14時のさおり
36歳、都内の事業部マネージャー。午後になると頭が動かなくなる自分に嫌気がさしたさおりは、「ランチファスティング」に飛びつく。昼食を抜けば午後がクリアになる——その仮説は半分だけ正しかった。午後の集中力を手に入れた代わりに、夜の食欲が暴走し始める。崩壊と再構築を経て、さおりがたどり着いたのは「抜く」でも「我慢する」でもない、昼食を設計するという発想だった。
1. 14時12分の空白
会議室のプロジェクターが青白い光を天井に投げている。さおりは右手のボールペンを親指でゆっくり回しながら、プレゼンテーションの3枚目のスライドを眺めていた。眺めていた、というのは正確ではない。目を開けて、スライドの方向に顔を向けていた。それだけのことだった。
発表者は営業企画部の若手で、名前は確か、村瀬。入社4年目。声に力がある。データの見せ方も悪くない。だが、さおりの意識は村瀬の声が作る波形の上を滑り続けて、1つの言葉も引っかからなかった。
時計の針は14時12分を指している。
さおりにとって、この時間帯は1日のうちで最も危険な領域だった。危険という言葉は大げさに聞こえるかもしれない。だが、年間売上9億円を管轄する事業部のマネージャーにとって、15分間の意識の空白は、文字どおり危険だった。
「——以上を踏まえまして、第3四半期の目標数値を、前年比112%に設定したいと考えております」
村瀬がこちらを見た。承認を求める目だった。さおりは一瞬の間を置いて——その間に頭の中の霧を力ずくで払いのけて——口を開いた。
「根拠の部分、もう一度いい? スライド6枚目」
自分の声がどこか遠くから聞こえた。村瀬がスライドを戻す間に、さおりはペットボトルの水を一口飲んだ。冷たい水が喉を過ぎるとき、意識がほんの少しだけ輪郭を取り戻した。だが、それは焚き火に息を吹きかけたようなもので、一瞬明るくなった炎はすぐに元の大きさに戻る。
スライド6枚目が映し出された。棒グラフと折れ線グラフが並んでいる。さおりはそれを見て、午前中ならすぐに気づいたはずの数字の矛盾を、今は30秒かけて探している自分に気づいた。
30秒。午前中の自分なら3秒で済む計算だった。
「……いいよ。次に進めて」
結局、矛盾は見つけられなかった。見つけられなかったのか、そもそもなかったのか、それすら判別がつかない。この判別がつかないという状態が、さおりにとっては最も恐ろしかった。
会議が終わったのは15時だった。さおりは自分のデスクに戻り、ノートパソコンを開いた。受信トレイに未読が23件。午前中なら20分で片づく量だ。さおりは1通目を開き、読み、閉じ、2通目を開き、読み、1通目に何が書いてあったか思い出せないことに気づいた。
36歳。体力が落ちたのだろうか。それとも、これが加齢というものなのだろうか。さおりは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。蛍光灯の白い光が目に刺さった。
2. 画面の向こうの正解
さおりが「昼食を抜く」という決断をしたのは、11月の第2週の水曜日だった。きっかけは、会社の健康診断でも、ダイエット本でもなかった。
インスタグラムだった。
フォローしているアカウントの1つが、「ランチファスティング」というハッシュタグをつけた投稿をしていた。投稿者は30代の女性で、マーケティング会社の執行役員。整った文章で、こう書いていた。
「昼食をやめたら、午後の会議で集中できるようになりました。頭の霧が晴れた感覚。これ、もっと早くやればよかった」
さおりは、その投稿を3回読んだ。頭の霧。まさに自分が毎日14時に感じているものだった。
その日の夜、さおりはベッドの中でスマートフォンを操作しながら、「ランチファスティング」「昼食抜き」「午後 集中力」で検索した。出てくる記事はどれも似たようなトーンだった。昼食を抜くと血糖値スパイクが起こらない。消化にエネルギーを取られない。午後のパフォーマンスが上がる。
Amazonで「ランチファスティング」と検索してみた。ファスティング用の酵素ドリンクやプロテインバー、置き換え食品がずらりと並んでいた。レビューには「午後の眠気がなくなった」「昼を抜いても意外と平気」といったコメントが並んでいる。星4つ以上の商品が多い。
理屈は単純だった。そして、単純な理屈ほどさおりには魅力的に映った。複雑なことは仕事で十分やっている。プライベートの意思決定は、なるべく少ない変数で済ませたかった。
翌日の木曜日、さおりは昼食を抜いた。
午前中の会議が終わったあと、同期の真紀が「ランチ行かない?」と声をかけてきたのを、「今日はいいや、ちょっと片づけたいことがあって」と断った。真紀は不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
12時から13時までの1時間、さおりはデスクで水を飲みながらメールを処理した。空腹は感じた。しかし、それは不快というほどではなかった。むしろ、胃が軽いことに一種の爽快感すらあった。
そして、14時が来た。
さおりは会議室の椅子に座り、プロジェクターの青白い光を浴びながら、村瀬の後輩にあたる新人のプレゼンを聞いていた。そして気づいた。聞こえている。言葉が、数字が、ロジックの流れが、ちゃんと頭に入ってくる。
スライドの7枚目に、前回見逃したかもしれない類の数字の矛盾があった。今日はすぐにわかった。
「そこ、第2四半期の数字と合ってないんだけど、確認してもらえる?」
新人が慌ててノートパソコンに向かう。さおりは水を一口飲んだ。冷たい水が喉を過ぎるとき、今度は意識が明瞭なままだった。
これだ、とさおりは思った。
3. 完璧な1週間
最初の1週間は、すべてがうまくいっているように見えた。
月曜から金曜まで、さおりは昼食を完全に抜いた。水と、ブラックコーヒーだけで午後を乗り切った。14時の会議での集中力は明らかに上がった。メールの処理速度も戻った。午前中の自分と午後の自分の間にあった断崖が、なだらかな丘に変わった感覚があった。
体重も動いた。3日で0.8kg減。1週間で1.4kg減。さおりは毎朝、洗面所の体重計に乗るのが楽しみになった。
真紀は月曜から3回、ランチに誘ってきた。さおりは3回とも断った。4回目はなかった。
4. 19時の暴走
2週目の水曜日、さおりは19時にオフィスを出た。丸の内仲通りを歩きながら、ふと気づいた。腹が、異常に減っている。
空腹感、というのとは少し違った。もっと原始的な、体の奥から湧き上がる衝動のようなものだった。朝食は食べている。ヨーグルトとグラノーラと、バナナ半分。合計300kcalに満たない朝食を7時に食べて、それから12時間。体はとうに燃料切れを起こしていた。
さおりは東京駅の地下街に入った。目的はなかった。まっすぐ帰ればよかった。しかし、足が勝手にデパ地下の方向に向いた。そして、足が止まったのは、惣菜売り場の前だった。
ガラスケースの中に並んでいるのは、鶏の唐揚げ、エビフライ、コロッケ、ポテトサラダ、マカロニグラタン。どれも琥珀色の油で艶やかに光っている。さおりの口の中に、急速に唾液がたまった。
だめだ。帰ろう。さおりはそう思った。思ったのに、手が動いていた。唐揚げ5個入りのパックと、コロッケ2個と、ポテトサラダのミニカップと、2割引のシールが貼られた海苔弁当を、気がつけばレジに持っていっていた。
帰宅したのは20時半。さおりはキッチンのテーブルに買ったものを並べ、冷蔵庫からビールを1本出した。最初のビールを半分飲んだところで、唐揚げに手を伸ばした。衣のサクッという音が、静かなキッチンに響いた。
1個。2個。3個。
4個目を噛んでいるとき、さおりは泣いていた。
なぜ泣いているのかは、自分でもわからなかった。悲しいのか、悔しいのか、情けないのか。たぶん全部だった。36歳の事業部マネージャーが、キッチンのテーブルでデパ地下の唐揚げを頬張りながら泣いている。客観的に見れば滑稽だろう。だが、さおりにはそのときの自分を笑う余裕はなかった。
5個目の唐揚げを食べ終えたあと、コロッケに手を伸ばした。海苔弁当も開けた。ポテトサラダも食べた。ビールは2本目に入っていた。
食べ終わったとき、テーブルの上には空になったパックとアルミの缶が散乱していた。時計は21時40分。さおりは膨れた腹を抱えて、リビングのソファに横たわった。天井の照明が白すぎて目を閉じた。
胃が重い。頭も重い。そして、明日の朝の体重計のことが、もう怖かった。
5. 固定化するパターン
3週目に入ると、パターンは固定化した。
昼食を抜く。午後はクリアに過ごせる。しかし、19時を過ぎると、空腹が臨界点を超える。帰り道にコンビニかデパ地下に寄る。買う量は日に日に増えた。唐揚げだけだったのが、おにぎり2個と菓子パンが加わり、さらにアイスクリームが加わった。
体重は2週目の終わりに1.4kg減だったのが、3週目の終わりには0.6kg減に戻っていた。差し引きで、3週間かけて0.6kg。昼食を21回我慢した対価が、0.6kg。
さおりは体重計の数字を見ながら、自分がやっていることの全体像を初めて俯瞰した。
午後のパフォーマンスは確かに上がった。だが、その代わりに夜のコントロールを完全に失っている。昼に使わなかった意志力が、夜の帰り道で底をつく構造。朝から12時間、燃料を入れずに走り続けたエンジンが、夕方に暴走する構造。
これは設計として破綻している。
さおりはソファに座ったまま、スマートフォンで「ランチファスティング 夜 ドカ食い」と検索した。出てきた記事に、こんな一文があった。
「昼食を抜いた日は、夕食後の血糖値ピークが有意に上昇したという報告がある」
さおりはその記事をさらに読み進めた。昼食を抜くと、夕食の吸収が急激になる。血糖値が跳ね上がり、それを処理するためにインスリンが大量に分泌され、その反動でまた血糖値が急降下し、そして体はさらに糖を求める。つまり、夜のドカ食いは意志の弱さではなく、体が構造的にそう動いているということだった。
さおりは画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
意志の弱さではなく、構造。
その言葉が、喉に刺さった魚の骨のように引っかかった。
6. カプチーノと2枚のナプキン
転機は、思いがけない場所で訪れた。
11月の最終週の土曜日、さおりは代官山の小さなカフェにいた。大学時代の友人、はるかと月に1度の近況報告会。はるかは管理栄養士の資格を持ち、今はフリーランスで企業の社員食堂の献立監修をしている。
はるかはカプチーノを飲みながら、さおりの話を聞いていた。さおりは3週間のランチファスティングの顛末を、努めて淡々と話した。午後のパフォーマンスが上がったこと。夜のドカ食いが始まったこと。体重が結局ほとんど変わらなかったこと。
はるかは話を全部聞き終えてから、カップをソーサーに置いて言った。
「さおりさ、午後の眠気の原因って、1つだと思ってるでしょ」
「え? 血糖値スパイクでしょ? 昼食の糖質で血糖値が上がって、急降下して——」
「それは1つの原因。でも、もう1つあるの」
はるかはナプキンの裏に、ペンで簡単な図を描いた。横軸が時間、縦軸が覚醒度。午前中は高く、昼過ぎに一度下がり、夕方にまた上がるU字型のカーブ。
「これ、サーカディアンリズムっていうんだけど、体内時計のリズムで14時から15時くらいに覚醒度が下がるの。これは昼食を食べても食べなくても起こる。生理現象」
さおりは図を見た。「じゃあ、昼を抜いても午後は眠くなるってこと?」
「なる人はなる。問題は、さおりの午後の眠気が、血糖値スパイクのせいなのか、このサーカディアンリズムのせいなのか、それとも両方なのか、切り分けができてないこと」
さおりは黙った。確かに、昼食を抜いた日でも、14時台に軽いだるさを感じることはあった。完全にゼロにはなっていなかった。それは血糖値スパイクがなくなった分だけ軽減されてはいたが、消えてはいなかった。
「で、もっと大事なことがあるの」
はるかは2枚目のナプキンを引き寄せた。今度は1日3食の時間軸と、血糖値の波形。朝食、昼食、夕食のそれぞれのタイミングで血糖値が上がり、下がる曲線。
「さおりが昼を完全に抜いてるから、朝の7時に食べたあと、次に固形物が入るのが夜の20時。13時間空いてるよね」
「うん」
「13時間空いた体に、疲労と空腹が重なった状態で夕食を入れると、血糖値が急上昇するの。ドカ食いしなくても上がりやすくなる。さおりの場合、ドカ食いもしてるから、もっと上がってる」
はるかはペンで血糖値の波形に大きな山を描いた。夕食後の部分だけが、他の食事の2倍近い高さになっていた。
「昼の血糖値スパイクを避けるために、夜にもっと大きな血糖値スパイクを作ってる。トータルで見ると、3食食べてたときよりひどくなってる可能性がある」
さおりは自分の3週間を思い返した。午後のクリアさと引き換えに、夜のコントロールを失い、体重も変わらず、毎晩テーブルの上のパックの残骸を見ながら自己嫌悪に陥っていた。あの自己嫌悪は、意志力の問題だと思っていた。自分が弱いのだと。
「それ、私の意志が弱いんじゃなくて——」
「構造の問題。体がそう動くようにできてるの。昼を完全に抜いたら、夜に揺り戻しが来るのはほぼ当たり前。それを意志力で押さえ込もうとするのは、設計として無理がある」
はるかはカプチーノの残りを飲み干して、まっすぐさおりの目を見た。
「さおり、昼は抜かなくていい。昼を変えればいいの」
7. 3つの選択肢
「変える、ってどういうこと?」
はるかはメニューを横にどけて、テーブルの上にスマートフォンを置いた。画面にスーパーの惣菜コーナーの写真が映っている。唐揚げ弁当、カツ丼、焼きそばパン。
「さおり、ランチファスティング始める前は、普段のお昼ってどんな感じだった?」
「……コンビニのパスタか、菓子パン2個。たまにカップ麺」
「それ全部、糖質に偏ったメニューね。GI値って聞いたことある?」
「なんとなく」
「細かい数字はいいんだけど、要は血糖値を急に上げる食べ物か、ゆっくり上げる食べ物かの違い。さおりがランチファスティング前に食べてたものは、全部急に上げるやつ。それで午後に血糖値が急降下して、頭がぼんやりしてた」
「だから昼を抜いたら良くなったんでしょ?」
「良くなったのは、急上昇がなくなったから。でも同じことは、昼を抜かなくても、昼の中身を変えるだけで実現できる」
はるかはナプキンの裏に、3つの選択肢を書いた。
「1つ目。食べる順番を変える。野菜とたんぱく質を先に食べて、炭水化物を最後にする。同じものを食べても、順番だけで血糖値の上がり方が変わるという研究があるの」
「2つ目。白米や菓子パンを、毎日のデフォルトにしない。完全にやめなくていい。週の半分を、玄米とか味噌汁+おにぎり1個に替えるだけでいい」
「3つ目。食後に5分から10分歩く。コンビニに行く程度でいい。食後すぐの軽い歩行で血糖値の上昇が抑えられるというデータがある」
さおりは3つの選択肢を見た。どれも、昼食を抜くよりも簡単に見えた。
「それだけ?」
「それだけ。昼を完全に抜くより、昼の中身を1段階変えるほうが、夜のドカ食いも起こりにくい。だって、体に13時間も燃料を入れないということ自体がなくなるから」
さおりはカプチーノを一口飲んだ。カフェの窓から代官山の並木道が見えた。銀杏の葉が黄金色に染まっている。11月の午後の光が、テーブルの上のナプキンに影を落としていた。
「でも、午後の眠気が完全にはなくならないかもしれないんでしょ? そのサーカディアンなんとかのせいで」
「リズム。サーカディアンリズム。そう、なくならないかもしれない。でも、それは昼を抜いてもなくならないもの。別の対策がいる」
「たとえば?」
「14時台に重要な意思決定を入れないこと。その時間帯はメール処理とか事務作業に充てる。それだけで、判断ミスのリスクはかなり下がる。あと、15分の仮眠。デスクで目を閉じるだけでもいい」
さおりは笑った。「仮眠って、マネージャーが会社で寝てたらまずくない?」
「NASAのパイロットが26分の仮眠で覚醒度が54%上がったっていう研究があるけど」
「パイロットと一緒にしないでよ」
「原理は同じ。サーカディアンリズムで下がった覚醒度を、意志力で上げようとするより、短い仮眠で生理的にリセットするほうが効率がいい。問題は、会社の文化として許容されるかどうか」
さおりは考えた。自分のオフィスには、仮眠室はない。だが、昼休みに会議室の予約を入れて15分目を閉じることはできる。見られたら恥ずかしいかもしれない。だが、14時に意識が飛んでいるほうがよほど恥ずかしい。
8. 最初の「設計ランチ」
翌週の月曜日、さおりはランチファスティングをやめた。
正確に言えば、昼食を「抜く」のをやめて、昼食を「設計する」ことを始めた。
初日のメニューは、コンビニのサラダチキンと、カップの味噌汁と、おにぎり1個。合計でたぶん400kcalくらい。以前のパスタ弁当の半分ほどだが、ゼロではない。
食べる順番も変えた。まずサラダチキンを半分食べ、味噌汁を飲み、最後におにぎりを食べた。以前なら何も考えずにパスタの麺から食べていた。順番を変えるだけなのに、自分が何をどの順で口に入れるかを意識するという行為そのものが、妙に新鮮だった。
食後、さおりはオフィスのビルの周りを1周した。5分とかからない距離だ。11月の風は冷たかったが、不快ではなかった。
14時。会議室。村瀬のプレゼン。
さおりは自分の状態を注意深く観察した。完全に昼を抜いていた先週と比べて、どうか。
頭は——クリアだった。先週とほぼ同じか、わずかに劣る程度。昼食を完全に抜いたときほどのシャープさはないかもしれないが、3週間前の菓子パン2個を食べていた頃とは明らかに違う。村瀬の言葉が頭に入る。スライドの数字が読める。質問が浮かぶ。
「村瀬くん、スライド9枚目の顧客単価のところ、前月比じゃなくて前年同月比にしたほうが季節変動が消せると思うんだけど」
村瀬がメモを取る。さおりは小さく息をついた。
これでいい。完璧じゃなくても、これでいい。
そして、19時。オフィスを出たさおりは、丸の内仲通りを歩いた。3週間前と同じ道。だが、体の状態がまるで違っていた。
空腹は感じる。当然だ。だが、昼食を食べたのは12時半。今は19時。間隔は6時間半。3週間前の13時間とは、まるで違う時間だった。
空腹はあるが、あの暴力的な衝動はなかった。デパ地下の前を通ったが、足は止まらなかった。
帰宅して、さおりは冷蔵庫から鮭の切り身を出し、フライパンで焼いた。冷凍のほうれん草を解凍してお浸しを作った。白米を茶碗に軽く1杯。味噌汁を1杯。
食べ終わったとき、テーブルの上に空のパックは1つもなかった。ビールも飲まなかった。腹は満たされていたが、3週間前の膨満感とは質が違う。八分目という感覚を、久しぶりに思い出した。
さおりは食器を洗いながら、ふと笑った。
昼食を抜くのと、昼食を変えるのと。やっていることは全然違うのに、必要な努力はほとんど変わらない。いや、むしろ変えるほうが楽かもしれない。空腹を13時間我慢する忍耐力より、コンビニで手に取るものを1つ変える判断力のほうが、はるかに省エネだった。
9. 5行のルール
さおりが「設計」という言葉を意識的に使い始めたのは、2週目の木曜日だった。
その日、さおりはノートに自分のルールを書き出した。ルールと言っても、たった5行だ。
昼食は軽い1食にする。完全に抜かない。 炭水化物は最後に食べる。 食後に5分歩く。 14時台に重要な判断を入れない。 前日の睡眠が6時間未満の日は、普通の昼食に戻す。
5行目が、さおりにとっては革命的だった。
「戻す」ことをルールに含めるという発想。3週間前のさおりにはなかったものだ。3週間前のさおりは、「毎日抜く」か「もうやめる」かの2択しか持っていなかった。その間がなかった。
はるかに言われたのだ。「やめる日を先に決めておきなよ」と。
「やめる日?」
「そう。今日は昼食を食べていい日、っていう基準を先に作っておくの。睡眠が短かった日とか、会食がある日とか。その日に食べても、ルール違反じゃない。ルール通り」
「それって甘えにならない?」
「逆。毎日やると決めて1回崩れると、全部やめたくなるでしょ。でも最初から週3日って決めておけば、残りの4日に食べるのは想定内。挫折じゃなくて設計」
挫折じゃなくて設計。
その言葉が、さおりの頭の中で何度も反響した。
さおりは自分の過去のダイエットの歴史を振り返った。20代後半で始めた糖質制限。最初の2週間で3kg落ちて、飲み会で白米を食べた翌日に「もういいや」と全部やめた。32歳のときのジム通い。週5回のペースで3週間続けて、風邪をひいて1週間休んだら、そのまま退会した。34歳のときのプロテインダイエット。1か月続いて、出張の3日間で途切れて、プロテインの袋はキッチンの棚の奥で賞味期限を迎えた。
全部、同じパターンだった。高い目標を設定し、最初はストイックに守り、一度の例外で全体が崩壊する。白か黒か。やるかやめるか。間がない。
36年間、さおりはずっとそうやって生きてきた。仕事では成果を出してきた。白黒つける判断力は、マネージャーとして武器になった。だが、自分の体との付き合い方に、同じ思考パターンを適用した結果がこれだった。
5行のルールは、さおりにとって初めての「灰色」だった。完璧にやる日もあれば、そうでない日もある。そうでない日があっても、ルールの中にいる。その安心感が、意外なほど大きかった。
10. 「普通」の価値
12月に入ると、さおりの生活は静かに変わっていった。
月曜、水曜、金曜は「設計ランチ」の日にした。サラダチキンか、ゆで卵か、豆腐のスープか。炭水化物はおにぎり1個か、全粒粉のパン1切れ。食後に5分の散歩。
火曜と木曜は通常の昼食。真紀とランチに出ることもあった。定食屋でも、食べる順番だけは意識した。副菜と味噌汁から手をつけ、ご飯は最後に食べる。これだけで、午後のだるさが以前とは明らかに違った。
14時台の会議は、可能な限り避けるようにスケジュールを調整した。完全に避けられない日もあったが、せめてその時間帯には自分が発言の中心にならない議題を入れるようにした。
木曜日の昼休みには、誰もいない会議室で15分間目を閉じるようにした。最初は恥ずかしかった。2回目からは、もう気にならなかった。3回目には、15分後のタイマーが鳴ったとき、頭の中のもやが嘘のように消えていることに気づいた。
体重は、3週間でほとんど動かなかった。
以前のさおりなら、それだけで「効果がない」と判断してやめていただろう。だが、今回は違った。はるかに言われていたのだ。「最初に変わるのは体重じゃない。午後のパフォーマンスが先。体重は後からついてくる」と。
実際、午後のパフォーマンスは明らかに変わっていた。村瀬の部下の新人から、「最近の定例会議、質問が鋭くなった気がします」と言われた。褒めているのか怯えているのかわからない微妙な表情だったが、さおりは素直にうれしかった。
そして、夜のドカ食いは完全に消えていた。
正確に言えば、消えた、というより発生しなくなった。昼食で400kcal程度の燃料を入れているから、夕方の空腹はあの暴力的な衝動にまで達しない。帰り道にデパ地下の前を通っても、足は止まらない。帰宅して、普通の夕食を作り、普通の量を食べ、普通にソファに座ってテレビを観て、普通に寝る。
「普通」がこれほどありがたいものだとは、36年間知らなかった。
ある夜、さおりは夕食の片づけをしながら、ふとAmazonを開いた。以前検索したファスティング関連の商品ページがまだ履歴に残っていた。酵素ドリンク、プロテインバー、置き換え食品。3週間前はこれらを買おうか迷っていた。今は、味噌汁とサラダチキンとおにぎり1個で十分だということを知っている。道具を増やすより、選び方を変えるほうが早かった。
11. 忘年会という試験
12月の第3週、忘年会シーズンが始まった。
月曜日は取引先との会食。火曜日は部署の忘年会。木曜日はクライアントとのランチミーティング。さおりの「週3日の設計ランチ」は、今週は1日も実行できないことが確定した。
以前のさおりなら、ここでパニックになっていた。「今週はもう無理」「来週から立て直そう」。そしてその「来週」は永遠に来ない。
だが、今回のさおりはノートを開いて、5行目を読み返した。
前日の睡眠が6時間未満の日は、普通の昼食に戻す。
これに加えて、さおりは自分で6行目を書き加えた。
会食が連続する週は、食べる順番と量のコントロールだけに集中する。
設計ランチができない週があってもいい。それは想定内だ。そういう週は、できることだけをやる。食べる順番を守る。量を八分目にする。それだけ。
木曜日のランチミーティングは、イタリアンレストランだった。クライアントがパスタを頼んだので、さおりも合わせた。だが、先にサラダを食べ、パンはかごから1切れだけ取り、パスタは半分残した。デザートは断った。
14時半、さおりはオフィスに戻った。頭は——8割の状態だった。設計ランチの日の9割5分には届かない。だが、3か月前の菓子パン2個の日の5割とは比べものにならない。
8割あれば、仕事はできる。
さおりはメールの受信トレイを開き、1通目を読み、2通目を読み、3通目を読んだ。3通の内容をすべて覚えていた。3か月前の自分が見たら、それだけで泣いたかもしれない。
12. 右肩下がりの線
年が明けた1月の第2週、さおりはスマートフォンの体重記録アプリを開いた。
11月の第2週から記録をつけ始めて、約2か月。グラフには細かい上下動がジグザグに描かれているが、7日間の移動平均線は緩やかな右肩下がりを示していた。
11月第2週:57.2kg(移動平均) 12月第2週:56.8kg 1月第2週:55.6kg
2か月で1.6kg減。
劇的な数字ではない。ダイエット広告なら「たった1.6kg」と馬鹿にされるだろう。しかしさおりは知っている。この1.6kgは、夜のドカ食いの反動で得た1.4kg減(すぐに戻った)とは、まるで質が違うことを。
この1.6kgは、夜に唐揚げを頬張りながら泣いた代償ではない。昼食のおにぎりを最後に食べ、5分歩き、たまに15分目を閉じた結果だ。犠牲にしたものは何もない。むしろ、午後の仕事は以前より確実に良くなっている。
さおりはアプリを閉じ、カレンダーを開いた。1月の予定が並んでいる。来週の水曜日は真紀とのランチ。木曜日はクライアントとの打ち合わせ。金曜日は設計ランチの日。
こうやって1週間を眺めたとき、どの日に何をすべきかが明確に見える。やる日とやらない日。食べる日と軽くする日。走り続ける日と立ち止まる日。その全部が「設計の中」にある。
挫折が消えたわけではない。先週の金曜日、どうしても甘いものが食べたくなって、コンビニでシュークリームを買った。食べた。おいしかった。そして翌日のランチは設計通りに戻した。それだけのことだった。シュークリーム1個で世界は崩壊しない。
13. 14時12分、ふたたび
3月の最初の月曜日、14時12分。
さおりは会議室の椅子に座り、プロジェクターの青白い光を浴びていた。発表者は村瀬。第4四半期の報告と、来期の計画。相変わらず声に力がある。
さおりの手元には水のペットボトルと、午前中に書いたメモがある。メモには、村瀬のプレゼンで確認したい3つのポイントが書いてあった。午前中の自分が、午後の自分のために残した申し送り事項だ。
時計の針が14時12分を指している。4か月前と同じ時刻。同じ会議室。同じプロジェクターの光。
だが、さおりの頭の中は4か月前とはまるで違っていた。
村瀬の声が聞こえている。言葉が聞こえている。数字が頭に入っている。スライドの8枚目に、来期の予算配分に関する提案があった。さおりはメモの2つ目のポイントと照合した。
「村瀬くん、オンライン広告の配分、前期の実績だと費用対効果がここで頭打ちになってるんだけど、その上で1.2倍に増やす根拠は?」
村瀬がデータの入ったスライドに切り替えた。新しい運用ツールの導入効果のシミュレーション。数字を見た。1秒で理解した。
「なるほど。ツールの導入前提なら筋は通るね。ただ、導入が4月にずれたときのプランBも入れておいて」
「承知しました」
さおりは水を一口飲んだ。冷たい水が喉を過ぎるとき、意識は明瞭なままだった。
会議が終わったあと、さおりはデスクに戻った。受信トレイの未読は18件。15分で片づけた。
15時半、さおりはオフィスの窓から外を見た。3月の空は高く、丸の内のビル群の間に春の光が差し込んでいた。
今日の昼食は、コンビニの味噌汁と鮭のおにぎり1個と、ゆで卵。食べる順番は、ゆで卵、味噌汁、おにぎりの順。食後にビルの周りを1周。5分。
やったことはそれだけだ。
体重は4か月で2.4kg減った。1か月あたり0.6kg。広告に載せたら誰も振り向かない数字だ。だが、さおりはこの2.4kgに、4か月前に唐揚げを頬張りながら流した涙は1滴も含まれていないことを知っている。
さおりは小さく伸びをして、ノートパソコンに向き直った。
午後はまだ続く。そして、午後の自分は信用できる。
それが今のさおりにとって、体重の数字よりもずっと価値のある変化だった。
(了)
もし設計ランチのメニュー選びに迷ったら、Amazonの「ランチファスティング」関連商品も参考になる。酵素ドリンクや置き換え食品だけでなく、味噌汁やプロテインバーなど、さおりのように「軽い1食」を組み立てるヒントが見つかるかもしれない。
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