、パッケージング会社だったアバロンヒルは、長年これらのノウハウを蓄積しており、それだからこそ店頭販売で優位に立てていたのであって、ジム・ダニガンの見栄だけでこれを模倣できるものではなかった。また、アバロンヒルの社長エリック・ドットは経理畑で冷徹な経営判断が出来たが、芸術家肌のゲームデザイナーであるダニガンに経営管理は荷が重すぎた。
それにより、SPIは1970年代末には様々なヒット作で売上は上がっているにも関わらず、利益やキャッシュフローは極端に悪化していた。
SPI消滅までの経緯
このような状況で、1979年末か1980年に(資料により異なる)ダニガンはSPI代表を辞任する(解任されたのか?)。その後混乱の末S&Tの創刊者であり当時経営コンサルタントを行っていたクリス・ワグナーが呼び戻されトップに就任する。
ワグナーはベンチャーキャピタルからの融資を得て当面の運転資金を確保すると、当時米国で大ヒットしていたテレビドラマ「ダラス」の版権を得てロールプレイイングゲームを制作するが、作品的にも売り上げも大失敗となった。結果的にこれが致命傷となり1981年末には、印刷会社への支払いも滞り新規ゲームの出版もできなくなっていた。
1982年1月、SPIからの最終巻となるS&T #90を販売して事実上業務を停止し、ワグナーとサイモンセンは支援先を探して奔走する。その中にはアバロンヒルや日本のホビージャパンも含まれていたというが、結局としてTSR社が40万ドルを融資し、SPIはそれでベンチャーキャピタルや債権者への返済をしたもののほとんど運転資金は残らなかった。TSRは(恐らくは当初からの目論見だったのだろうが)担保としていたSPIの在庫と版権のみを引き上げて会社を解散させた。
こうしてSPIは消滅した。その後数年間は、TSRはS&TやゲームにSPIのロゴを添付していたものの、TSR自体の経営の混乱とウォーゲームへの興味を失ったことからそれもフェードアウトし、栄華を誇ったSPIは完全に消滅したのである。
SPIは「倒産」したのか?
結論でいうと、SPIは倒産していないし、法人格を委譲した(TSRに吸収合併された)わけでもない。TSRに、融資の担保として確保していた商品在庫と知的所有権を差し押さえられた状態で会社を解散したのである。もしSPIに債務が残っていれば解散など出来ないが、それはTSRからの融資により返済できていた。問題は、簿外債務とでもいうべきユーザーへの債務である。
SPIは、独特のサブスクリプション制度で、S&T誌を生涯受け取れる権利をユーザーに販売していた。また、販売前の未開発製品の代金を前金で受け取ってもいた。この権利は、契約上SPIの法人格が消滅すれば履行しなくとも良いような契約になっていたのだろう。さらにいうと、当時のSPIは雑誌の編集部員だけで40人近い社員を雇用し、高額なニューヨーク市内にオフィスを構えていた。TSRは、SPIのゲームは欲しかったが、これらの引き取りは何としても回避したかった。それによって編み出されたのがこのスキームである。
SPIは倒産はしていない。解散しただけであり、ライセンスがTSRに移管されただけだった、表面上は。しかしそれは、圧倒的なユーザー離れを引き起こすことになるが、それは後に触れたい。
隠された「SPI消滅」の事実

SPI消滅より既に1年以上経過している
日本でのSPIゲームの展開
SPIのゲームは、1975年頃には都内の一部ホビーショップで販売していたというが(リンク参照)、当然日本語訳もなく、誰もが簡単に手にすることが出るものではなかった。本格的に流通し始めたのは1980年に、ホビージャパンが和訳付きで販売しはじめてからである。ちなみに、ホビージャパンが輸入販売したのは箱入りパッケージのものに限定されていた。
なお、SPIがボックスでの販売を開始したのは1978年7月からであり(それまでも、デザイナーズエディション、パワーエディションなどとして試験販売されたことはあった)、ホビージャパンはそれを見て輸入販売に踏み切ったものと思われる。SPI製品は、1980年8月号のホビージャパン誌で紹介されたのち、継続的に同雑で紹介され続ける。
そしてホビージャパンは、1981年の年末(表記は1982年1月)に日本で最初のウォーゲーム専門誌「タクテクス」を発刊。その記念すべき創刊号の最初の記事はSPIの「スターリングラードの戦い」("Battle for Stalingrad (1980)"。のちの再販時のタイトルは「スターリングラード攻略」)の作戦分析であった。その後も、4号(82年7月)までは継続的に記事やゲームガイド、広告が掲載されていたが、5号(82年9月)の”TimeTripper (1980)”の記事を最後に、タクテクス誌上からSPIゲームの記載がいったん消えてしまう。
(念のために補足すると、ホビージャパン社は1982年の早い時期にはSPIが消滅していたことを知っていた=リンク参照)
公にされないSPI消滅の事実
その後、翌年の8号(83年3月)より、記事や広告が復活したが、先にも述べた通りこの時期には既にSPIは消滅していた。そして11号(83年9月)を境に広告も記事も全て掲載されなくなる。なお、後にリストを掲載するが、この時期は、記事も広告も対象ゲームが非常に偏っている。ホビージャパンの在庫処分が目的だったのでは勘ぐってしまうのは邪推しすぎだろうか?("Air War (1977)"については同年にホビージャパンよりライセンス販売が開始されたためその宣伝のためだと思われる)
なお、9号(83年5月)の米国ゲームショウの紹介記事で「TSRに吸収されたSPI」とほんのさらりと記載されていたり、また、"War in Europe (1976)"の記事では入手が困難だと書かれていたり、それとなくほのめかす記載がなされている。いずれにしろ、タクテクス誌上においては、83年9月(11号)まではSPIは「あるもの」として扱われていたということである。


その後のSPIゲームの国内展開
しかし、その後のホビージャパンの対応は(偶然だったのかも知れないが)結果的にはうまくいったようだ。ホビージャパンは、SPI消滅直前の81年末に、ゲームのローカライズについての契約に合意している。この契約はTSRにも引き継がれたらしく、1983年の「エアウォー」「スターリングラード攻略」「ベーシック3」を皮切りに人気作、秀作の日本語ローカライズ生産を開始、最終的にはあのモンスターゲーム"War in the Pacific(1978)"までもを販売している。さらにSPIの小型ゲームが月刊化されたタクテクスのミニゲームとして頻繁に添付されたことにより、消えたはずのSPIゲームが(米国以上に)手に入りやすい環境を構築した。これらは(縮小気味であったとはいえ)ウォーゲームのニーズを80年代を通して維持することに貢献したと思われる。
ウォーゲーム衰退の原因は何なのか?
1980年代初頭のウォーゲーム
(なお、この考察はあくまでも米国での話である。日本でのブーム退潮の要因は別に頁を改めたい)
一般的には、1974年のD&Dに始まるTRPGの隆盛と、1977年の第一世代パソコンブーム(Apple、TRS、Commodoleの原初御三家)によってニーズが分散し、80年代初頭にウォーゲームの市場が急激に縮小したと言われているが、果たしてそうなのだろうか?
もしそれが正しいとするなら、客観的に1981年または82年に、同業他社も同様に倒産や事業停止、撤退を行っていなければならないはずである、が、アバロンヒルを筆頭に、GDW、OGS、3W、メタゲーミング(スティーブジャクソンゲーム)、エクスカリバーなどはこの後も継続してウォーゲームを出版し続けているし、この前後に創業した会社すらある。
つまり、業界全体に影響を与えるような構造不況は、少なくともこの時点では発生していなかったということだ。TRPGについては元々がミニチュアウォーゲームからの派生であったことからも、ユーザーは被っていたが「どちらもやる」ことが多かっただろうし、PCゲームでまともなシミュレーションゲームが出てくるのは最初期でも1985年以後である。
SPIの失敗とその影響
であるから、SPIの失敗は、純粋にSPI固有の財務問題に起因するものである。年間最大で40作も出していれば、当然ながら売り上げにも濃淡があったはずである。これを前受金前提の通販スタイルで販売するならキャッシュフローも問題なかっただろうが、パッケージとして小売り流通することは在庫リスクに直結し、結果として運転資金の枯渇という結果になった。SPIにはそれをマネジメントする人材がいなかったか、いてもダニガンがワンマンすぎてコントロールできなかったのだろう。他社は、アバロンヒルのようにそもそもノウハウを持っていたか、GDWや3Wのように身の丈にあった経営を行っていた。それだけにすぎない。
そして一番問題なのは、TSR買収時に完全にユーザーを切り捨てたことである。TSRは、法人が異なるという名目で、S&Tのサブスクリプションを無効にし、未発売(未完成)ゲームの予約前受金の返金にも応じなかった(高梨俊一氏も25ドルの損害を被ったらしい)。この行いと、1982年初頭から1年半にわたり雑誌や新商品の発売が完全に停止されたことから、それまで培ったSPIとユーザーとの信頼関係を完全に破壊し、決定的な離反を招くことになった。
SPIのユーザーは、SPIだからこそ、SPIのゲームや雑誌を買っていたのである。それがテストプレイもろくにされていない出来損ないでも、"The Campaign for North Africa(1979)"のようなプレイ不可能な代物であってもである。それは、ユーザーとの親密なコミュニケーションと信頼関係、そして、何かまた新しいゲームシステムを見せてくれるに違いないという希望によるものであった。
TSRの致命的失敗
TSRは、先に述べた通りS&Tの定期購読者を容赦なく切り捨て、ゲーム開発者のほとんどの首を切った(彼らはビクトリーゲームズに移りアバロンヒルの資本の元でゲーム開発を継続した)。これにより、SPIへのシンパシーを完全に失ったユーザーは、もはやTSRの作るSPIのゲーム”だけ”は買わなくなったのである。
WikipediaのTSR社の英語版記事に、以下のような記載がある
But TSR soon learned that the main reason for SPI's large debt was that the wargame market had collapsed.
(しかしTSRはすぐに、SPIの巨額負債の主な原因はウォーゲーム市場の崩壊にあることを知った。)
これはTSR側からすると真実なのかも知れないが客観的には事実ではない。いくらSPIのロゴを付けて販売しても、もはやSPIのスピリットを継承していないTSRの商品にユーザーは見向きもしなくなった。ある人はアバロンヒルへ戻り、ある人は別の新興メーカーのゲームに向かい、ある人はウォーゲームを見限った。それだけである。
まとめ
世の中でいわれているような、TRPGやTCG、デジタルゲームとの競合によるユーザー減は、1980年前後に劇的に発生したわけではない。もっともっとゆるやかに、しかし着実に進行していったのである。ウォーゲームのもつ構造的な欠陥(ゲームごとにルールが異なりそのルールの習得に多大な時間を要する)は強い参入障壁となって新規ユーザーを拒んだ(これはTRPGでも同じであるがTRPGの場合一つのゲームをシナリオを変えて繰り返しプレイしつづけるためそこまで大きな障害にはならない)。それは、特にコンピュータゲームにおいては容易に克服できるものだった。
歴史や戦争をゲームで再現したい、または歴史上のifを確かめたいという潜在的な欲求が消えてしまったわけではない。より高度な計算能力と膨大なデータを扱え、ボードゲームが不得意とする遮蔽や隠密移動を可能とし、そして圧倒的高精度のディスプレイを持つPCへ、そしてインターネットへと向かっただけである。
