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母と推し活

母の趣味をどれか一つ挙げるとするならば、真っ先に"推し活"の三文字が頭に浮かぶ。
僕だけではなく、家族や友達も間違いなくそう思うほど、母の人生には途切れることなく推しの存在があった。

学生時代は洋楽にハマり、10代にして友達と海外を飛び回って外国人アーティストの追っかけをしていたそうだ。

そして25歳で結婚してのちに子供を3人産み、立派な主婦になってからも変わらず(むしろ子供が成人してからは一層)推し活に花を咲かせていた。

母は推しによってSNSアカウントを使い分けており、中にはフォロワーが1000人を超えるアカウントもあった。

そうして出会った推し仲間達と県外のライブやイベントに参加したり、新潟在住というハンデをものともせず定期的に東京で行われるファン同士の交流会に参加したりなど、一般の主婦にしては本当にアクティブに人生を謳歌していた。

そんな母がタイのイケメン俳優にどハマりし、推し活仲間達と一緒に遥々タイに行こうと数年ぶりのパスポートを取得した矢先、突然身体に不調が現れるようになった。

最初は全身の倦怠感程度だったが、次第に腰回りに痛みが生じ、長年勤めていたスーパーマーケットのベーカリー業務にも支障が出るようになった。

物心ついた時から風邪一つ引いたところを見たことがないほど健康が取り柄の母だったので、当時実家で暮らしていた僕は、母が口にする諸々の不調を実際に近くで見ながら内心かなり心配していたが、その状態でも「来週さ、夜行バスで大阪の推し仲間に会いにいくわ!」なんてことを嬉しそうに報告してくるので、当時の僕はどこか気楽に考えていた。


母の癌

しばらくしても倦怠感や痛みが改善しないので、これはさすがに何かあるんじゃないかと心配になり、病院嫌いの母を父と僕でなんとか説得して近所のクリニックへ連れて行った。

血液検査をしたところ、γ-GTPやAST・ALTといった肝臓関係の値が基準値を異様に超えてることが判明。

スマホで調べると、どうやらスナック菓子やら洋菓子やらの食べ過ぎも肝臓に悪い影響を与えるということを知る。肝臓、と聞いて真っ先に思い浮かんだのがお酒だったが、母はお酒がめっぽう弱く、アルコール類は一切口にしない人だった。しかしお菓子については主食と言えるほど大好きだったので、肝臓の数値を知ってもなお、僕と父は"どうせ普段の食生活が原因だろう"とその時は信じて疑わなかった。

そのまま近所のクリニックでエコー検査をすることになったが、まさかの直前で機械が故障したため、急遽紹介状を持って総合病院へ行くことに。

そこで改めて血液検査・エコーをしたところ、何やら不穏なものが見えたのか、簡易的な検査では終わらず、CTとレントゲン、そして肝生検といった大仰な精密検査をする運びとなった。
まさかこんな大事になるとは思わず、クリニックで簡単な検査をして「なんだやっぱり何もなかったじゃん」と胸を撫で下ろす未来を想像していた僕は、段々と不安が募っていった。

一泊の検査入院を経て、最終的な結果は2日後にお伝えします、と医師から言われる。

結果が出るまでの2日間は本当に気が気でなかった。
検査入院を終えて家に帰ってきた母と、僕と父、そしてたまたま帰省してきた弟を含め、気晴らしに車で出かけたりもしたが、観光地の店先で苦しそうによろよろと歩く母の姿を目にするとどうしても最悪な未来を想像してしまい、その度に息が詰まる思いがした。
どうか、なんでもない結果に終わりますように。この2日間は、ただただ祈るしかなった。

そうして当日。
僕は仕事のため、母と父の2人で検査結果を聞きに病院へ。

祈りも虚しく、そこで「肝内胆管癌ステージ4」という診断を突きつけられた。

そして現実は想像よりもずっと残酷で、すでに癌が色んな臓器に転移しているため手術は出来ず、抗がん剤による延命治療しか手段がないため、余命は半年〜1年とのことだった。

入院する必要はなく、何週間に一度通院をして抗がん剤を注射する治療になるため、闘病中でも基本的に自宅で過ごすことが出来るのが、病院嫌いな母にとってせめてもの救いだった。

そんな話を医師から直接聞いた父はその場で大号泣したらしい。しかし当の本人である母は少しも取り乱す様子もなく、なんなら「家のことを全て任せて先に逝けてラッキー♫」とまで言いながらへらへらと笑っていたそうだ。

そんな母の話を聞いて、ふと考えた。母が、闘病中でも変わらず毎日を楽しく過ごすために僕には何ができるだろう。そこで真っ先に思い浮かんだのは"推し活"だった。そうだ、この人にはこれがあった。
母が闘病中でも変わらず、推し活の日々を楽しく過ごせるよう精一杯サポートしよう。僕はそう強く思った。

自室に隠れて一晩大泣きして、翌日から母の前では絶対に涙は見せないと誓った。


母に起こった奇跡

そんな感じで、突然の癌宣告を受けた母だったが、その一ヶ月後には新潟で行われる推しバンドによるホールツアーと、横浜で行われるタイのイケメン俳優達による初来日フェスというビッグイベントが二つも待ち構えていた。

そしてこの二つのイベントで、思いがけない奇跡が起こる。



まずは推しバンドについて。

そのバンドは僕も母も大好きで、よく2人で関東のライブに行ったりもしていた。

そんな彼らがライブツアーで珍しく新潟に来るというので、ファンクラブの先行で当選した時の母は大喜びし、ライブの日をずっと心待ちにしていたのだ。

しかし前述のとおり、母は突然の癌宣告を受けることになる。それはライブの1ヶ月前のことであった。
癌の進行スピードは凄まじく、日に日に悪化する体調に母も弱気になり、ライブ観戦についてはほぼ諦めムードだった。

そこで僕は思い立って、そのバンドのボーカルの方にインスタでDMを送ってみることにした。

初めまして。いつも音楽拝聴しております。
突然のメッセージで大変恐縮ですが、ご一読いただけましたら幸いです。

私自身〇〇(バンド名)が大好きで、ライブには何度も足を運ばせていただき、その度に何度も救われてきました。いつも感謝しております。
そんな私の影響を受けてか、私の母も〇〇(バンド名)に魅了され、最近では母の方が私よりも足繁くライブに通うほど夢中になりました(新潟在住ですが1人で不慣れな飛行機に乗り福岡遠征をしたと聞いた時は驚きました、、笑)。

そんな母ですが、この度突然の癌宣告を受け、余生も長くないことが分かりました。

以前から楽しみにしていた新潟公演では、FC先行で当選した席で見ることは現状難しいですが、当日は車椅子で楽しく拝聴することを夢見て現在治療に励んでおり、私としても何とか一緒にライブを観たいという思いで精一杯治療をサポートしております。

そこで大変不躾なお願いで誠に恐縮ですが、ライブ前後などのほんの少しの時間でお会いさせていただけないでしょうか?
ご無理なお願いなのは重々承知しておりますが、母にとってこのライブが人生最後になるかもしれないと思うと何としても特別なものにしてあげたいという思いが止まず、不躾なお願いをさせていただいた次第でございます。
ご無理を申しまして大変恐縮ですが、ご検討いただければ幸甚に存じます。何卒よろしくお願いいたします。

貴重なお時間を割き、お読み下さいまして大変ありがとうございました。どうかお体ご自愛くださいませ。ツアーの完走をお祈りしております。

実際に送ったDM

そのボーカルはフォロワーが何十万人もいるような方なので、こんな長文を送ったところで当然見てもらえるわけがないと重々承知していたが、母のためにできる限りのことは全部やりたいという気持ちで一杯だった。

しかし、このDMを送った2日後。
まさかの出来事が起きる。

その日はたまたま母が一時的に入院をしており家にはいなかった。

深夜1時頃、眠りにつこうと電気を消して携帯を手に取るとインスタの通知が何件か来ていることに気がつく。
寝ぼけ眼かつ暗闇の中だったので差出人名がよく見えず、「どうせ友達だろう」と軽い気持ちでそのまま寝ようと目を閉じたが、残影で浮かんできたユーザーIDに何となく見覚えがあった。

あれ、ひょっとして...?

速攻で飛び起きて部屋の明かりをつける。
そして恐る恐る携帯を見返すと、その差出人は紛れもなくボーカルの方だった。

丁寧なメッセージありがとう。
お母さん、心配だね。
ちょっと考えさせてください。
新潟公演に来れるかどうかは今の時点ではまだ分からないですか?

リアルに口から心臓が出るかと思った。

早く返信しなくては!
緊張で固まっている指先をなんとか動かしながら、しどろもどろにメッセージを打ち込む。

内容としては、"体調が急変しなければライブは大丈夫だろう"と主治医から言われていることを必死に伝えた。

するとボーカルの方もすぐに返信をくださった。

そうか!それならよかった
ちょっと皆んなで話してみるね。
ひとまず当日来れることを祈ってます。
でもくれぐれもご無理せずに!

もう本当に、神様と会話をしているような感覚だった。一言一句に光が見えた。言葉が出ない、というのはこういうことをいうんだろう。全身の毛穴が開いて、心臓が激しく波打っていた。

足りない語彙力で精一杯の感謝の意を伝え、ひとまずボーカルの方の返信を待つ形となった。



それから2日後、退院した母が家に帰ってきた。

母が退院するまでは一連の件は内緒にしていた。病気になってから日課になっていた母のマッサージをしている最中にサプライズで打ち明けることに決めていたのだ。

母のむくんだ足をほぐしている最中、「来週のライブ楽しみだね」なんてさりげなく口にしてから例の一件をつらつらと話し始めた。最初は布団で寝そべりながら話を聞いていた母だったが、僕が「インスタにDMを送ってみた」と言ったあたりでガバッと起き上がり、事の顛末を聞き終えた頃には母の目には涙が浮かんでいた。
実際のDMを見せると、母は口元を手で隠しながら泣き出した。癌宣告を受けてもけろっとしていた母が、この時ばかりは嗚咽していた。生まれて初めて目にする母の泣く姿に、危うく僕も泣きそうになった。

この時点ではまだ会えるかどうかの返信が来ていなかったので、二人して「会えなくても返信もらえただけで十分過ぎるよね...!」と何度も繰り返して、あっという間に夜が更けていった。

そして夜の11時過ぎ。
布団に入ったものの、ひょっとして今から返信が来るかもしれない、と思うとなかなか寝付けなかった。しばらくして「さすがにこのタイミングで返信が来るなんて出来すぎてる」と自分に言い聞かせ、潔く眠りにつこうとしたところ、またもや突然にインスタの通知が届く。

おまたせ!
明後日、ライブ終わったらお会いしましょう。
当日受付にてお名前をお伝えください。
◯◯(僕の名前)、でいいかな?

今までの人生で一番変な声が出てたと思う。
脊髄反射でベッドから起き上がり、悲鳴に近い声を上げながら階段を猛ダッシュで駆け下りて母がいる寝室に飛び込んだ。

部屋に入るなり「やばい、返信きた!!!」と、布団で寝転がっていた母にボーカルの方からのメッセージを見せつける。母は目を丸くしてからすぐにぶわっと泣き出して「なんて良い人なんだ...」と二人で何度も頷き合った。このときから薄々気づいてはいたが、母は案外涙脆い。

洟をすする母の姿を見ながら、あの時DMを送ってよかったと、心の底から思った。


ライブ当日

待ちに待ったライブ当日。
母は朝から体調がすぐれずひたすら吐き続けていた。
何か物を口に入れるとすぐ吐いてしまうような具合で、二週間ほど前から始まった抗がん剤治療の副作用がよりによってこの日に強く出始めたようだった。

ライブ中何かあったらどうしよう。

メンバー達に会える喜びもあったが、正直なところ頭の中は不安で一杯だった。

処方された吐き気止めがようやく効き始めた15時過ぎ、なんとか吐き気も治まったので僕の運転で会場に向かう。
車内では母の大好きな曲を流しながら、気持ちをライブモードに切り替える。
朝から吐き続けてグッタリとしていた母だったが、なんとか気分も上がってきたようで少しだけホッとした。

そうして1時間弱高速を運転し、無事に会場に辿り着いた。

トランクから車椅子を取り出し、随分と痩せた母の身体をすっぽりと乗せる。
今日は父がいないので、僕がしっかり支えなくては。身を引き締めて、車椅子のグリップを強く握った。

入場時間までは1時間ほどの余裕があった。
その時間で、母の推し仲間達が会いに来てくださった。
母の病気については事前に知っていたようで、合流するとすぐに母の身体の心配をしてくれた。
旧友のように談笑を交わし、ツアートラックの前で写真を撮ったりしていたら、あっという間に入場時間が近づいてきたので解散することに。
ほんの少しの時間だったけれど、車椅子の母と変わらず楽しそうに話してくれる推し仲間の方々の姿を目にして、彼女たちの優しい人柄が十分に伝わってきた。そして、こんな素敵な人たちに支えられている母のことが自分ごとのように誇らしく思えた。

僕と母は車椅子席での観戦のため、入口のスタッフに声をかけ、誘導されるままに席へと向かう。

そうして案内されたのがサブステージ目の前の神オブ神席。
なんと2メートル先にはステージがあるほどのあり得ない近さだった。
その日、車椅子の方は他にいなかったので、僕達の席だけ明らかに浮いていた。VIP待遇さながら。

こんな近さで見たら死んでしまう、とあまりの緊張で震えながら母と2人で20分ほど待っていると、明るかった会場がふっと暗転して、ついに開演のSEが鳴り響いた。

待ちに待ったライブは、もう本当に感無量としか言いようがなかった。
演奏の途中、ボーカルの方が僕達の目の前で歌ってくれた一幕があった。
歌いながらずんずんとステージの袖を進み、手を伸ばせば触れることができるほどの距離まで近づいてくる。そしてなんと、車椅子の母とふいに目を合わせて、確かに一瞬うなずいてくれたのだ。この上ない出血大サービスに隣でわんわん号泣する母。

これまで母と色んなバンドのライブに行ってきたが、間違いなくこの日が人生最高のライブになった。

アンコールを含め、あっという間に約2時間30分のライブが終わり退場のアナウンスが流れる。
すると、僕達のところにスタッフの方がすっと近づいてきて「お客さんが全員退場されてからご案内いたします」と恭しく伝えられた。
ライブだけで十分過ぎるほど良い思いをさせてもらったのに、この後会えるなんてそんな贅沢があっていいんですか...?
あまりの緊張と恐れ多さで、正直生きた心地がしなかった。きっと母も同じ思いで、二人とも言葉を交わさず、その場でじっと待った。

そしてスタッフの方から再び声がかかる。
「こちらへどうぞ」と案内されたのは、楽屋スペースへと繋がる重厚な扉の目の前だった。

この扉の先に彼らがいる...!心臓が張り裂けそうな思いで母と一緒に待つ。
5分ほど待ったのち、ついにその扉が開かれた。

扉の向こう側から、フィクションのような光景が飛び込んできた。先ほどまでステージにいたメンバーのみなさんが手を振りながらこちらに向かって歩いてくる。まずはお礼を言うべきところ、あまりの神々しさに僕と母は言葉を失ったまま、何も出来ずにその場で固まってしまう。

真っ白になった頭で必死に言葉を探していると、まさかのボーカルの方から声をかけてくださった。

「えっお母さん若くないですか!? 本当にお母さん?」

変な声を上げながら大号泣する母。

場が一気に和んで、それからは車椅子の母を見舞いのように取り囲みながらメンバーの皆様としばしお話をさせていただいた。

ベースの方は、僕の目をまっすぐ見ながら「DM見たよ」と言ってくださり、ギターの方はわざわざ楽屋からピックを持って来てくださったようで、母は泣きながらそれを手渡しで受け取っていた。そんな一部始終をドラムの方は仏のような温かい眼差しで見守ってくださっていた。

ざっくばらんな話を10分ほどさせてもらった後、ちゃっかり母と僕の2人分のサインを書いていただき、メンバーの皆様と写真まで撮らせていただいた。

コロナ禍もあり握手については半ば諦めていたので、こちらからは何も言わないでいたところ、なんとボーカルの方から「ちゃんと消毒すれば大丈夫だから!」と言ってくださり、最後にメンバーの皆様と握手もさせていただいた。細くて長い指先なのに、握ると手のひらがしっかりと分厚くて、そしてビックリするくらい温かかったことを今でも鮮明に覚えている。

握手を終えて、最後に出来る限りの感謝を伝えると、ボーカルの方が「グッズいっぱい買ってくれればいいから!」と笑いながら言ってくださり、和やかな雰囲気でお別れをした。

後日、母は自身の闘病日記にて「確実にこの日は癌が消えてたと思う」と綴っていた。
たしかに、メンバーとの写真に映る母は、癌なんて全く感じさせないほどそれはそれは幸せそうに笑っていた。


推し俳優との奇跡

前述のライブの一週間後、母は横浜で開催されるタイの俳優達による大規模フェスに参加するべく、家族の同伴で新潟から横浜へ向かっていた。

推しの初来日イベントらしく、癌になる前から母はこの日をずっと楽しみにしていたのだ。

いくつかある母の推し活アカウントのうち、このタイ関係が一番フォロワーが多く、その界隈の中で母は有名人だったようで、どこかの国の王女様よろしく本当に大勢の方が車椅子の母を見舞いに来てくださった。

その推し仲間の一人が、まさかのサプライズを用意してくれていたのだ。

母にとある動画を差し出す。
見せてくれたのはなんと、母の推し俳優による自撮りの応援メッセージ動画だった。

「Hello, ◯◯(母の名前)さん〜!
いつも◯◯さんを応援しています。」

真っ白い歯を輝かせながらカメラに微笑みかけているイケメンのドアップ

インスタのフォロワーが400万人を超えるほどの世界的アイドルが、iPhoneで自撮りをしながら母の名前を呼んでいる。しかも、ひとつひとつ丁寧な日本語で話しかけてくださっていた。

その後はタイ語で、

「早く良くなってくださいね。
 僕はいつも応援しています。
 快方に向かうことを願っています。
 また会いましょう。」

マネージャーによる日本語の字幕付き

と、大変親身な言葉を送ってくださった。

この動画は母の推し仲間があらゆる手段を使って実現したものだそうだ。母の推し俳優とそのマネージャーは母の病気のことを知ってすぐに快諾してくれたとのことだった。
そんなエピソードを母は誇らしげに話してくれた。
母だけでなく、家族みんなでこの動画を擦り切れるほど見たのだった。


2023年6月8日。

癌宣告を受けてから約1年が経とうとしていたその日、例の推しバンドのライブDVDが届いた。僕と母が行ったツアーのファイナル公演が収録されたDVDだった。

夕飯を食べ終えた後、母と一緒にリビングで見ようと決めていた。

僕たちが行った新潟公演は収録されていないものの、実際に聴いたセトリとあの時の感動を思い出しながら見始めること30分。
ふと、隣にいる母の瞼がやけに長い時間閉じていることに気付く。それも何度も。

「眠いの?」と尋ねると、母はゆっくりと目を開け「眠くないよ」と答える。でも、その様子はどこか感情を失っているようで、僕は何となく違和感を覚えた。

本人は眠くないと言い張るが、明日また一緒に見ればいいだろうと思い、「今日は寝ようよか」とDVDを途中で停止し、その日は母を寝かせることにした。

結局、それが母と観た最期のライブになってしまった。

翌朝。
母はあまり眠れなかったようで、朝からかなり調子が悪そうに見えた。
そしていつもと明らかに違ったのは、会話があまり上手く出来なくなっていたことだった。
喋ることは出来るが、何となく感情がこもっていないような感じで、そして時々同じことを何度も繰り返し喋っていた。
癌になってからこんな症状が出たのは初めてだった。父と僕はどこか心配になり、父が急遽仕事を休んで母を病院へ連れて行くことになった。

その朝も、日課のマッサージをしていた。
出勤する直前まで母の肩をマッサージしていた最中、唐突に母がボソッと「そろそろかな」と呟いた。
その言葉を聞いて、僕は否定することができなかった。
何も言えずに母の肩を軽く叩くと、いつものように「いってらっしゃい」と母は小さく笑った。
言葉にしたくない何かの予兆を感じながら、重い足取りで職場に向かった。

ほぼ何も手につかない状態で午前中の仕事を終わらせ、休憩時間にスマホを手に取ると、病院にいる父から何件か着信が入っていたことにようやく気がつく。

折り返し電話をすると、電話口の父の声は震えていた。

父は、言葉を詰まらせながら、けれどしっかりと主治医から言われた内容を簡潔に伝えてくれた。

結論として、母は"明日亡くなってもおかしくない状態"とのことだった。

上司に頭を下げ会社を早退し、急いで病院に向かう。
病室に着くと、日常と何ら変わりのない様子の母がいて少し拍子抜けした。父の電話もあったのでてっきりドラマで見るような危篤状態を想像していたが、母はベッドで上半身を起こしていつものように父と会話をしていたのだ。
朝感じたような会話の違和感はいまだに続いていたが、それでも明日亡くなるような人間には到底見えなかった。しかし主治医によると母の状態は肝性脳症と言われるもので、癌によって肝臓がほとんど機能しておらず、それにより毒素が分解できずに脳にまで毒が回っている状態だという。それゆえに会話もおぼつかなく、すでに手の施しようがない状況とのことだった。

そんな母だったが、変なところで頭が冴えていた。
僕たちがいたのはベッドが何台か置かれている広い部屋で、母以外の患者もおり、近くに看護師さんたちが数人いるような状況だったが、ベッドのカーテンからその光景を見た母が突然、
「みなさん、私のために残ってくださってるんですよね? あの、ほんと無理なさらないでください!」
と急に笑顔を振りまいたのだ。危篤患者からの唐突な気遣いに思いがけず噴き出す看護師さんたち。しんみりしていた家族たちもみな、母の言動がおかしくてその場でつい笑ってしまった。

コロナ禍ということもあり、その日の夜は面会不能な病棟で母は一晩過ごすことになった。
「またくるね」「はいよ」そんな軽い言葉を交わしてから、家族みんなで母を見送って病院を後にして近くのショッピングモールにある定食屋で遅めの夕食をとることにした。そこはたまたま母が以前パートで働いていた店の系列店だった。そんなことを思い出しながら、冷静なのか、ふわふわしているのか分からない頭で、僕はおひつごはんを食べていた。

今夜、母が持ち堪えれば、次の日からは面会可能な病棟に移してくれるとのことだった。



そうして迎えた翌朝。
病院から父に電話があった。

「呼吸が危ないので今すぐ病室に来てください」
そう看護師から伝えられた。

僕は寝起きで、弟は出勤の直前だった。着替えだけ済ませ顔も洗わずに家を飛び出し、父の運転で病院へ向かった。

病室での情景は昨日のことのように鮮明に覚えている。

病室に着くと、ベッドで仰向けになっている母の姿が目に飛び込んできた。

口を大きく開けて、いつ止まってもおかしくないほどゆっくりとした呼吸を、全身の筋肉を使ってひとつひとつ、文字通り全力で行っていた。

僕たちのことが見えていたかどうかは分からない。瞬きもせず、視線はただまっすぐ天井を向いていた。

今にも消えそうなほど小さな火を取り囲むように、家族みんなで泣きじゃくりながら声をかけ続ける。

「最高の母だったよ...!」
「向こうでも元気でね」
「今まで本当にありがとう、ありがとうね」

するとその時、母の目から一筋の涙が流れた。

家族みんながその涙に気づいて間も無く、母は最期に全身で大きく息を吸ったのち、ピッタリと呼吸を止めた。

2023年6月10日午前10時18分。
遠く晴れ渡った空に母は旅立っていった。

母の最後の一呼吸まで見届けられたことは、送る側にとってこの上ない幸せだったと思う。


病室で亡くなってからすぐに、母の体は我が家のいつも通りの寝室に運び込まれた。家が大好きだった母にとって、こんなに早く帰って来れたのはさぞ嬉しかっただろう。体調の異変を感じてからわずか翌日の出来事。家で最期を迎えられなかったとはいえ、本当にギリギリまで自宅療養が出来たわけだ。

そうしてすぐに葬儀社が家に来てくださり色んな段取りを行い、通夜は2日後、葬儀はその翌日に決まった。

喪主である父は感傷に浸る暇もないほど忙しそうにしていたが、僕も職場への休暇報告や友人への弔問の案内などをしていたらあっという間に深夜になっていた。

もう何もやる気力は残っていなかった。けれど、一つだけ、絶対にこの日にしなければならない、と思っていたことがあった。

それは、例のボーカルの方に感謝を伝えることだった。

ご無沙汰しております。
母の件については本当にお世話になりました。
本日の朝、母が安らかに息を引き取りました。

先日ライブDVDが届き、母と一緒に半分まで観たところで母が眠そうにしていたので、また明日一緒に見ようねと話した次の日に容態が急変してしまい、そのまま自宅には帰れず最後を迎えました。
大好きな〇〇(バンド名)のライブ映像を一緒に見れたことが母との最後の思い出となり、このようなタイミングになったことに何かの運命的なものを勝手に感じております(※DVDは発売延期により、当初の予定より1ヶ月遅れで届いていた)。

朝方に私達家族が病室に駆けつけるまで、母が頑張ることができたのも、枕元に置かせていただいたメンバー様とのお写真が少なからず励みになったのだと確信しております。最後の最後まで、あの時の思い出は母にとって生きる活力でした。

これからは僕が母の分まで〇〇(バンド名)を応援させていただきます!〇〇様の温かいお言葉に母を含め私自身も本当に救われました。この経験は一生忘れません。

上記のメッセージをインスタで送ったところ、数時間後に既読がついた。けれども、しばらく待っても返信はこなかった。

感謝を伝えられるだけでも十分過ぎる。
そもそも考えてみれば、こんな一般人のメッセージに既読がつくだけでも奇跡だ。心からそう思って、眠りについた。

しかし、次の日の深夜2時52分。
まさかのお返事をいただいた。

この度はご愁傷様でした。

お母さん頑張ったね
伝わってくるよ
あの時お会いすることができて本当に良かった
とても強い方だなと感じたのを覚えています

お母さんが観た最後のアーティストになることができて光栄です
天国で続きを観てほしいね

〇〇(僕の名前)君、
今は自分の気持ちに正直になれたらいいね 
何かあったら言ってください
もうここまできたら友達みたいなもんだから

夜分遅くにごめんね
もうすぐ朝が来るけど、
よく考えたら本当に幸せなことだよね
お互い人生を全うしましょう

ではまた

涙でぼやける文章を必死に読んだ。なんて素敵で、なんて温かい言葉なんだろう。
こればっかりは母に見せることが出来ないので、母の分までしっかりと言葉を受け止めるつもりで、何度も何度もスクロールして、擦り切れるほど読み返した。

そして翌朝。
このDMを紙に印刷して母の棺に入れる準備をしていたとき、他にも何か入れてあげようと家中を物色していたところ、母がよく使っていた収納バッグから見覚えのない青い封筒を何枚か発見した。

ドラえもんのイラストが描かれているその封筒は全部で4通あり、それは母を抜いた家族の人数と一致していた。ご丁寧に家族一人一人の宛名が手書きで記されている。どうやら僕達に内緒で、母なりの遺書をしたためていたようだ。

封筒の裏面には「5月15日」と記載されていた。つまり亡くなる1ヶ月ほど前に書かれていたことになる。ちょうどその前日の5月14日が母の日だったので、ランチにパスタを奢って喜んでいた母の何気ない姿を思い出す。まさか次の日にこんな手紙を書いていたなんてまったく想像していなくて、息が止まる思いがした。

僕宛の手紙にはこう記されていた。

〇〇(僕の名前)へ

入院中に〇〇(例のボーカルの愛称)にDMしてくれて会わせてくれたこと、本当にありがとう。

〇〇(僕の名前)のDMを開いてくれた奇跡、いたずらDMじゃないと思ってくれた誠意のあふれる文面、そして会うことをスタッフに相談して実現したこと。
あの日は何から何まで奇跡づくめの日だったね。

私はあまりにも嬉しくて、写真やサインだけじゃなくて、DMのやり取りも全部友達に見せたよ。
メンバーに会えたのも嬉しいけど、本当はここまで私のことを思ってくれたのが一番嬉しかった。
見せた友達はみんな〇〇(僕の名前)の優しさに涙してました。

仕事で疲れて帰ってきても背中や足をもんでくれたり、いつも体調を気遣ってくれてたね。

結婚式や孫の顔も見てみたかったけど、欲を出すとキリがないので、あの世から見守ってるね。

素敵な家庭を築いてね。

家族に向けられた母の手紙はどれも温かく、そしてどこまでも母らしい文章で綴られていた。
家族みんなで泣きながら手紙の返事を書き、それを母の枕元に添えて、母は自宅から出棺した。

葬儀の会場では、母が好きだった音楽を読経の時間以外ずっと流していた。
病気になる前から自分の葬式で流して欲しい音楽の話をよくしていたので、改めて母らしい葬儀になったと思う。
式場では何曲かリピートしていたが、棺に別れ花を入れる際には例のバンドの曲が流れた。あの瞬間が無音だったら到底耐えられなかったと思う。何度も聴いたあの歌声と歌詞が、優しく背中を押してくれた。

葬儀を終え、火葬場にて最後のお別れをした。
奇しくもこの日は、父と母の31回目の結婚記念日だった。


後日、母のSNSアカウントにて訃報を伝えると想像以上に沢山のお悔やみをいただいた。
コメントやDMはゆうに100件を超え、母とのエピソードを事細かに話してくださる方も大勢いらっしゃり、本当に愛されていたんだなと誇らしく感じた。
56歳といういささか短い生涯だったが、充実という他ない時間を過ごしていたと改めて思う。

母の死を通じてまず思ったのは、やはり人生にはいつ何が起こるか分からないということ。10歳下の嫁に先立たれた父にとっては、そのことがより一層重く感じられているのだろう。

そして、親の死というのは、子供の人生や考え方をがらっと変えてしまうほど大きなエネルギーを持っているものなんだ、と僕は知った。
良い意味で、もう私だけの人生ではなくなったのだ。これからは母の分の縁もいただいて、しっかりと人生を全うしようと誓った。

もちろん今は癌が憎いけど、事件や事故で亡くなるのとは違い、癌という病気はある程度死への準備が出来る。
この1年間は間違いなく宝物のような日々だった。

こうして書いてみると、まだまだ他にも書きたいことが山ほど浮かんでくるけれど、キリがないのでこの辺で。

母さん、ここまで頑張ってくれて本当にお疲れ様。
やっと楽になれて、今頃思う存分推し活できてるかな。
カフェとかライブにも二人で沢山行って、年の離れた親友のような付き合いができて本当に幸せでしたよ。
そっちに行ったら、また色んなところに出かけましょうね。

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