テレビ様がお亡くなりになりました
昔、テレビは偉かった。
朝から偉かった。
昼も偉かった。
夜になると、もっと偉くなった。
ニュースキャスターが眉間に皺を寄せて言った。
「これは大きな問題です」
すると大きな問題になった。
眉間の皺の深さが、そのまま問題の深刻さだった。
浅い皺なら、たいした問題ではなかった。
評論家が腕を組んで言った。
「国民はもっと真剣に考えるべきですね」
国民は夕飯を食べながら、それを聞いた。
考えていたかどうかは知らない。
箸は止まっていなかった。
少なくとも評論家は、国民より自分のほうが真剣に考えていると思っていた。
その確信だけは、いつも真剣だった。
新聞も偉かった。
一面に載れば重大事件。
載らなければ、だいたい世の中には存在しなかったことになった。
存在するかどうかを、編集会議が決めていた。
神様の仕事を、薄給の会社員が交代でやっていた。
テレビと新聞は、世界の出来事を選び、順番を決め、重要度まで決めてくれた。
親切だった。
余計なお世話でもあった。
ところがインターネットが出てきた。
最初、テレビはあまり気にしなかった。
ネットなど若者のおもちゃだと思っていた。
ブログが出た。
掲示板が出た。
YouTubeが出た。
SNSが出た。
それでもテレビは偉かった。
「ネットにはデマが多いですからね」
もっともである。
テレビにはデマが一度もなかったかどうかは、ここでは考えないことにする。
考えないことにする、と書いた時点で、もう答えは出ている。
そのうち、視聴者がおかしなことを始めた。
テレビを見ながらスマホを見るのである。
テレビが言った。
「専門家によりますと」
視聴者は検索した。
専門家は別の場所で、少し違うことを言っていた。
同じ肩書きで、正反対のことを言っている専門家すらいた。
専門家という肩書きは、意見の一致を意味しないらしい。
これは新発見だった。
視聴者にとっては。
専門家にとっては、たぶん最初から知っていたことだった。
テレビが言った。
「この問題について詳しく見ていきましょう」
視聴者は動画を二倍速で見始めた。
詳しく見ていくつもりのテレビと、早く終わらせたい視聴者。
利害は最初から一致していなかった。
まずい。
非常にまずい。
生徒が教科書以外の本を読み始めたのである。
しかも教師の話している最中に。
テレビは怒った。
「ネットの情報を鵜呑みにしてはいけません」
正しい。
だが視聴者は思った。
テレビの情報だけを鵜呑みにするのも、同じではないか。
鵜呑みという言葉を使う人間は、たいてい自分の出す餌だけは鵜呑みにしてほしいと思っている。
ここで、長年続いた奇妙な関係が崩れた。
テレビは、視聴者を客だと思っていなかったのである。
生徒だと思っていた。
しかも、あまり出来のよくない生徒だと思っていた。
難しいことは専門家が説明してやる。
重要なことは編集部が選んでやる。
何を怒るべきかも教えてやる。
どこで感動するべきかも教えてやる。
天気まで教えてやる。
ずいぶん親切な学校である。
退学できないことを除けば。
授業料は、CMという名前で毎回きっちり徴収されていた。
ところがスマホが、その学校の壁に穴を開けた。
視聴者は勝手に外へ出た。
別の授業を受けた。
外国のニュースを見た。
専門家の原文を読んだ。
本人の発言を直接聞いた。
知らない人の解説も見た。
デマも読んだ。
陰謀論も読んだ。
くだらない動画も延々見た。
猫も見た。
猫だけは、どの時代も裏切らなかった。
そして、だんだん分かってきた。
世の中は、テレビが言うほど整然としていない。
専門家同士でも意見は違う。
政治家の発言は、切り取り方で意味が変わる。
新聞によって見出しも違う。
事実というものは、一個の立派な石ころのように道端に転がっているわけではない。
みんなで引っ張り合っている。
引っ張る力が一番強い者の手に、とりあえず落ち着いているだけである。
そこへAIまで出てきた。
これはテレビにとって、かなり嫌な客である。
視聴者が聞く。
この人、前は違うことを言っていなかったか。
昔なら、そんな疑いは酒の席で消えていった。
今は消えない。
覚えている奴がいるからである。
人間ではない。
機械が。
以前なら翌日の新聞まで待った。
今はその場である。
評論家にとっては地獄である。
昔なら堂々と間違えられた。
翌週には誰も覚えていなかった。
忘却という名の、業界最大のスポンサーがいなくなった。
もちろんネットもひどい。
デマだらけ。
罵倒だらけ。
妙な健康法。
怪しい投資。
陰謀論。
昨日までラーメンの写真を上げていた人が、今日は国際情勢の専門家になっている。
明日には占い師に戻るかもしれない。
なかなか自由な世界である。
だからといって、テレビが自動的に正しくなるわけではない。
泥棒が多い町だからといって、交番の警官が全員聖人になるわけではない。
オールドメディアはよく言う。
「信頼できる情報が必要です」
その通りである。
では誰を信頼するか。
そこを自分たちで決められると思っているところが、まだ少し古い。
決めるのは、もう視聴者のほうである。
しかも視聴者は、その権利をあまり丁重には扱わない。
これからテレビも新聞も消えないだろう。
たぶん生き残る。
ただし、昔のようには戻れない。
国民全員が同じニュースを見て、同じ司会者の顔を見て、同じ時間に同じ話題について考える。
そんな時代は終わった。
テレビが負けた相手はYouTubeではない。
Netflixでもない。
SNSでもない。
AIでもない。
視聴者自身である。
長いあいだ黙って座っていた生徒が、ある日突然、机の中からスマホを出した。
そして先生に言った。
「先生、それ本当ですか」
先生は答えた。
「ネットの情報を鵜呑みにしてはいけません」
生徒はうなずいた。
「はい。だから先生の話も調べます」
その日、テレビは初めて、視聴者と同じ高さに立たされた。
椅子から降ろされて気づいたのは、そこがずっと、ただの床だったということである。
