解約できない世界で、私はテレビを手放した(N局の執念)
10年くらい前のことです。
テレビを手放した。
正確には、小学校時代からの親友に押し付けた。
部屋が少し広くなった。
静かになった。
どうでもいい情報に時間を食われることも減った。
はればれした。
それで終わりのはずだった。
終わらなかった。
数日後、私は電話口で尋問されていた。
かなり高圧的に。
相手の声は、人間というよりも制度が喋っているような、不思議な均質さを持っていた。
役所でも警察でもない。
かといって民間企業とも呼びたくない。
強いて言えば、
「義務の化身」とでも名付けるほかない存在だった。
「本当にテレビはありませんか?」
あるわけがない。
さっき人にあげた。
「どなたに?」
友達です。
「お名前は?」
ここで、世界が少し歪む。
なぜ、と思う。
なぜ私の部屋から消えたテレビの行き先を、
国家でも警察でもない組織に説明しなければならないのか。
そもそも、なぜテレビがどこへ行ったかが、
「義務の化身」の関心事なのか。
テレビはただの家電である。
冷蔵庫をあげても電話はかかってこない。
洗濯機をあげても誰も追いかけてこない。
しかしテレビは違う。
テレビには魂が宿っているのだ。
正確に言えば、魂ではなく、受信料が宿っている。不気味だ!
あれは家電ではない。
呪いのやばいもの。
一度手に入れたら、勝手に契約を増殖させる。
「個人情報なので言えません」
正しい答えのはずだった。
教科書的に。倫理的に。常識的に。
しかし、現実は常識でできていない。
「それでは解約できません」
なるほど、と思った。ところが私のよわいところ。
ここで初めて、ルールが理解できた。
これは契約ではない。
リレーだ。
テレビは、バトンだったのだ。
持っている者が走る。
そして、次の走者に渡す。
渡された者が、また走る。
問題は、バトンを落とした場合だ。
そのときレースは止まらない。
落とした人間が、拾うまで走らされる。
どう考えてもおかしい。
私はバトンを手放した。
確かに渡した。
しかし、審判はそれを認めない。
どう考えてもおかしい!
次の走者がちゃんと走っているか確認できるまで、
お前はまだ走者だ、と言う。
奇妙なスポーツだった。
いや、スポーツですらない。
スポーツには終わりがある。ゴールがある。
この競技には、ゴールがない。
あるのは、
「支払いが確認された瞬間」だけだ。
支払いが確認されなければ、
走者はいつまでも走り続ける。
死んでも走るかもしれない。
遺族が代わりに走らされるかもしれない。
調べていないが、十分ありえる話だと思っている。
結局、親友が受信料を払っていることが確認されて、
私はようやくコースの外に出ることを許された。
自由は、証明された。
私がテレビを持っていないからではない。
「別の誰かがちゃんと払っているから」笑った!
そのお友達、受信料払ってくれていてありがとう。
へんな感謝をした。
この世界では、
事実よりも安心が優先される。
「持っていない」は信用されない。
「誰かが払っている」は信用される。
つまり、この組織が本当に恐れているのは、
テレビのない部屋ではない。
金の流れが途切れることだ。
受信料という名の血液が、どこかで滞ること。
世の中結局、金、金、金
その恐怖が、「義務の化身」をして
私に電話をかけさせ、
友人の名を求めさせ、
個人情報の提供を迫らせた。
人は、契約に縛られているのではない。
「不信」に縛られている。
そしてもうひとつ。
契約は、モノに付いているのではない。
人に付いているのでもない。
「流れ」に付いている。
テレビがどこへ行ったのか。
金がどこへ流れるのか。
その流れが途切れた瞬間、
誰かが捕まる。
今回は、たまたま私だった。
次は、あなたかもしれない。
なに、心配することはない。
テレビさえ買わなければいい。
最初から持たなければいい。
ただし、それはそれで、
「受信設備がない」という事実の証明を求められる可能性がある。
持っていないことを、
持っていない者が証明する。
この世界では、
それが「普通」と呼ばれている。
「普通」は恐ろしい。
